井上広法(こーぼー)
僧侶井上広法が2019年7月から12月まで下野新聞に連載していた「しもつけ随想」のアーカイブ
昨年、秋の彼岸の真っ只中に、私は布教の旅へ出ました。総本山知恩院布教師会の副会長からの依頼があり、滋賀の寺で法話を語ることになったのです。ただ彼岸中に寺を離れることは、住職としての私にとっては罪悪感を伴うこと、任務とはいえ心を咎めなかったわけではありません。 しかし、思い悩む中、ふとした閃きが私の心を照らしました。この出張を利用して、何か意義深いことができないだろうかと。「そうだ、私の祖先の地、近江安土への墓参りをしよう。私の先祖であり、6代前の住職である井上松運上人は、明
今日、親戚のおじさんが死んだ。 親戚といっても血縁はない。会ったことも、ない。 しかも、そのおじさんはぼくのことはなにも知らない。 でも、ぼくは小学生のころから、そのおじさんのことをよく知っていた。 おじさんとの出会いそのおじさんを知ったのは、小学一年のときだった。 教室で、そのおじさんのモノマネが流行っていた(特に男子のあいだで 一瞬でぼくの笑いのツボは鷲掴みにされた。とてつもないほど、つかみはオッケーだった。(これはおじさんを慕う3人組のよくいうセリフだ そ
ひとと比べてたら不幸せになっちゃうよ! だって、ひとのいいところしか見てないんだから。 じゃあさ、昨日の自分と比べたら? 自分については悪いとこしか見てないから 昨日と比べていいとこがあれば きっと幸せになれるよ。
あけましておめでとうございます。 そして、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 去年は、ほんとうに大きな決断の年でした。 ①テレビから身を引くこのnoteにも書きましたが、いろいろ考えた結果一度テレビから身を引くことにしました。詳しくはこちら ひとことでいうと自分の光琳寺に専念したいという気持ちです。 その専念したい(せねばらならない?)理由は、なんといっても②のáretの計画と建築が大きな理由でした。 ②áretの計画と建築お寺として大きなチャレンジです。光
画像出典:https://feely.jp/ ■あたりまえにモノゴトをみるココロのクセ 私たちの心にはいくつかの癖のようなものがあります。そのなかでも「ものごとをあたりまえにみる」心の癖について考えてこの随想を閉じたいと思います。たとえば、子どもの頃を思い出してみてください。道端に生えている草、そこにいる小さな生き物。あるいは空を飛ぶ鳥たち。通りすぎる自動車。目に映るすべてのものが新しく、そのすべてに好奇心を抱いていたのではないでしょうか?しかし、いつの頃からか、その目に
「助けて」と言える社会 先日の台風19号の被害に遭われました方々に心よりお見舞いを申し上げます。私どもの寺である光琳寺から車で10分ほどの宇都宮市千波地区でも床上浸水等の被害がありました。人々が長年住み慣れてきた住居が浸水と汚泥によって変わり果ててしまわれたことに心を痛めています。さらには住居の被害のみならず、被災された方々の心の傷もいかばかりかと心配しております。 ほぼ毎年、いままで経験したことのないような災害が各地で頻発しています。恐らくこのような状況はこの先も引き続
■空気の力 −娘の短冊− 「プリキュアになりたい」と幼稚園で七夕の短冊に書いたのは私の長女。プリキュアとは、幼稚園の女児たちに大人気のアニメです。通常は微笑ましく思えることなのですが、しかしながら私はそら恐ろしくなってしまいました。なぜなら、娘はプリキュアを一度も見たことがないのです。さらには別のアニメ(アイドル戦士)のヒロインになりたいといつも言っています。 これは一体どういうことなのでしょうか?聞くと別の女の子もプリキュアを見てないのに「プリキュアになりたい」と短冊に
■ものの見方を調える 前回は、モノからコトへシフトしている時代について、そして、そのはざまで生じる苦しみについて概観しました。今回は、コト、つまり体験や経験、さらには意味付けなどについて考えていきたいと思います。 ■レンガ職人の寓話 イソップ童話に「3人のレンガ職人」という話があります。ある旅人が、れんがを積む3人の男たちに「あなたは何をしているのか?」と尋ねます。最初の男は、生活のためにやっていると答えます。2番目の男は、れんが職人として成功するためにやっていると言い
