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#自己紹介,瑚心すくい(こころすくい)トランスジェンダーで境界性パーソナリティー障害のイタいプロフィール

#自己紹介
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あだ名は「おうちゃっく君」(嘘)

私の「境界性パーソナリティー障害」は、思えば既に小学生からあったように思います。皆さんの中にも経験のある、ランドセル背負ってて落ちた体操着拾おうとしたら、ランドセルの中身が全部どぶ水の中に落ちたこと、ランドセルを背負ってないの気づかずに学校へ行ったこと。
あーなんでかな~。靴を履かずに下駄を履いて学校へ行ったこと。(なんで下駄履くのよ~。)

誰でも親には怒られる

ハーモニカで「かっこう」を練習してくる宿題。母親は夜になって突然ランドセルをチェック。中から出てきた宿題ノートに書かれてあるのは、「ハーモニカでかっこうを吹けるようになってくること」。母親の眉間にしわが寄る。「ハーモニカ持って裏ついてらっしゃい。」(ゾーッ!)

「♪ソミッソミッーれろれろ~・・・」バシーッ(びんた一発目)
「レレミ、ふぁーれー、ミミファ、そ~~・・・」ビジッ(二発目)
「今度、間違えたら、この砂場に顔を突っ込むよ」(グググッと頭部を押される)
「そのあと、珍しく父親が助けてくれた」。母親は「チッ!」。

弟とは6つ違い。ある日わたくしは工作で日曜日にプロペラ機をつくってもらった。嬉しかったです。そしたらヨチヨチ歩きの弟がこっちへ来て人差し指で羽根に「ボソッ」と穴をあけました。瞬間。「フワーッ」
小学3年生のわたくしの体は宙を舞っていました。そうです。父親の背負い投げで地面に全身叩きつけられました。(声が出ない~イターイよ~)

そこにいた友達は、「こいつのお父さん怖いぞ!」
っていって、ダーッ!って皆去っていきました。

日本は札幌オリンピックと大阪万国博覧会で大盛り上がり!

小学3年から5年生まで石川県金沢市在住。札幌オリンピックで日本は大盛り上がり。授業中も先生がテレビをつけてジャンプの応援!わーい。
ある日雪の降る中、傘をライフルに見立てて背中に背負って、友達とバイアスロンを真似して帰宅へと行く筈だった。

雪国育ちでないわたくしはなかなか前に進みません。友達は「スーイスーイ」と軽やか。わたくしは坂道も登れません。右へ左へ倒れては起き、倒れては起き、途中でやっと諦め、スキー板を担いで帰ることに、落ちは雪でふさがれている川へ「スーッドン!」(助けて~)体はずぶ濡れで悲しい。

そしたら母親が買い物帰りだったようで、穴をのぞき込んで「なんでこんなところで遊んでるん?早く帰って宿題しーや。」と去っていく(いや、助けろよ。)結局心配した探してた友達が指さして笑いながら助けてくれた(なんなんだよー。)次の日は熱を出して学校を休みました。

私は陸上部のキャプテン

中学生(静岡県)になりまして、陸上競技(女子テニス部のコートを何度も横切れる)と音楽に目覚め、モテ期を作ろうと懸命でしたが、転校で小学校以来2度目の大阪に参上しました。

そうしたら、新設校で陸上部はありません。3年生の不良は怖いです。しかしわたくしは先生に直談判して陸上部をつくりました。キャプテンです!部員はわたくし一人です!わたくしは当時人気だったサッカー部と野球部にはじかれ、学校の外回りをランニングする寂しい日々、・・・は少しの間で毎日バレーボール部や体操部へ遊びに行って一緒に部活ってました。

そんなある日、「入部したいんですけど」同級生のかわいい「由美ちゃん」が部員になったのです。

まっ!まっ!真面目にならなければ、わたくしは静岡県で練習メニューにあったことを指導も交え「由美ちゃん」とこなしていたら、1年男子後輩が数人「僕たち、陸上部に入りたいんですけど」と、あっという間に、部活っぽくなり、しばらくしたら男子同級生もバレーボール部や体操部の合間に遊びに来るようになり、いかにも大所帯になったのです。

後から女子同級生が数人部活に入部してきて「由美ちゃん」と付き合いなよ~。ってうるさいんです。じゃあ~付き合おうか~なんていって淡い恋が始まったのですが、3か月後、由美ちゃんが「私、本当は好きな人がいるんです。」(ガビーーッン!もっと早く言えよ~)。もう書かない。

