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根来 NEGORO-朱と黒のかたち-:4/細見美術館

承前

 根来のうつわに取り合わせられていたお軸は、《二月堂焼経断簡》に《金胎仏画帖断簡》、《白描源氏物語絵巻断簡》、さらには《狭衣物語絵巻断簡》。
 断簡、だんかん、ダンカン……
 この「断簡」もまた、古美術愛好家にとっての魅惑・魔性のキーワードのひとつであろう。

 断簡は、大部の巻物や冊子を裁断したもの。紙の継ぎ目を生かした「一紙分」の断簡があれば、そうでない断簡もある。
 《二月堂焼経断簡》は一紙分で、浩瀚な経典の一部。《金胎仏画帖断簡》は、みほとけの姿を描いた冊子の1ページ分にあたる。
 一紙分や1ページ分でなくとも、いたずらに切り裂かれるわけではなく、軸装や手鑑(てかがみ)への貼付など用途に適した縦横比、絵巻であれば好ましい構図、歌集であれば好ましい歌が単独で鑑賞可能となるようにするなど考慮の末、トリミングがおこなわれる。傷みの激しい箇所を避けて、絵や字を生かそうとすることもある。
 《白描源氏物語絵巻断簡》(室町時代)は小絵と呼ばれるスモールサイズの絵巻の断簡。「いいシーン」がきっちり選ばれ、ひとつの画面として成立している。
 《狭衣物語絵巻断簡》は江戸前期の模本だが、原本となった中世絵巻はすでに失われており、この模本すら断簡でしか知られていない。

 断簡は、もとは全体のなかの1つのピース・構成要素であり、失われた全体像の余香を、常にまとっている。同時に、とくに軸装の場合は表具による演出が加えられて、一幅の掛軸としての完結性をも兼ね備えるよう計算がなされる。
 前後の文脈から切り離されているから、お経は読めないし、物語は理解できない。しかし、もとのあり方とは異なっていたとしても、断簡には断簡でしか味わえないよさがあるのだ。

 ――本来の姿や意図、機能などとは違ったところに、新たな美が生まれている。
 そういった点は、根来に向けられた美意識に共鳴するところがありそうだ。
 根来の手擦れの美、経年の「変化」は、見ようによっては経年の「劣化」、破損ともとれる。じっさい、古くなったからといって破棄・新調されたり、塗りなおされたりしたケースは少なくなかっただろう。美術品ではなく、あくまで道具だったのだから。
 《二月堂焼経断簡》の前には、同じく東大寺の二月堂に伝来した《八角水注》がしつらえられ、調和をみせていたが、この《二月堂焼経》の断簡こそ、「不完全」で「偶発的」な美をよく表す最たるものといえよう。

 この奈良時代の古写経は、江戸時代に火災に遭い、火中から救い出されて、一部が巷間に流出している。
 銀泥の品格ある字形もさることながら、本作の見どころとして大きいのは、皮肉にも天地の焼けただれた姿であろう。
 一定の文字の配列を侵食し、規則性を崩す焦げ跡。もとの姿からすれば「不完全」で「偶発的」なものでありながらも、ここには “滅びの美” ともいうべき奥行きある世界が、確かに生まれているのだ。
 根来にぴたりと符合する、《二月堂焼経断簡》の相性のよさ。この取り合わせを展示室の最初に位置どらせた構成は、それは見事なものであった。

 ――こういったことを書いていると、ファインアートから骨董の見方へ逆戻りしてきた感が強いのだけれど、会場では大学生とおぼしい若者の姿が、なぜだか多数見受けられた。
 根来という一見「渋い」展示に、若い人が来てくれるのはうれしい。彼らは、根来のうつわをどう観たのだろうか。勇気を出して、話しかけてみればよかったな……


 ※《二月堂焼経》は焦げ跡の程度に個体差があって、それもまた見どころになっている



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