地元の新聞(下野新聞)に連載していたしもつけ随想が年内で終わったので、 ここに残しておこうと思う。 ■時代の狭間で苦しむあなたへ −死にたくなっていませんか?− あなたは自分の人生を生きていますか?なんとなく代わり映えのしない毎日を淡々と過ごすだけになってはいませんか?やる気が出ない、なんとなく生きているだけ。生きる意味が見つからず、壁にぶつかるたびに「死にたい」と思ってしまってはいませんか? 社会が加速度的に不安定で不透明になりつつあります。いままで正しいと考えられて
昨日のポストでこれから光琳寺(ぼくたち)は「ひとづくり・縁づくり・まちづくり」をしていくと宣言した。 お寺が目指すひとづくりとは、なんぞや? ひとことで言おう! 「生きるを、生ききることだ」 いま100年人生と言われ始めている。 たとえば2000年代に生まれた子どもたちの2人に1人は100歳を超えると予想されている。 仏教では諸行無常というが、人生はいつ果てるかわからないというのが基本姿勢だ。 しかし、平均寿命が延伸していることを考えてみると、個人はいつ死ぬかわ
前回まででなぜぼくがテレビからいったん身を引いたのか、その理由をまとめてみた。 じゃあなにがしたいのかについてこれからこのnoteで触れていこうと思う。 それはお寺をハブにしたコミュニティーづくりだ。 お寺のリノベーションといってもいいかもしれない。 明治以前はお寺はさまざまな役割を持つ場だった。 ・寺子屋としての学校 ・戸籍を管理する役所 ・病の人を受け入れる病院 ・孤児院 ・地域の中心的な公民館 など そして住職もさまざまな役割をもっていた。 ・僧侶 ・まち
今回からフラットになるために、以後「です・ます」調をやめます。 ぼくはいつもひととの関係をなるべくフラットにしたいと思っている。 僧侶であると、やっぱりどうしても畏敬の念を込めて接していただくことが多い。 お坊さんになりたての頃、このことで大いに悩んだ。 修行が終わったばかりのペーペーの自分に人生の大先輩であるお年寄りが手を合わせてくれるのだ。 ありがたいというよりも、恐縮と申し訳なさでいっぱいだった。 「決して偉くなったわけではないのに…」 その後、僧侶という
こういうことってありませんか? たまたままったく別のひとから同じことを勧められたり、話されると 最初のひとから聞いたときは「へー、そうなんだ」くらいかもしれませんが、 偶然、別の人からも同じことを聞くと「本当にそうなんだ!」ってなりますよね。 ところがどうでしょう?同じ人から同じ内容を何度も繰り返し聞くと ちょっとしつこいなーってなっちゃいますよね? このようにぼくはテレビからはいろんなお坊さんがいろんな角度から仏教を語ったほうがいいなって思うんです。 とある番
ぼくがテレビからいったん身を引こうと決めた最初の理由。 それは「テレビに出たら偉くなってしまった」こと。 偉くなったとは、どういうことか?定義しておきましょう! ①ひとから雲の上の人のように見られる ②自分が偉そうに振る舞うようになる ①ひとから雲の上の人のように見られる ワークショップをしたあるとき、ひとりの女性が一緒に写真撮ってくださいと声をかけてくれたんです。 もちろんいいですよーと答えたとき、そのひとの手が震えていたんです。 どうやらかなり緊張しているよ
みなさん、はじめまして。 いのうえこーぼー(井上広法)です。 ぼくはちょっと前まで、テレビからお茶の間に仏教をお届けするお坊さんでした。(ぶっちゃけ寺・さし旅・この差って何ですか?など) 5年間、たくさんの番組にアドバイスをしたり、企画したり、出演をしてきました。 特に、いままで仏教に興味がなかった人たちに「仏教って面白い」と感じてもらえたのは、なによりの喜びです。 でも、今年の8月13日のぶっちゃけ寺3時間SPを最後にいったんテレビから身を引くことにしました。