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『ある生涯の七つの場所2』100の短編が織り成す人生絵巻/夏の海の色 第一回

連作短編『ある生涯の七つの場所2/夏の海の色』その第一回です。「黄いろい場所からの挿話Ⅷ・Ⅸ」「赤い場所からの挿話Ⅷ・Ⅸ」の紹介です。『ある生涯の七つの場所』についてはこちらをご覧ください。

「ある生涯の七つの場所2/夏の海の色」文庫 takizawa蔵書




1.「黄いろい場所からの挿話」「赤い場所からの挿話」について

ここで一度、ここまでの、それぞれの物語の全体像についてお伝えしたいとおもいます。先に取り上げた『霧の聖マリ』が、二つの色の前半になります。『夏の海の色』と題される一連の短編は、その後半です。


・「黄いろい場所からの挿話」について/「私」とエマニュエル

日本人の「私」とその恋人でフランス人女性のエマニュエルとが、何となく一緒にいながらその時々で遭遇する出来事を描いたものです。エマニュエルはローマ史を研究する学生で、「黄いろい場所からの挿話Ⅷ・Ⅸ」で論文を提出して、次からは学生ではなくなります。「私」はと言えばただエマニュエルにくっついているだけの男で、決まった仕事を持っているわけではありません。「私」は定職についてエマニュエルと結婚したいと思っているのですが、エマニュエルのほうは1分でも多く「私」と一緒にいたいので、仕事に「私」を取られたくないと言います。そうは言いながら、社会的な結婚というあり方そのものには疑問を持っているようで、エマニュエルは結婚する気がないのです。

そんな二人が、と言うよりむしろエマニュエルの勉学の都合でイタリアやフランスを巡る先々で出会う人々が、皆それぞれの物語を背負っている、図らずもそれを目にして互いに思いを馳せる、というのがここまでのおおまかなストーリーです。そして、その底辺にはスペイン内戦と、それに関わったフランス人民戦線、ファシズムといった戦争の影が常に澱んでいて、二人のおしゃれな会話とは裏腹に、悲しみとか絶望とか小さな不幸といったイメージが、一つ一つの物語を見えない幕のように包み込んでいるのです。


・「赤い場所からの挿話」について/「私」の成長記録

舞台は戦前の昭和の日本。「私」の幼年期から話は始まります。
「私」の父は役所勤めをしている官吏で、各地に転任することがたびたびでした。おかげで「私」も転校が多いのですが、やがて父は仕事でアメリカに行ってしまいます。それに合わせるように母も結核になってしまい、「私」は何人かいる母の弟の家に、たらい回しされるような形で預けられることになるのです。

「私」は行く先々で若い女性と出会い、彼女たちの人生に触れることになります。それは叔父たちが関係している場合もあれば、「私」との関わりの中で直接見せられることもあり、「私」に何かしらの印象を残してゆくのです。女性たちは皆、その時々の「私」より年上なのですが、幼年期から少年期、思春期へと成長してゆく「私」に、その都度少なからぬ影響を与えるのは言うまでもありません。

加えて戦前の昭和の日本⎯⎯例えば東京の下町とか、地方の漁師町とか⎯⎯の描写が丁寧で、そんな時代の生まれではないにもかかわらず、どこか郷愁を覚えるような気がします。

画像はイメージ


2.「黄いろい場所からの挿話Ⅷ・Ⅸ」

Ⅷ.「泉」

チロル地方のイメージ

「私」とエマニュエルは一夏をチロルの山岳地方で過ごしています。泉は二人がいる村の広場の真ん中にあって、その昔村で起こった凄惨な事件の舞台となったところでした。
事件は迷宮入りになったのですが、その年のクリスマス、自分の城館に帰らなくてはならなかったエマニュエルと別れて友人が薦める北フランスの農家の家に泊まったことで、「私」はそこで偶然にも、事件の犯人に繋がるような話を聞くことになるのです。「私」は城館のエマニュエルに手紙を出します。「私」の考えに賛成しかねるように、エマニュエルからの返事にはこうありました。

私は世の中に恐ろしい偶然があり、符合があることを認めています。それでも、なぜか、それを信じてはいけないような気がするんです。その理由はいろいろありましょう。その中で有力な理由は、私が運命の力を最少のものに見なしたいと思っていることかもしれません。私が偶然の力を過小評価しなければならないと考えているからかもしれません。

『夏の海の色 ある生涯の七つの場所2』 中公文庫/「泉」より

それは、長い間一緒にいてやがて惰性で結婚するような、そんなことにはなりたくないと常々口にしているエマニュエルらしい手紙でした。
30分ほどで読めてしまう短い物語ですが、事件の発端には戦争があり、物語の根底にはやはりエマニュエルとの関係性があるのです。

