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ハイドンが好きな男はいない (連作短編5)

 違いのわからない男・小清水健一は小5の姪への接し方もわからない。
 最近の小学生のあいだでは何が流行っているのだろう。自分が小学生のときはビックリマンチョコか野球選手のカードが入ったポテトチップスのどちらかを買う男子しかいなかった。まさかビックリマンシール付きのビックリマンチョコが握手券付きのアイドルCDを予言していたとは小清水は想像だにしなかった。
 小清水は一時期だけアイドルにハマったことがある。厳密に言えば、彼女らがさまざまな企画に挑戦するバラエティ番組にハマったのだ。
 清楚な坂道グループに対抗して結成された28人の「ま坂」は「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、ま坂だ」の名言からグループ名を取っている。冬本ひろしという演歌歌手のような名前の覆面男性が彼女らをプロデュースしている。
 小清水は「ま坂」の特定の誰かに入れ上げずに、いわゆる箱推しだった。応援したい子が8人もいたので、握手券付きCDを8枚買った。
 最近クラシック業界でも握手券ビジネスが流行り出した。藝大の学生を集めて結成された「TGD48」。言うまでもなく「東京藝術大学」のイニシャルである。
 昔ブームになった女子十二楽坊のような技術的には中の下くらいだがルックスはそこそこの藝大生を集め、ヴィヴァルディやモーツァルトの簡単な室内楽を演奏させる。
 場所はサントリーホール。演奏会が終わったら握手会。演奏会は前座でしかない(“前戯”と言う不届き者もいた)。握手会の方でむしろ稼ぐのだ。
 お目当ての団員の前に行列ができる。TGD48では「ときめきメモリアル」の藤崎詩織を実写化したようなコンミスよりもファゴットやコントラバスの女子の方が人気が高い。フルート女子やヴァイオリン女子は高嶺の花感があるが、ファゴット女子やコントラバス女子には“応援したくなる何か”がある。オタクらにはそれが何なのかわからないが、わかったとしたらそれはアイドルオタクを卒業するときなのだろう。
 アイドルオタクらは演奏の良し悪しなどわからない。何しろ演奏中は撮影自由なので、シャッター音がパシャパシャ響いて音楽を聴くどころではない。
「TGD48」の姉妹アーティストとして「生山すみか」というアイドルピアニストがいる。「なまちゃん」の愛称で知られる彼女は現役の音大生(ただし東京音楽大学)。
 紀尾井ホールや浜離宮朝日ホールでなまちゃんがコンサートをすると、発売日に5分でチケットが完売する。なまちゃん推しのファンは多い。チケットが一人一枚しか買えない仕組みなのは「オタクは一人でしか来ないだろう」という主催者の洞察によるものだ。
 なまちゃんの演奏技術は大したことがなく、「月光」や「トルコ行進曲付き」を教科書通りに弾くだけなのに、オタクらは「なまちゃんが目の前で弾いている!」と歓喜の涙を流す。
 これはファンの間で「カタルシスとオーガズムの融合」と呼ばれている涙で、「なまちゃんのコンサートで泣けないのはなまちゃんのファンではない」とまで言われるほどだった。

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