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あと19回お祝いしたら大人になるあなたへ

先日息子が1歳になった。
当日いただいた たくさんのお祝いメッセージは、以前は存在しなかったはずの新しい命が確かにここに存在していることを実感させた。
そうか。この世に存在するということは人の感情を引き起こすということなのかもしれないな。

(生後2日目の息子。かわいい、、、)


いつからだろうか。
本屋さんで真っ先に絵本コーナーに行くようになったのは。
自転車に乗った高校生の男の子を見て寂しさをおぼえるようになったのは。

誰かの誕生日になると、その人が生まれた何年前かの今日に思いを馳せてしまうし、インスタで赤ちゃんの写真を見ると、その写真を撮っているパパやママの愛おしい視線が目に思い浮かぶようになった。


どうやらこの2年(あえてこう書こうと思う。彼がお腹の中にいる頃から、という認識の方がしっくりくる…)で私はすっかり“母”になったらしい。

思えば 彼に出会ったことで、初めて抱いた感情、価値観がいくつもあった。
今日はそれを徒然なるままに書こうと思う。


まず一つ目は【自分がいなくなった後の世界を想像して目標を決めるようになったこと】だ。
これまでは「人生の最期をゴールとしてそれまでをどう自分が過ごしたいか」をイメージしてたけど、今は「自分が生きているうちに家族や友達のために何ができるか、この社会に何を残せるか、ちょっと大げさだけど、世界をどう良くできるか」みたいなことを意識するようになった。
そこから導かれる「自分がやりたいこと」は、結局これまでとあまり変わらないのだけど、それが湧き出てくるまでの視野が“ぐぁん”と大局的に広がった感じ。
出産を通して「人間この世に生まれてきていつか死ぬんだ」ということを強く意識したからだと思う。

二つ目は【自分のこれまでの人生が全肯定されたこと】だ。
とはいえ私は、息子と出会う前も「自分の人生に100%満足しているか」と聞かれたら「YES」と即答しちゃうくらいには自分の人生が好きだった。でもそれがより強くなった感じがする。
だって あの時のあの高校を選択して、この仕事に就いて、この人と結婚をして、、、だからこそ彼が生まれた。どれか一つでも意思決定が違っていたら今の息子には会えなかったかもしれない。
そういう意味では“この人生に満足”というよりも“この人生でよかった”という安堵の気持ちの方が大きいかもしれない。
過去の自分に感謝したいな。

三つ目は【自分の両親についてもっと知りたくなったこと】だ。
自分が親になって、両親に対する尊敬や感謝の気持ちが強くなったのはもちろんのこと、両親が一人の人間として、何を考え、何を感じ生きてきたのかをより深く理解したくなったのだ。そう思うようになったのはきっと、「父親」「母親」というのは彼らにとって単なる一側面にしかすぎなくて、彼らのアイデンティティそのものではないのだ、ということを自分が親になって改めて感じたからだろう。
これまでも、二人の想いをきく機会がないわけではなかった。
でも、小学校の宿題で「名前の由来」をきいた時も、結婚式で手紙をもらった時も、その言葉は“父としての” “母としての”想いであって、一人の人間としての想いはまた別にあったような気がする。
父や母が、一人の人間として、どのような人生のストーリーを歩んできたのか、その中で子育てがどういう意味を持っていたのか。
今の自分ならそれを娘としてではなく、一人の人間として、きくことができる気がする。

そんなことを考えながら、夫へ「これから毎年息子の誕生日には手紙かかない?いつかの彼に向けて。」と提案した。
“母”としてではなく“島津綸子”として。
等身大の25歳の私を未来の息子はどう思うんだろう。
隣で泣きながら手紙を書いている夫の気持ちを知ったとき、息子は何を感じるんだろう。


最後はその手紙を一部抜粋して終わろうと思う。

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〇〇くんがね、本当に毎日毎日あまりにもかわいくて、愛おしいから、あぁ本当に私生まれてきてよかった〜と思うし、私生きてる〜って感じがするの。でもそれと同時になぜか死ぬ覚悟もできるんだよね。不思議だよね。もちろん〇〇くんとは少しでも長く一緒にいたいんだよ、おじいちゃんになった〇〇くんとも話したいし。でも、あぁ あなたがこうして存在してくれているならもう大丈夫だ、て思うの。
〇〇くんのおかげで私毎日が本当に幸せだよ。ありがとう。これから少しずつ、恩返しさせてね。
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