ところで舞台がチロルの山岳地方になっているせいで、『夏の砦』でも紹介した新田次郎氏の『銀嶺の人』に登場するツェルマットを彷彿させる、以下のような記述があって僕はこの話がより好きです。

この灰褐色の峰々を背にして、樅の林から谷間を見渡すと、眼の下に私たちの村があり、台地状にゆるやかな起伏を見せて、谷は次第に開けてゆく。朝、霧が晴れた直後には、前山の連なりの向うに、青い鋼色の肌をした、鋭い山稜が、中空よりも上に聳えている感じで続いているのが望まれた。朝日を浴びているときは、山脈全体が薔薇色に染ったが、白日の下では、黒ずんだ青に見え、山稜の一つ一つの凸凹が、鋼鉄の重い彫刻ででもあるかのように、くっきりと刻み出されていた。

『夏の海の色 ある生涯の七つの場所2』 中公文庫/「泉」より


Ⅸ.「夜の歩み」

「黄いろい⎯⎯」は「赤い⎯⎯」とは異なり、物語が時間通りに進んでゆくわけではありません。この「夜の歩み」も、「私」がエマニュエルと出会って間もない頃の話です。

話はエマニュエルの母方の遠縁にあたる人物、アントワーヌ・ブリュネという男性が主人公です。彼と彼の妻ルイーズ、ルイーズの兄のフィリップが絡んだセンセーショナルな出来事を通して、「私」はまたもエマニュエルとの関係について考えずにはいられないのです。

物語の主用部分はある夏の日、南仏のツーロンから海岸線を北へ走らせている車の中での二人の会話で明かされていきます。運転しているのはエマニュエルです。

アントワーヌがルイーズと結婚したのは、フィリップが犠牲となってアントワーヌを助けたある事故のせいでした。そのことがやがてルイーズには重荷となり、彼女に普通では考えられない行動を取らせてしまいます。そしてそれは、アントワーヌに対する愛がルイーズになかったからルイーズは絶望したのだと、エマニュエルは言うのです。「私」は二人が互いに必要な、共通するある一つの何かを持ち得なかったために、互いに自分自身に絶望したのでは、と考えるのでした。そして(小説の中には書かれていませんが)「私」はエマニュエルと、互いに必要な共通の何か一つのものを持っているに違いないと、そう感じたのでしょう。「私」はこう考えるのです。

エマニュエルが前に言ったように、二人の人間が同じものを持ち得ることは本当は人生で稀有なことであって、空腹で青空を見るほかないにしても、それだけの価値があるのかもしれない。

『夏の海の色 ある生涯の七つの場所2』 中公文庫/「泉」より

「空腹で⎯⎯」のくだりは以前エマニュエルに、「私」には職に付くより自分のそばにいてほしい、それでお金がなくて空腹になるなら一緒に横になってただ青空を眺めていよう、といったようなことを言われたのがもとになっています。それは嬉しいだろうけれど、どうも妙な関係だとおもってしまいます・・・


3.「赤い場所からの挿話Ⅷ・Ⅸ」

Ⅷ.「河口風景」

例によって「私」は親戚の家に預けられます。ただこの話では、預けられるのは母の異母兄にあたる伯父のところです。母方の一族の中でこの伯父だけが、腹違いということでやや異質な扱いを受けていて、母だけがそんな伯父を兄と慕い、他の親戚と同じように「私」を伯父の家にも行くように勧めたのです。

伯父の娘の加奈は伯母の連れ子で伯父の本当の娘ではありません。加奈は水泳教室の助教の資格を取ったので、「私」に教えてあげるから泳ぎに来るように言います。けれどそれは、教室以外で水泳教師の西永さんと会う口実のためでした・・・

伯父の加奈に対する思い、それに対する伯母の苛立ち、加奈と西永さんの密かな関係。そんな複雑な家に預けられた「私」こそ災難です。「私」が逃れてゆく場所は、艀が浮き、沖合に外国船が碇を下ろしているのが見える河口の船着き場でした。加奈は「私」の2歳年上で、ほんのいたずら心で不意に「私」に口づけをしたことがありました。でもそれっきり、特別「私」に構ってくれようとはしないのです。

