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自己紹介|心をデザインする。

どうも、こんにちは。

古岩井です。

今回は初めてのnoteということで自己紹介をしたいと思います。

最後までお付き合い頂ければ幸いです。

1.今までの人生

名前の由来

古岩井 脩理(こいわい しゅり)と申します。

名前自体がかなり珍しく、下の名前はほとんどの方が読めないのではないかと思います。祖父が大工だったことに由来していて、昔の宮大工を「修理式(しゅりしき)」と言ったことから「しゅり」と父に名付けられました。ただ、「修理」だと物を直す修理と混同してイジメられるかもということで「脩理」という名前になったそうです。

また、子供の頃に名前の由来を聞くと「一生、勉強するって意味だ」と父に何回も言われました。確かに、名前を分解して見ると「理(ことわり)を修める」という意味なので、子どもの私に分かりやすい様に教えてくれたのだと思います。

珍しい名前のおかげで学校の入学式では、すぐに名前を覚えてもらえるので便利だなと思ったことがあります。それだけではなく「しゅり」という名前は呼びやすいということで「しゅりちゃん」と呼ばれることが多かったです。(今でも妻にはそう呼ばれます。)

子ども時代(~13歳)

年齢は平成元年生まれで、出身は東京の下町です。子どもの頃の家の周りは小さい工場や公園が多かったです。(今はマンションだらけですが)なので、中学生くらいまでは学校が終われば、部活か近所で遊び回っているという感じでした。

父がソフトテニスをやっていた影響で小さい頃から二十歳になるまで、ずっとソフトテニスをやっていました。小学校、中学校、高専とテニス漬けの毎日でした。最初は嫌だったのですが、最後の方では続けてて良かったなと思いました。ソフトテニスを通じて、努力することの大切さや自分よりも強い人にどう立ち向かえば良いか学べました。

余談ですが、私には姉と妹がいて、みんな父から部活(スポーツ)をやるように言われていました。なぜ、そうするのかと父に聞いたところ「自分が絶対に敵わない相手に会うため(うる覚え)」と言われました。

最初は「何言ってんだ?」と思いましたが、要は困難に立ち向かうことを伝えたかったのかなと思いました。自分だけではどうにもならない問題に対して、お前はどうするのか?というのを部活(スポーツ)を通して伝えたかったのかもしれません。

中学時代(13~15歳)

中学3年生の頃、進路を決める時に「一番になれるものが欲しい」と思い、他の人とは違う高専という道を選びました。私が選んだ高専は「航空工学科」があり、飛行機への憧れと募集人数が少なかったので、その中であれば、一番になれると思い、飛行機の設計者になる道を選びました。

そもそも、なぜ「一番になれるものが欲しい」と思ったのか思い返してみると勉強もスポーツも自分より優れている人たちが周りに多かったからだと思います。勉強は3年間で1回だけ学内テストで100人中15位でしたが気を抜くと全体の半分より下という有様でしたし、部活もレギュラーになれたのは3年生の最後の方だけでした。たぶん、顧問の先生が配慮してくれたんだと思います。

そういった状況だったので、なんだか自分には価値が無い様な気がしていました。そんな時に母が都内の高校が載っている本を買ってきて、高専というのがあることを教えてくれました。その中でも航空工学科というのが自分の心をワクワクさせてくれました。飛行機ってカッコイイなというのと「自分の作った飛行機に乗れたら良いな」という小さな夢を持ちました。

まぁ、母としては、高専の就職率100%というのが魅力的だったのかもしれないですが(笑)

その後、必死に勉強したかいがあって高専に合格することが出来ました。合格の最終倍率は2.38倍、嬉しさの反面、自分が受かったことで誰かが落ちたんだと考えたのを覚えています。

高専時代(15~20歳)

高専は5年制なのですが、私のいた学科は40名で1クラスしかない為、5年間ずっと同じメンツでした。また、男女比が9:1くらいなので、ほぼ男子校でした。良くも悪くも距離感が近く、5年生になる頃には、完全に馴れ合いになっていました。(それはそれで楽しかった。)

