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ハイドンが好きな男はいない (連作短編7)

 違いのわからない男・小清水健一は片想い中のやり過ごし方もわからない。国語の授業で煩悶の見本として提示できるほどの心の荒み具合だった。
 高体脂肪率男・小清水のキャラに似合わない食欲不振に陥った。小清水が月一で通院している心療内科では睡眠と食事について毎回聞かれるが、それが健康の指標なのだろう。睡眠は維持できてたが、食欲が減ってきてしまった。
 肥満男が食欲不振とは。小清水は自嘲した。この世にはこうしたダイエットもあるのかもしれない。
 仕事をするわけでもなく図書館に行ったり家族に頼まれた買い物に行くだけの小清水の日常は、パン屋の看板娘に出会う前の退屈さを取り戻した。
 恋などしなければ凪の人生を送れる。なぜ手の届かない相手を好きになってしまったのか。身の程知らずとはこのことだ。
 小清水の頭の中でぐるぐる看板娘の映像が回っていると、目の前の菜月が不思議そうな顔をした。
「おじちゃん、悩みでもあるの?」
 小学生に心を見抜かれてバツが悪い。
「いやいや、問題を考えててね。それより二期作と二毛作の違いはわかったかな」
 小清水が作成した小テストに菜月が書き込んだ答えを見るときちんと正解していた。正直大人になってから二期作や二毛作について考えたことはないが、将来農業に就く子もいるからこんなことまで教えているのだろう。リアス海岸は漁師になりたい子のためだろうか。
「菜月ちゃんは今日のBGMわかる?」
 菜月の勉強中にクラシックをかけることを密かな楽しみにしている小清水が問いかけた。
「ブランデンブルク協奏曲の5番でしょ。おじちゃん好きでよくかけてるよね」
 小5女子に行動パターンを把握されている。将来男を尻に敷いてもおかしくない逸材だ。
「正解! 菜月ちゃんは音楽の才能あるね」
「曲聴いて名前わかるだけでしょ。それって才能なの?」
「うーん、それも才能かなぁ」
 適当なことを言って子供の機嫌を取ろうとしてもボロが出る。おだてればいいというものではない。
「今日のは前に聴いたイ・ムジチかな!」
 その発言に小清水は驚いた。
「よくわかったね! 何でそう思ったの?」
 菜月はうーんと頭の中で考えをまとめる仕草をし、
「だって古楽器とは違うし、エレガントな感じがしたから」
 小清水は目の前のポニーテールで眉毛の手入れもしてない少女がいずれクラオタとして自分を脅かす存在になると確信した。伯楽として彼女の才能を伸ばしてやらねばなるまいと決心した。

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