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推しをもたないオタクたち

仏像マニアとしても知られるイラストレーターのみうらじゅんがこんなことを言っていたらしい。

ファンは批評しない。
「これはいい、あれはダメ」と言うのはファンではない。

これは文意であり、しかも誰かが「みうらじゅんがそう言ってた」と書いていたのを私が読んだだけ、という非常に出所のあやふやな発言だ。

しかし、この発言は非常に腑に落ちるもので、私の中に強く印象に残った。

対象を全肯定してこそ、ファン。

「今日の推しのパフォーマンスはイマイチだったね」なんて言説はあまり聞かない。

推しのパフォーマンスがイマイチと感じたら、一層の力で推しまくるのがファンというものだろう。

私は朝比奈隆の晩年4年間くらいの東京でのコンサートを追っかけていたが(大阪での年末の第九も3年通った)、そこには批評精神のある客など一人もいなかった(とあえて言い切りたい)。

あれは朝比奈のファンイベントだったのである。
みんな「今日も元気に振ってくれてありがとう」の心境。
「今日のブル8は94年盤と比べると劣るよなぁ」なんてロビーで語り合ってる人は少なかったと思う。

私はカーチュン・ウォン、大植英次、奥井紫麻らのファンだと思ってきたが、彼らを批評しているうちはファンとは呼べないのだとわかった。

しかし、「あえて推しをもたない」という選択肢もあるのではないだろうか。

いまはSNSでプロの音楽家たちと気軽に交流できる時代。

私もコンサートブログなどを連日書いていると、いいねのリアクションをくださるプロの方もいる(一番多くくださったのは日本フィルVaの安達さんだろうか。結構的外れなことも書いてるのに恐縮するほかない😅)。

クラシックファンなら音楽家と交流できた方が楽しいかもしれないが、批評やレビューにおいて、対象との一定の距離は不可欠ではないだろうか。

推しをもつと公平な批評ができなくなる。

プロの書き手においても、対象との距離は重要である。

文芸評論家の栗原裕一郎が「いまの文芸誌の書評は評論というより広告になってきた」という趣旨の発言をしていた。

最初から作品や著者を推す前提で依頼され、書かれた文章である。
しがらみのないところに生まれる作品論ではない、ということだ。

それを思えば、コンサート情報誌の『ぶらあぼ』で演奏家にインタビューしている常連の執筆者たちは、彼らが嫌がりかねない鋭い指摘を他所の媒体でできるだろうか?

そんなことをすれば、次回のインタビューを断られるのではないか。
仕事をみすみす減らすことになる。

その点、吉田秀和や宇野功芳は音楽家と一定の距離を置いていたと言えるかもしれない。

もっとも吉田秀和は水戸芸術館の館長だったし、宇野功芳もハイドシェックや佐藤久成と共演していた。

とはいえ、『レコード芸術』に「小澤のエロイカはスーパードライ」と書いてしまえる“しがらみのなさ”があった(私はリアルタイムでそれを読んだはずだが、あまりに伝説すぎて、自分が生きていた時代の出来事なのかたまにわからなくなる)。

最近は匿名で気楽なはずの一般人にしても、SNSで否定的な感想を発信することに躊躇いを覚える人は増えてきたようだ。

私のように音楽の知識も大してないのに好き勝手に書いてるのは珍しいかもしれない。

推し活ブームの現代において批評じみた行為をしようとするならば、「推しをもたないオタク」として生きる孤独もまた背負うのである😅

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