高専時代は、勉強と部活で一瞬で過ぎ去りました。高専は、普通の高校と違って大学受験が無い分、勉強以外に使える時間が多く、私はずっと部活に取り組んでいました。バイトもしていなかったので、部活が無い日は父がコーチをしている地元のテニスクラブに通っていました。ほぼ毎日、ソフトテニスをしていたと思います。

卒業する頃には勉強を頑張ったかいもあり、最後の成績表で学科内で1位を取ることが出来ました。これで「一番になれるものが欲しい」と思った中学3年生の私は成仏できました。

会社員時代(20~27歳)

高専卒業後は名古屋と岐阜にある社員数が70名くらいの飛行機の設計会社に就職しました。社員の平均年齢は27歳と若く、社長も40歳で若いエネルギーに満ちた会社でした。その中で民間航空機の設計業務に従事して、全部ではないですが、自分が設計に携わった飛行機に乗ることができました。ここで「自分の作った飛行機に乗れたら良いな」という夢は叶えられました。

その後、23歳の時に転職をして社員数が7000人くらいの上場企業に入社しました。社員数だけでみれば前職の100倍くらいの規模で、色々なこと(特に福利厚生や手続き関係)が天と地ほども違うのに驚きました。人間関係も前よりドライになった気がしました。ちなみに勤務地は栃木県の宇都宮で、東海から関東に帰ってこれて嬉しかったです。この頃は、週末に東京へ帰って友人と一緒に遊んだり、社会人イベントを開催したりしていました。

その時に出会ったのが今の妻でした。

個人事業主時代(27歳~)

平日は仕事をして、週末は社会人イベントに参加や開催をしていく中で、色んな生き方をする人たちと話す機会が増えました。そういったことを続けていくうちに「今のままの人生で良いんだろうか」と考える様になりました。そして「一人でも生きていけるチカラが欲しい」という気持ちが段々と大きくなっていきました。

まず、自分で何かを始めようと思い、27歳の時に今までイベントを開催してきた経験やノウハウを活かして個人事業主や店舗向けに「集客アドバイザー」として週末起業を始めました。周りの人たちのアドバイスや助けもあり、食べていけるだけの売り上げは作れたので、会社を辞めて個人事業主になりましたが、結果として上手くはいかなかったです。

この時に自分の見通しの甘さと浅はかな考えを呪いました。自分の人生で一番辛くて貧乏だった時代だと思います。前に進むこともできず、かと言って後ろに戻ることもできない、そんな状況でした。

昔、知り合いの社長さんに「いつか地面に落ちている100円でも舐め取りたくなる時が来る」と言われたことがありました。その時は「そんな日は来ないでしょ」と思っていましたが、100円どころか1円が本当に惜しいという経験をしました。1円が足りなくて諦めたことが何回もあります。貧しいというのは本当に恐ろしいことなんだと身に沁みました。そして、それを今まで経験しなくて済んだのは両親のおかげだったのだと理解しました。

また、同棲していた今の妻(当時は彼女)にも数え切れない程、迷惑をかけました。お金のことでケンカもたくさんしましたし、別れた方が彼女の為なのではないかと何回も思いました。男性として大切な女性を傷つけてしまう自分に不甲斐なさと情けなさを感じていました。

たぶん、彼女自身、欲しいものや行きたい場所がたくさんあったと思います。それを私のせいで我慢をさせてしまいました。本当なら楽しい思い出をたくさん作れたはずです。

そんな状況でも彼女は私を励ましてくれました。お客さんが来ないときは「しゅりちゃんが先進的過ぎて、周りが良さを理解できてないだけ」とか、もう今の仕事が無理かもしれないと伝えた時は「しゅりちゃんができる仕事なら何でもいいんだよ」と言ってくれました。

こんなどうしようもない人間に優しい言葉なんかかけないでくれと思いましたが、それと同時に彼女が自分のことを信じてくれるなら、自分も自分自身を信じてみても良いかもしれないと思いました

個人事業主になって失ったものはたくさんあります。お金、時間、チャンスなど数え切れない程です。それを取り返すことは永遠にできないと思います。だからこそ、これからどうするかを考えなければならないと思いました。そして大切な彼女を「ダメな男に尽くした女」にする訳にもいかないと思いました。

