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映画評「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」

はじめに

 あまり期待しないで見に行ったのだが、この映画は、自分にはかなりエキサイティングでおもしろかった。

 今となっては、半世紀ほど前に社会や政治に対してこんなに熱い思いを持っていた多くの学生がいて警察と抗争していたこともなかなか想像しにくく興味をそそられる。また、このような思想的に隔たった勢力の間でこうした討論会が実現したことも、ものすごく興味深いことである。

知らなかった三島の素顔

 自分が一番驚きだったのは、三島由紀夫が全共闘の学生たちの前で講演する際、全く敵対的な態度ではなく、明らかに笑いをとろうとしながら和やかに話していた点である。自分は三島由紀夫の映像というものをこれまでほとんど見たことがなかったので、どういう性格の人物なのかほとんど知らなかった(「仮面の告白」くらいは読んだことがあり、顔写真も見たことはあったが、動いている様子はほとんど見たことはなかった)。右翼思想の持ち主、自衛隊駐屯地での割腹自殺などは当然知っていたが、威厳のある怖い感じの人物かと漠然と思っていたので、三島由紀夫の講演の柔和な態度などは自分にはかなり意外だった。一方で、全共闘の学生たちも三島に対して穏やかに接していたのも意外だったが。

 また、三島由紀夫の身長がかなり低いのも映像から初めて知った。盾の会の他のメンバーらに比べてもかなり低かった。後で調べたら163㎝のようだ。三島由紀夫は、かなりのコンプレックスを持っていたことが文学や行動からも感じられるが、あれだけ肉体賛美をしている三島由紀夫にしてみたら、この低い身長もその一つの要素だったのかもしれない。三島由紀夫はノーベル賞に非常に強く執着し、それを欲していたことが知られているが、これも三島の抱える大きなコンプレックスの一つの証左だろうと思う。極端に美を賛美する文学性は、三島自身の逆の内面から出てきたものではないだろうか。

三島を打ち負かした学生の芥氏

 この東大での討論では、芥正彦という学生が出てくるが、芥と三島との論争が一番エキサイティングであった。芥が出てこなければこの映画は成り立たなかったのでは、と思う。三島は当然、平均的な学生と比べればはるかに思考力があり、弁論もそれなりに優れているとは思う。しかし、芥の頭の良さと弁論は、三島をはるかに上回っている。芥は、現代の言論人の中にもほとんどいないレベルの傑出した存在であると思う。三島は芥との議論ではかなり劣勢で、タジタジとなっていた。瀬戸内寂聴だったかが、「三島さんは学生を打ち負かしてやろうとか論破しようとはしていなかった。」という趣旨のことを言っていたが、他の学生はともかく、三島には芥を論破したりすることは不可能だっただろう。三島が圧倒的に打ち負かされていたのだから(熱狂的な三島ファンはそう認めたくないかもしれないが、それ以外の人々は、映画のそのシーンを見ればそれは明らかにわかると思う。)。だが、自分は、三島が芥との論争に怒って席を立たなかったこと、また、怒ったり不快感を示したりすることもなく、議論を続けた点は大いに評価する(もちろん、この討論に三島が応じたこともたいへん評価する。)。芥のレベルの高い議論を三島も喜んだのかもしれない。また、三島にはマゾヒズムがあるのではないかと自分は思うのだが、はるかに若くレベルの高い学生により圧倒されたことに快感もあったのだろうか。

言葉は大げさだが中身の薄い議論

 全共闘の学生と三島との共通点などについては、映画でも言及されているので、ここでは別のことについて書きたい。

 議論はエキサイティングだったとはいえ、自分は、三島と学生との間で行われた議論の内容は極めて薄いものだったと思う。議論の中で、空間とか時間とか自然とかという言葉が頻繁に出てきて、議論は抽象的なものが多かった。

 だいたい、哲学とか文学とかにおいては、こうした抽象的な言葉を使って概念的、観念的な議論をしようとする者どもがいるのだが、そうした議論はほとんどの場合、ほぼ無意味である。そうした言葉が何を意味するのかもそもそも不明で、個人個人で思い描いているものが全く違ったりする。そんな言葉をただ弄んで、何か観念的で高尚な議論をしていると思っている人間たちは、本当は愚かだと自分は思っている。また、この映画での“自然”という言葉は、我々が日常使っているその言葉と全く違う意味で使われている。しかもその言葉の意味はそこにいる人々の間でも全く共有されてはいない。そんな議論をしても、何も生み出さないであろう。