私はアーティストへとなっていく

中学生の頃は女の子になりたい、が最初は小さかったんですが、日に日に膨らんできて、自傷行為が止まらくなったのです。(腕を枯れぎでこすりつけて血だらけになる)3年生になって孤独だったので心は荒んでました。

中学3年3学期に和歌山県に転向し、右も左もわからず、教室では不良軍団の机に囲まれていました。しかしめげずに机にピアノの鍵盤を書いて練習してたら不良はちょっかいを出してきませんでした。(なんでや~)

そんなわけで目指す高校等勝手に先生に決められ、無事進学。陸上部に入りましたが、体を壊してしまい、ピアノが弾ける「合唱部」へ。そんな時、家にも父親が母親のためにと電子ピアノが登場したのでした。

わたくしも練習させてもらい合唱部でも発声練習や色々な合唱曲のピアノ伴奏をする羽目になります。一方では色んなバンドから男性キーボードをやって欲しいと様々なジャンルにトライさせてもらって勉強になりました。

音楽音痴の私が大阪芸術大学音楽学科へ進学!

人生、何が起こるかわかりません。
そんなわたくしに大学進学の話が先生から、最初は普通の大学の受験を勧められましたが、どうせやるなら音楽を極めたいと先輩が大阪芸術大学ピアノ科だったので、相談して一大決心して音楽学科に挑戦しました。

合唱部の顧問の木本先生(女性)は「おっ、おっ、お前が芸大だと???、無理に決まっているやろ!!!」と一喝。両親、担任、顧問から(無茶するかー。)と冷たい視線と断念説得の言葉。

しかし、晴れて合格いたしました~!!!(執念)

合唱部の顧問は「おっ、おっ、お前が芸大合格だと、どんな手を使ったーー!」。いや両手を使ってピアノを弾きました。へへっ。

私はトランスジェンダー(元名・性同一性障がい)Ⅰ

ここまで、そんなに触れていませんでしたが、わたくしは物心ついたころから「女の子」になりたかったのです。まだ当時はコンピュータのインターネットが普及しておりませんでしたので情報は全くありません。

小学生と中学生・高校生では女の子の友達を作って一緒になって話をするのが精一杯。男友達のところにあった縫いぐるみをずっと抱っこしてたり、母親に女性っぽいピンク色セーター編んでもらったり、これも精一杯。

今思えば、大学生が一番カミングアウトしやすかったかなっ、って思っています。二十歳頃だと就職にも間に合うし、顔立ちやスタイルもわかり難いしというのに機会を逃した気がします。

大阪芸術大学音楽学科、音楽工学専攻に入学

大学ではピアノに専門的な音楽理論の授業と音楽工学専攻だったのでスタジオワークや舞台音響の実習等で1・2回生は先輩の手伝いで3・4・5(5?)回生は後輩を使いまくり。楽しかった~。

しかし何故か女子が多い音楽学科だったのに、できる友達は他の学科の男子ミュージシャン志望のやつらばっかり。後輩で化粧している男性がいたけど羨ましかった~。

余談ですが、学校は大阪、実家は札幌、本家は博多と帰省は決まって飛行機。わたくしはいつもベースギターに預ける札の切れ端をギターに巻いていたので、段々巡業するあたかもミュージシャンでした。忘れもしません。ハウンドドッグが大阪のマイナー番組に出演した翌日。空港でバッタリ会いました。

皆さんもわたくしの方を見て(ミュージシャンだ?)って顔。わたくしは大友康平さんの元へ行って握手をしました。「昨日のライヴ良かったです。」ニコッ、っと。相手の皆さんは「ありがとうございます!?」(半信半疑)

大阪芸術大学音楽学科音楽工学研究室賞を受賞

さあ、3回生になって4回生の卒業計画企画書を教授へ提出。「お前さん、これじゃあ1年で卒業できないから、こっちやって」(がび~ん!)
スタジオ制作をすることになってしまいます。

それから先輩や実家の母親に相談の毎日。「お母さんやりたいことあるねん。留年したらダメかな?」「あなたのやりたいことやったらやり。」授業料のことで後ろめたい気がしましたが、決断です。5回生が決定しました。教授は「そうか、これやるのか!よし頑張って」と励ましの言葉。先輩も応援してくれました。

