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ものの見方を調える@第2回しもつけ随想

■ものの見方を調える

前回は、モノからコトへシフトしている時代について、そして、そのはざまで生じる苦しみについて概観しました。今回は、コト、つまり体験や経験、さらには意味付けなどについて考えていきたいと思います。


■レンガ職人の寓話

イソップ童話に「3人のレンガ職人」という話があります。ある旅人が、れんがを積む3人の男たちに「あなたは何をしているのか?」と尋ねます。最初の男は、生活のためにやっていると答えます。2番目の男は、れんが職人として成功するためにやっていると言います。そして、3番目の男は、人々の心を癒やす大聖堂を作っていると答えます。もちろん3人ともやっているのは全く同じれんが積みです。
1番目を労働といい、2番目を仕事といい、そして3番目を使命といいます。しかし、彼らに見える風景は全く異なります。労働として行っている人からは「こんなくだらないことをやらせられている」と愚痴が出て、昇進を目指して仕事としてやっている人からは「つらい仕事だが、我慢するしかない」と不平が出て、使命としてやっている人からは「教会を建てて人の心を癒やし、多くの人を救うんだ」と希望があふれてきます。このように使命を感じている人には、同じ単調なことでも、そこから喜びや生きがいを生み出すことができます


■解釈が人生を決める

ニーチェの言葉に「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」という言葉があります。これは仕事に対しても、人生に対しても同じことが言えます。捉え方によって今この瞬間の目の前の出来事の意味ががらりと変わります。上記のれんが職人の寓話(ぐうわ)も3人の解釈の違いを明快に物語っています。では、解釈をする主体とは一体何でしょう? それはあなた自身の心です。

仏教では「一切唯心造」全ては心がつくるといい、心理学では「認知」といいます。私たちは自分自身の価値観・性格傾向・気分などによって、物事を自分の見たいように見ています。見たいように見ている心の癖を、よりよく調整しようとするのが仏教の基本的な態度です。心理学でも認知療法や認知行動療法などがよく似ています。


■正しく見る −正見−

さて、では、よりよく見るとはどういうことか? 仏教で理想とされるものの見方を「正見」といいます。つまり正しいものの見方です。ここでいう「正しい」の意は、エゴなどを取り除いて物事を見る態度を指します。「正」という漢字を二つに分解すると「一と止」になります。つまり、一歩立ち止まって物事を見ることが「正見」です。心理学ではメタ認知といいます。


■モノの見方からジブンを外す

私たちはエゴを根底に持ちながら、物事を見てしまいがちです。しかし、そのエゴを離れた時に、よりよいものの見方が得られます。例えば先ほどの自分自身の生活や昇進のみを目指している2人のれんが職人ではなく、3番目のれんが職人のように、今の自分のみならず、後世の人々の幸福まで願って働くことは、まさにその好例といえるでしょう。

(2019年9月4日掲載)

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※画像は、15年前にインド・サンチーでのぼく。お釈迦さまの御遺骨が収まっているレンガのストゥーパに抱きついている。

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