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根来 NEGORO-朱と黒のかたち-:2/細見美術館

承前

 骨董好きのフェティシズムにかぎらず、複眼的な楽しみ方ができそうなところが、根来のよさかもしれない。

 根来展の翌日に、東京・八重洲のアーティゾン美術館に行ってきた。
 旧・ブリヂストン美術館ことこの館では、改装・改称を機に抽象絵画コレクションの充実に意を注いでいる。今回の展示でもアメリカの抽象表現主義、そして日本の具体美術協会のアクションペインティングなどが出ていた。
 白髪一雄《観音普陀落浄土》には、作家がキャンバスに向かった「無心」の時間が焼きつけられている。そのとき作家は、モチーフの風景や人体モデルに一瞥をくれることも、下絵の類を逐一確認するといったこともなかったであろう。
 写実に気をとらわれない。もし「実(じつ)」があるとすれば、みずからの心のなかだけ……天衣無縫に、ただただ、動く。
 こうして刻まれた絵の具の轍は、ひとつとして似通ったものとならない。目で追いかけていけば、かならず変化に行き当たり、発見がある。抽象絵画の楽しみは、知らない街を歩きまわる楽しみに似ている。

 今回の根来展に関しては、最初から「抽象絵画を観に行くような気分で」入ったところが多分にある。前日と午前には奈良にいて、直後には京近美の文人画が控えていた。渋好みが続くなかで、趣向を凝らしてみたくもあった。
 根来のうつわ、ことに盆や高坏の平面を凝視していると、抽象絵画の鑑賞時と同じような目の動きをおのずからとっていることに気づかされる。そしてじっさいに、いま見つめているもの<根来>を、抽象絵画であるかのように錯覚してしまうのだ。

 なかでも、マーク・ロスコの絵画がもつ変化に富んだ色調や質感は、根来のそれに近いものを感じさせる。
 川村記念美術館のロスコ・ルームで長い時間を過ごしていると、先ほどとは逆に根来盆へと意識が飛んでしまうことがままあるほど。
 白髪の動的な作とは対照的ではあるものの、ロスコの絵もまた静かな「無心」をたたえている。そこには、外見の空似を超えて根来のうつわに共鳴するなにかがありそうだ。

 「根来の風合いは、さながら抽象絵画」……こういった論調はじつのところ、根来に対する感想としてはありふれており、使い古されている。
 それでもあえて言及せざるをえないくらいには、少なくともわたしのなかで、両者は近い。
 根来の手擦れの美は、狙ってこしらえられたものではない。同じところに繰り返し触れる、ものを置く。使用後によく拭く。そういった動作が何百回、何千回と反復されることによって生じた使用痕がその正体だ。

 偶発的にその上に「美」が発生し、後世の人によって発見されることとなった根来。
 具体的な形をもったなにかを忠実に写しとろう・再現しようといった企み、ねらいすましのない「無心」の絵画。
 性質は違えど、どちらにおいても、観る側が感じたままに受けとめることを許す余地が大いに残されている。

《足付盥》(室町時代)

 根来のうつわの表面に走る細かな亀裂は「断文(だんもん)」と呼ばれ、鑑賞上のポイントとなっている。
 《足付盥》の見込みのこの断文は、わたしにはパウル・クレーの絵のように見えた。
 こういった楽しみ方もまた許容しうるのは、根来の懐の広さといえようか。(つづく




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