私は平気を粧っていたが、その頃ひとりで船着き場で河口からの強い風に吹かれている自分を思い返すと、失恋の痛手に耐えている男と同じ気持ちを味わっていたと思う。私は波に揺れる船着き場に立ち、太い杭に鉄鎖ががしゃがしゃ鳴り、波が飛沫をあげて岸壁から弾ねかえってくる音を聞いていた。
河向うの鉄工場では移動クレーンが絶えず行ったり来たりして、何の合図かサイレンが低く鳴った。開けた河口の先は大小の船が停泊し、煙を吐いているのや、旗を翻したのが繋留索につながれていて、その向うは水平線になり、左右に突出した埋立地には工場や倉庫が並んでいた。

『夏の海の色 ある生涯の七つの場所2』 中公文庫/「河口風景」より

この船着き場の光景も、僕が好きな描写のひとつです。特に似ているわけではないけれど、昔僕が住んでいた瀬戸内海の港町には廃船解体場があり、外国航路のフェリーなどがよく入船していたものでした。

廃船解体場のあった瀬戸内海の海辺。今はリゾートマンションが建っている/撮影 takizawa

話は加奈と西永さんとの結婚によって、登場人物にも読者にも切ない気持ちを残して終わります。最後まで河口の船着き場だけが波間に揺れているのでした。


Ⅸ.「夏の海の色」

本書のタイトルにもなっている作品で、ここまでの中では一番好きな小説です。

上記の加奈の家のあと、「私」はまた『霧の聖マリ』に出てきた、Ⅴ.「帰ってきた人」で預けられた従姉の家にいます。「私」は志望していた中学校(旧制)の受験に2つ落ちてどうしようかと悩んでいたのですが、この家の叔母の従妹にあたる田村咲耶の後押しもあり、滑り止めに受けた3つめの中学に進むことにしました。そして翌年(中学2年)の夏、咲耶の勧めで咲耶の家に泊まりにゆく、というのが、物語の背景です。

本作では、「私」が剣道部員でかなり強いということがポイントになっています。
辻邦生さんは学究肌で常に文章を書いているか、映画や音楽に触れているかといったイメージがありますが、実はスポーツもよくされた方でした。むろん、どの作品でも完璧に下調べをされているのは当然だけれど、それだけではない、スポーツ好きの一面も随所に見られます。「私」が夏を過ごす地方の城下町で出会う武井忠(タケチュウ)も剣道部員で、誘われて彼らの練習に参加した「私」はタケチュウと勝負をするのですが、その描写が見事です。

私は青眼に構え、常に正攻法をとるのを好んだが、武井の竹刀は絶えず波のように揺れ、身体を低くしては、威嚇するような掛声を長々と出した。
私たちが構え直すと間もなく、私は、武井の竹刀が、波のように浮き上がるのを感じた。私はその浮き上がりざまを叩いて面に出ようとした。
その瞬間、武井の小柄な身体が沈んだと思うと、私の腕の下を斜に走った。右から左へ私は見事に胴を抜かれていた。しまったと思ったときはもう遅かった。

『夏の海の色 ある生涯の七つの場所2』 中公文庫/「夏の海の色」より

ところで咲耶が「私」に来るように勧めたのには理由がありました。はっきりそれと書かれているわけではありませんが、咲耶は「私」より十幾つ年上だったことでそれがわかります。武井は咲耶が「私」を好いているに違いない、と勘繰るのですが、それは武井が思うような意味合いではありませんでした。
夏の城下町の風情、海の端に建つお寺での剣道合宿、合宿の合間の海水浴、そして咲耶の過去の出来事。海に近い地方の城下町で繰り広げられる、悲しいけれど爽やかな物語です。


4.ここまでで僕がおもうこと

エマニュエルとのヨーロッパでの生活と、日本での幼少期からの「私」の暮らしぶり。全く異なるふたつのストーリーが、今後も交互に描かれていきます。この対比が鮮やかで、読者を飽きさせることがありません。可能ならばぜひお手に取っていただければとおもいます。
ちなみに、初めて読んだときは「黄いろい場所からの挿話」より「赤い⎯⎯」のほうが好きだったけれど、今はどちらも同じように楽しむことができます。その辺の感覚の変化が自分でも面白いですね。




【今回のことば】

「絶望と諦めはそんなに違うかな?」
(略)
「それは心の方向(むき)がまったく違うのよ。絶望は、希望から見放され、見棄てられた状態なのよ。それはこの世から追い出されたようなものなのよ。地面が捲きとられて、真っ暗な虚空に立つのに似ているわ。泣いて泣いて涙が枯れたときに残る痛みのようなものだわ」

『夏の海の色 ある生涯の七つの場所2』 中公文庫/「泉」より




『ある生涯の七つの場所2 夏の海の色』
・中央公論新社 1977年


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