韓国のアートに酔いしれながら、縄文時代の視点で「幸せ」を考えた
「やっと韓国上陸」
友人と2泊3日弾丸ソウル旅行。
にわかK-POP好きなわたしは、生まれ変わったらK-POPアイドルになりたいという”にわか”と思えない夢を持っている。そんなわたしは韓国に行きたくて仕方がなく1年間周囲に「韓国いきたくない?」と言い続けた結果、心優しい友人が一緒に韓国に行ってくれることになった。
仕事で遅れる友人とは現地集合になり、1人でいざ韓国へ。
AM9時、ラウンジでサービスでもらった缶ビールを一気飲みをしたせいか、ほろ酔い気分で仁川空港に到着。
「アンノーンみたいな文字や~」みたいな感想を心でつぶやきながら、地図を読む力だけを頼りにアートスポットへ。
お目当ての「国立現代美術館」はタイムオーバーで入れず(平日は18時で閉館)仕方なく現在地から検索して仕方なく大林美術館へ。
「大林ってあの大林? んなわけ」
って検索画面をみたら、しっかりと「あの大林グループ」が設立した美術館だった。
強烈なプロジェクトを乱発する「MSCHF(ミスチーフ)」の企画展。
18時過ぎに空いていたからという理由で入場したので正直期待値0だった。
が…しかし…控えめに言って最高だった!!
ミスチーフとは👇(かなり詳しく書かれているのでとても勉強になった)
展示は共通して資本主義の不合理性や滑稽さを暴きだして「世間を俯瞰してみている」社会風刺作品が多かった。
韓国訪問前にエーリッヒ・フロムの哲学書を読んでいたからか、わたしにとってはこのアプローチはタイムリーだった。
「幸せとは何なのだろう」
突然の大きなテーマを切り出したわけだが、縄文時代にハマってから頭の片隅で反響している問いかけ。
平均寿命87歳のこの時代にまだ30年くらいしか生きていないわたしだが、最近少し幸せの片鱗が見えてきた気がする。
それは「自分の幸せを自分で見つけること」
当たり前やないかーい!
というツッコミが聞こえてきそうだが、いや、これなかなか難しくないだろうか。
あなたが買ってる服やアクセサリー、選んだ進路、付き合っている友人やパートナーは、本当にあなたが心から選択したものなのだろうか。
世間の目を意識していないと絶対に言えるだろうか。
縄文に出会う4年前は、わたしは、「世間から評価が高い=成功=幸せ」この図式に捉われ、目に見えることだけを大切にしていた。
たとえば田舎から上京してきた当時のわたしは「1人暮らしをする」こと自体で満たされていた。しかし、周囲にはもっと良い生活をしてる人を知っていくと翌年には「狭い部屋はいやだ」と不満が漏れた。もう1LDKの生活では満たされない自分がいるのだ。
そう、一度満たされてしまったら、同等のものでは満たされない。満たされるためには常にアップデートし続けないといけないのだ。
「いつまで自分を満たすための階段をのぼればいいのだろう」と疲弊していた。
そんな心がボロボロなわたしに精神的に豊かな縄文人が教えてくれた。
「この世だけがすべてないから、頑張りすぎなくていいよ」
スッと肩の荷が下りた。
かたちあるものこだわり、自分という存在をないがしろにしていた。
ミスチーフ、エーリッヒ・フロム、縄文…
世間が求めていることが必ずしも自分が求めていることとは限らない。
時には自分を俯瞰して嘲笑うくらいがちょうどいいかもしれない。
幸せってそんな手っ取り早いものでないのだから。