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「助けて」と言える社会@第4回しもつけ随想

「助けて」と言える社会


先日の台風19号の被害に遭われました方々に心よりお見舞いを申し上げます。私どもの寺である光琳寺から車で10分ほどの宇都宮市千波地区でも床上浸水等の被害がありました。人々が長年住み慣れてきた住居が浸水と汚泥によって変わり果ててしまわれたことに心を痛めています。さらには住居の被害のみならず、被災された方々の心の傷もいかばかりかと心配しております。


ほぼ毎年、いままで経験したことのないような災害が各地で頻発しています。恐らくこのような状況はこの先も引き続き起きることでしょう。この随想では「モノからコトでシフトする時代」だと何度も述べて参りましたが、そこに天災という激しい外部環境の変化も加わると考えてまず間違いないでしょう。


さて、私たち浄土宗の僧侶は「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えます。誰もが知っているこの念仏ですが、その意味は意外に知られていないのではないかと思います。最初の「南無」ですが、これは「まかせる」という意味です。インドでは「ナマステ」と挨拶します。この「ナマステ」の「ナマス」が南無と同じ意味となり、最後の「テ」は「あなた」を表します。したがって「ナマステ」は「あなたにおまかせします」という意味となります。同様に南無阿弥陀仏も「阿弥陀仏におまかせします」という意味です。宗派によってはこの解釈が異なることがありますが、元々はこのような意味でした。


さらに言い方を変えると「阿弥陀仏に助けてください」と懇願することが、私たちにとっての念仏の意味です。つまり、毎日お称えしているのは阿弥陀さまへ対するSOSなのです。


さて、あなたは困ったときに「助けて」と言えますか?この現代社会を見渡したとき、誰かに「助けてください」と言いやすい環境と言えるでしょうか?お一人住まいの高齢者の孤独死が社会問題になっています。子どもを育てる貧困家庭も増えています。そして、このたびのような災害がいつ起こるかわかりません。いつどこでだれがどのような困難に遭遇するかわからないのが人生です。しかしながら、誰にも助けてと言えない社会だとしたら、それは果たして健全な社会と言えるのでしょうか?


自利利他円満という言葉があります。これは、自分の利益と他者への利益の双方がそろって円満になるという意味です。自分さえ良ければいいというのは仏教が考えるゴールではありません。そばにいる他者、離れている誰かも含めて幸せになることがわたしたちの目指す社会のあり方ではないでしょうか。


助けてといえない社会は苦しみの社会です。誰かのSOSを聞けば、そこに自ずと手を差し伸べられること。そういう連鎖が社会全体に安心感を生みます。このような安心が誰かのSOSを優しく受け止めるでしょう。「助けて」と言える社会が安心して暮らせる社会の大切な条件だと思います。

(2019年11月13日掲載)  

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