 もっともっと具体的に議論してほしかったことはいくらでもある。三島も全共闘も暴力を認める立場だということだが、例えば以下のような問いもありうるだろう。「革命のための暴力を認めると、当然それを上回る暴力を使いうる警察組織を持つ国家に確実に常に負けることになろうが、それをどう考えるか。」「暴力を認めると、仮に革命が成功しても、当然革命後の国家権力による暴力も認めることになろうが、それでいいのか。」など。また、それに限らず議論を聞きたかった点は多い。「天皇を中心におくというが、天皇をまさに元首として行った日本の第二次世界大戦をどう総括しているのか。」「第二次世界大戦でおびただしい数のアジアの人々を殺戮したことをどうとらえるか。」「天皇を中心においたときに、個人の自由や主体性はかなり制限されることになると思うが、それでいいのか。」など、いろいろある。

 実際の社会は具体的な事例で成り立っており、国会を見ても、朝まで生テレビなどの討論番組を見ても、具体的な問題への議論を通じて、社会への理解が深まり、社会の改善が行われている。時間だの空間だのという抽象的な概念を持ち出しても、何ら解決される課題などはない。そもそもそうした議論の当事者たちのほとんどは、言葉を抽象的にしたばかりに、その言葉が何を意味するのか自体が不明確になってしまい、自分たちが何を議論しているのかも理解しておらず、高尚なことをしている気分になって悦に入っているだけである。ばかばかしいにもほどがある。三島も、全共闘の学生らも、現在、哲学などを教えている大学教授らも、よくよく反省したほうがいいと思う。(この文章を読んでもらってもわかると思うが、自分は、かっこつけた言葉や意味深な言葉を使って、高尚に見せかけるような文章を書こうとは全然思わない。言いたいことを読者にできるだけ正確に伝えたいので、平易な言葉・一般的な用法を使って、意味が伝わる文章となるよう心がけている。)

その他、ちょっと思ったこと

 この映画では、平野啓一郎、内田樹、小熊英二らが当時の状況や三島について解説をしてくれるのだが、これがかなり的確である。瀬戸内寂聴も含め、三島の思想自体とはかなり異なる思想を持った人々に解説してもらっているため、三島賛美ではなく冷静な解説となっており、納得感をもって聞くことができた。人選が非常によかったと思う。

 それから、自分は、芥の抱いた赤ちゃんが、あんなに人がたくさんいる壇上にいるにもかかわらず、泣いたりしないことに驚いた。

全共闘の学生のその後を描く映画を作ってほしい

 自分はこの映画を見て、三島由紀夫よりもむしろ全共闘の学生の方に興味を持った。三島由紀夫は非常に特殊で例外的な一個人かもしれないが、全共闘に参加した学生の数は膨大であった。全共闘の学生は、当時は真剣に日本のことを考えていたのだと思う。お祭り気分で参加した学生もいただろうから全員とは言わないが、少なくとも一定の割合はそうだったのだと思う。そうした学生たちが、その後、どんな人生を歩んだのかを知りたい。映画の中でも、地方公務員になった者もいれば大学教授になった者もいた。全共闘に加わっていた学生の中で、後に保守派の学者に転向した者も少なからずいる。弁護士となって弱者を助けている者もいるだろうし、医師となって人の命を救っている者もいるだろう。また、芥氏は今も演劇を続けているようだ。あれだけ頭の回転の速い芥氏が、学生時代の闘争の後、どのような人生を送ったかについてもすごく興味がある。また、大企業で上層部まで上りつめた者もいるだろう。が、恐らく、全共闘の学生の中には、その後、普通の企業に勤めながらも、ボランティア活動、寄付、自然保護活動などを通じて、少しでも社会をよくしよう、社会に貢献しようとささやなかながら活動してきた人たちもいると思う。そうした人たちの思いを丹念に追った映画やドキュメンタリーをぜひ期待したい。


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