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【校閲ダヨリ】 vol.67 国語の「習熟」について考えてみる


みなさまおつかれさまです。
またこうして記事を書けることが、とてもうれしいです。

さて、12月29日の記事でお知らせいたしましたが
このたびTwitterとInstagramにアカウントを開設したのです。


Instagramはプライベートでもそこそこ稼働していたので自分にとって目新しい出合いはほとんどなかったのですが、異次元だったのがTwitterです。

情報量のなんと多いことか!

更新するたびに流れてゆくタイムラインは、言葉の川のようです。
職業柄、また私の興味・関心の赴く事柄が「言葉」関係なので、必然的に作家、ライター(コピーライター含む)、グラフィックデザイナーの方々が多いのですが、それぞれ言葉に対して一家言ある感じに「なるほどなあ」と頷きながら読んでいるので時間がかかります。

たくさんの「言葉のプロ」が発する言葉に触れて感じたのは、「習熟」のことでした。



世の中にはたくさんのプロフェッショナルがいます。
中では大きく2つのカテゴリが存在しているように思うのです。
活動に資格が要るか/要らないか

私のような校閲者は「資格が要らない」プロフェッショナルです。
編集者も、コピーライターも、小説家も、言葉にまつわる職種には資格を要さない場合が多いように感じます。

さて、ここからがおもしろいところです。

資格が要るか/要らないかで分けたプロフェッショナルのカテゴリーですが、これはそもそも「スタート地点の違い」にすぎないものです。

医者として働くには医師免許が必要ですが、「医師免許があればよい医者か」という問いに頷くことはなかなか難しいですよね。
つまり、スタートしてからは、「資格が要らないプロフェッショナル」と同じような「上達の道」をたどっていくことになるのです。

(プロフェッショナルを語る上で外せない言葉に「センス」がありますが、今回は経験や反復学習で獲得することができる能力に的を絞りたいので、センスの要素は除外して考えます)

この「上達の道」が「習熟への道」ということになるのですが、言葉(国語)の世界でこの概念を考えるとどうなるのでしょう?

日本語母語話者の場合、基本的には生まれた時点から国語の習熟への道がスタートします。
日本語非母語話者で、日本語を外国語として学ぶ場合には、この習熟の概念を可視化して捉えることが比較的容易です。

「学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠」(CEFR) 共通参照レベル: 全体的な尺度


Can-doの6レベル

これらは、CEFR (Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment)という欧州で展開される枠組みを、日本語非母語話者への日本語教育に当て込んで「JF日本語教育スタンダード」という教育機関が図式化したものです。


なぜ比較的容易なのか……このあたりは、日本語非母語話者の場合は「何歳で、ここから学び始めたよ」というスタートラインが明確にわかるから、学習の速度を教える側である程度コントロールできるからなのではないかと思っています。
日本語を母語として学ぶ場合には、この「スタートライン」「習得の速度」がわかりづらい場合が多いです。

母語なので、「いつでも」「誰からでも」学べてしまうんですね。
保護者が「馬鹿野郎」という単語を教えていないとしても、「知らないうちに知っている」のがそれです。


勝手に習熟するんだから別に問題ないのでは?


一般生活レベルであれば、そうかもしれません。ただ、社会生活を「自分に損なく」営めるようになるには、かなり高めの習熟レベルが求められているような気がしてしまうのです。


Can-doの6レベル(再掲)

これは、先出の日本語非母語話者を対象とした習熟の尺度ですが、「B2以上」は母語話者でも達成できない人が多いと感じます。
この図は「発話」「対話」用の尺度ですが、たとえば「読むこと」であれば「行政のHPから補助金や支援制度において、自身の該当するものを探せる」ことや、「書くこと」であれば「お詫びの文章を、相手に謝意が伝わるように書ける」ことはCan-doレベルの上位に入ってくると考えます。


日本語母語話者は、どこまでのことを求められているの?


文部科学省は「これからの時代に求められる国語力」の中で

「例えば,都市化,国際化により増加した見知らぬ人や外国人との意思疎通,少子高齢化によって変化しつつある異なる世代との意思疎通,近年急速に増加した情報機器を介しての間接的な意思疎通などにおいて,多様で円滑なコミュニケーションを実現するためには,これまで以上の国語力が求められることは明らかである」

とし、「国語力の向上に不断の努力を重ねることは時代を超えて大切なこと」と述べています。
つまり、「高ければ高いほど良い」ということですね。


社会生活で必要な国語力って、学校ではあまり教えてくれなくない?


ほんとうに、そう感じますが、
同時に、実践的な国語力(国語の習熟)は授業という形では授けづらいものが多いとも思います。
先の文科省の提言内に

「また,少子高齢化や核家族化に伴って家庭や家族の在り方が変容し,従来,家庭や家族が有していた子供たちへの言語教育力が低下していると言われていることも大きな問題」

とあるのですが、社会生活の中で獲得していく要素が大きい
共働きで、子どもと会話をする時間や、大人たちの話を子どもの耳に入れる時間が昔に比べ減っていることは、「自然とついてしまう国語力」への大幅なダメージなのです。

このように、「国語の習熟」について考えると、現代の社会構造に対する危機感にまで言及せざるを得ないのです。
私にとってかなりの迷宮なのですが、なんと今年「日本語習熟論研究会」という習熟がメインテーマの研究の場が設立されるようで、私もメンバーとしてお声がけいただいているのです。

これは困った……。

おわかりのように、かなり闇深いです」なんて言えるわけがない。(心の声)

・日本語母語話者の習熟に対する指針を立てる

・社会生活の場が縮小しているならば、それを補うカリキュラムが必要

フックはこんな感じで……などといまのうちから準備をしておきます。

ほんとうに「考えてみる」だけの回になってしまいました。ごめんなさい。
「日本語母語話者が学ぶ日本語」。
みなさんが思う「ここまではできてほしい」習熟度指標がありましたら、コメントいただけますと嬉しいです。


それでは、また次回


参考文献
JF日本語教育スタンダード「JFスタンダードとは
文部科学省「第2 これからの時代に求められる国語力


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