長野県に北小谷村というところがあってそこにある諏訪大社分詞で江戸時代から伝わっている変わった祭りがあるのです。それを題材にその地域一帯の音を採取してスタジオで加工して作品を作るのですが。

なんせ田舎ですからバスが来ない。歩いて一山二山越えて色々村の方に話を聞いて、土産に野沢菜の漬物もらったり、教授や後輩たちと山の上の家を借りて(普段からボーイスカウト等が利用している)10日間の山籠もりを2年にわたり何度か重ね、教授からの勧めで映画「楢山節考」(姥捨て山の話)を皆で観戦しにいったり、わたくしの中で何か世界観が創造されて行きました。

3回生から3年かけて収集した音源や資料を基に論文を書き、音楽作品を制作し卒業計画として提出しました。(大作です。)

年が明けて間もなく卒業。卒業制作展があり、音楽学科の実行委員長に選ばれ制作展の総指揮に。ある日先生に呼ばれ「音楽工学研究室賞」を貰えることを聞きました。(お母さんありがとう、そしてみんなありがとう。)

ヤマハ音楽教室に就職、そして結婚

わたくしは音楽が生かせる仕事を探していましたが、「おうちゃっく君」は大学で情熱を燃焼しきって、適当に就職先を選んでしまいました。それが地獄の始まりです。
それが「ヤマハ音楽教室」です。詳細は、以下をご参考にしてください。

とにかくヤマハ音楽教室では結構認めてもらっていたので好きに仕事をやらしてもらってました。半面虐待もありーの、プレッシャーもありーの、そして30歳で晴れて悪妻と結婚(最初は気が付かなかったんでスー。騙されたんでスー。)

わたくしの収入は妻のグランドピアノや100万を超える代わる代わるエレクトーン数台に消えていきます。

どうですか、社長の側近が机を真正面に構えているのに3か月間も口をきいてくれないなんてザラですよ。結局、うつ病やフットサルで名誉の骨折(これは遊びでした。居酒屋仲間とアルバイトの高校生チームでワントップ!)で退職する数年前にヤマハ関西でトップ賞を取り「北海道旅行」のサービスを最後に会社にいても何故か目の敵。

もっと20歳代のバブル全盛に転職しておけばよかった。っとその時は思いました。なんせ大学でコンピュータに初めて触れて(フォートランっていうプログラムなんですけど)社会人でコンピュータミュージックの先駆けですよー・・・。で退職、っと。で離婚、っと。

私はトランスジェンダーⅡ

最初は苦難の道でしたが、途中から、何か自由になった気がして「これでトランスジェンダー」としていきていけるかも知れないと感じていました。

ただ会社に勤めていた時から部下で従順だった子が彼女になって、(また、コソコソ隠れて女にならなきゃいけない。)まあ、わたくしもサラリーマンから普通の人になってしまいました。

世はインターネットの時代です。わたくしはトランスジェンダー交流バーを見つけ彼女に隠れたまに女として通っていました。しかし数年後にはカミングアウトしました。彼女には訳が分からなかったかも知れませんが、カミングアウトしてからは肉体関係も徐々になくなり今は一人の人間として愛し愛されあっています。

私がやっている今の仕事と人としての使命

LGBTQの講演にはたまにですが呼ばれます。でも50歳くらいの時に地域の施設で人権問題(私の場合は「うつ病」理解がテーマ)や地域貢献(住民と一緒になってサークルの展示会や屋台を広げる等のイベントをやっていました。)

それと世間ではバブル崩壊後の自殺者や失業問題で厚生労働省からも色々提案がなされていましたし、わたくしは「うつ病」の講演企画の延長でメンタルヘルスについて勉強し、「職場のメンタルヘルス」「ハラスメントとは?」「過労死と長時間労働」などについて企業向けに講演をしたり、「ポジティブサポーター養成講座」をしてわたくしの次世代を育成しています。

こんな時代ではありますが、国連上げて世界中がSDGs「誰一人置き去りにしないために」に小学生から企業や団体まで取り組んで、日本は今Society5.0という科学技術の変革を起こし社会経済環境の新時代に取り組んでいます。わたくしも年が明けて2月になれば60歳です。いつのまにか高齢者ですね。でも健康で精力的に生きていきたいと願っています。

(瑚心すくい)

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