そこから問題と向き合い、状況を改善するために行動を開始しました。まず、ピータードラッガーの「強みのみが成果を生む。弱みはたかだか頭痛を生むくらいのものである。しかも弱みをなくしたからといって何も生まれはしない。強みを生かすことにエネルギーを費やさなくてはならない。」という言葉を思い出しました。

その言葉を嚙み砕いて、自分の強みが何かを見つめ直しました。集客という領域では競合が多すぎるのでもっと領域を絞って、辿り着いたのが「コミュニティマーケティング」でした。元々、コミュニティを活用した集客方法が得意だったので、そこを強みとしてコミュニティの事業をとしている企業に売り込みにいきました。その中の一つに社員採用をしてもらい、まずは安定した収入減を確保することが出来ました。

その企業でコミュニティマーケティングを中心とした実務を積み、実力がついたところで再び、個人事業主に戻りました。

そして、自分に自信がついたので、31歳の時に彼女に結婚を申し込みました。彼女は承諾してくれて、妻になりました。結婚記念日は私の誕生日と同じ日にしました。年を取ってボケても忘れない様にです(笑)

妻曰く「年末までにプロポーズがなかったら、自分から言おうと思ってた」とのことで、危なかったです…。

現在

今は、生活が安定して忙しいながらも充実しています。自業自得ではありますが、20代後半から30代前半は、本当に大変な思いをしてきました。ただ、そのおかげで人間として成長できたと思います。(妻には本当に申し訳ないです…)

たぶん、これからも辛いことや悲しいことがたくさんあると思います。今まで経験した以上の挫折を味わうかもしれません。それでも、現実と向き合って、問題を解決して、状況を良い方へ変えられる自分になりたいと思っています。

2.noteを始めた理由

noteを始めた理由は2つあります。

1つ目は、これから出会う人に私の価値観を知ってもらうことです。

私は仕事でもプライベートでも新しい人によく会います。実際にお会いする前に打ち合わせをすることも多く、その時に「私はこんな人です」と分かるものが欲しいなと思っていました。

私のSNSを見てもらうだけでも良いかもなのですが、私の価値観をしっかりと見てもらった方がスムーズに話が進むと考えています。

そこでブログとして、使いやすいnoteを選びました。

2つ目は、今まで学んだことや気付きをどこかに残しておきたいと思いました。

私は今まで色んな人たちからのアドバイスや昔の偉人の言葉に救われてきました。こういったものが無ければ、私の人生はとっくに終わっていたと思います。

できれば、私の学びや気づきも誰かの助けに少しでもなれば良いなと思っています。

3.noteで伝えたいこと

ブログを始めるにあたりコンセプトを決めました。それは「心をデザインする。」というものです。

私が今までの人生を通して学んだことは、自分の心が人生の良し悪しを決めているということでした。

心の中に楽しいことや嬉しいことを詰め込めば、気持ちがワクワクして周りの人や風景が輝いて見えます。逆に悲しいことや辛いことを詰め込めば、気持ちは暗くなり、明日を迎えるのが怖くなります。

結局のところ、この世界は明日も明後日もその先も変わりませんし、私たちに何かしてくれる訳ではありません。それよりも自分自身がこの世界をどう捉えるかにかかっています。

もっと言えば、人生そのものに意味はありません。人生の意味は誰かに与えられるものではなく自分で決めるものです。

私は、私に関わってくれる全ての方に人生が豊かになることを意図的に心に詰め込んで欲しいと思っています。それが心をデザインするということだと考えています。

悪意のある情報やネガティブな感情で心を埋めるのでなく、自分の部屋にお気に入りのインテリアや家具を置く様に自分の心が豊かになる様なもので満たして欲しいのです。

なので、このブログでは見た人の人生が豊かになることをベースに情報を発信していきたいと考えています。

4.最後に

少し長くなってしまいましたが、ここまでを私の自己紹介とさせて頂ければと思います。

自己紹介と言いつつも、書きながら自分の人生を振り返る良い機会になりました。

また、何か相談したいことやリクエストしたいことがあれば、下記のリンク先のラインを友達追加して頂ければ、私とコンタクトが取れる様になっていますので、必要に応じてご利用下さい。

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これから宜しくお願い致します。


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