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学校の先生が好きなものは仕事にしないほうがいいという本当の理由

あなたは「好きなものは仕事にしないほうがいい」と大人や学校の先生からいわれたことはないだろうか。私は、ある。

42歳の今は、好きなことを仕事にしているが(ラッピングだったり、店舗のディスプレイの指導だったり)、10代は夢見る夢子ちゃん、20代は就職氷河期だったこともあり、何度も好きなことは仕事にできないのかもしれない、と思うことがあった。

恐らくこのコロナ禍で、10代、20代のあなたも、くじけそうになっているかもしれない。そんなあなたに、私の経験を話したいと思う。

絵で食べていくのは難しい、と言われた高1

幼稚園の時、「おとなになったら何になりたい?」と聞かれて、答えたのが「マンガ家」だった。なぜ、そんな仕事を知っていたのかわからないけど、画家でもなく、イラストレーターでもなく「マンガ家」と答えた。

小学生の頃から雑誌に月3本描いて投稿する、という日々。あまりの書きっぷりに親も親戚もこの子はマンガ家になるだろう、と思われていた。

高校1年の時。入ってすぐ、進路指導があった。私は漠然と「絵」を描く仕事につきたいなあ、と思っていたけど、現実的なサンプル(先輩・見本)がなかったので、「文」で食べていけそうな文学部とかに進むのかなあ、と漠然と考えていた。当時の担任は、地理の先生だった。

「行きたい大学、学部はあるのか?」

私の高校は理系に力を入れていて、「上」も付いていた。めちゃくちゃ頭のいい人は他大学(東大とか)に行き、そうでもないけどほどほど人は「上」の大学にいき、学校の中でついていけない人は専門学校や、少しランクを落とした大学を目指すという構図だった。ただ、まだこの時点で高1なので、私はちょっとした思い付きで、次のように言ってみた。

「美大に行きたいです」

その時私は美術部に入っていて、2年の先輩はいなかった。3年生は3人いて、そのうちの一人が美大を目指していたからだ。

担任は困ったような顔をした。

「美術部だったね。でも数学はちょっとアレだけど、理科系は偏差値も70超えてるし、英語、国語も悪くない(偏差値68くらいだった)。うちの「上」なら余裕で目指せると思うけど」

「いえ、美大に行きたいです」

「好きなものは仕事にしないで、趣味にしたほうがいいよ。よくいうだろう。実際、絵で食べていくのは難しい」

若気の至りだっただけかもしれないが、そういわれれば言われるほど、私は美大にいってやる、と思った。

その時点で、絵が、どう、上手かったら、美大に行けるのかわからなかった。が、絶対行ってやる、と思った。

そして私は絵画の予備校にも通うことにした(その話はまたいつか)。

なぜその高校を選んだのか

私は中学の時にイジメてきていた子と志望校が重なり、偏差値72だったにも関わらず、60くらいの高校に爆下げした。そして知っている人が誰も居ない学校に入った。その学校はたまたまうちの中学から進学した人がいなかったので、入学式の時点では誰も友達がいなかった。

実は、小学校から中2まで8年間壮絶にいじめられていたので、人生がやりなおせると思い、すごく気楽になった。それまでずっと死にたいと思っていたのが、高校の3年間だけ、ぴたっと収まった。

高1のクラスでは、音大を目指している、という子と友達になり、美術部でも美大を目指している子や写真の専門学校に通いたいという子と仲良くなった。

みんな、18歳の時点では、夢を叶えて、それぞれ希望の進路に進んだ。

夢だった油絵科に入るけど

私は受験期、かなり追い詰められ、辛くなったので秋に推薦で決まる短大に進学することにした。

本当にノイローゼになっていたので、その時点の選択肢はよかったと思う。しかし短大に入ってすぐ、学校になじめなくなりいかなくなった。女子短大だったので、「下」から上がってくる子が多い。最初、その「下」から来た子たちと仲よくなったのだが

「なんか、あの子変だよね」

と、まさか短大でもイジメ(といっても無視程度、必要な連絡事項が回ってこない程度)。そこまでイジメられるのは、私がやっぱり普通じゃないんだろう。ただ、アルバイト先ではうまくやっていけてたので、私は学校にはあまり行かず、アルバイトばかりにせいをだしていた。

その頃は就職氷河期と言われていた。しかし二十歳で絵にしか興味がなかった小娘が景気、経済などわかるわけもない。今のようにインターネットもなかった。当時の情報源はテレビ、雑誌、周りの口コミ。以上。

当然SNSなどもないため、他の学校の人とつながったり、大人とつながるのはサークルか、アルバイトしかない。経済の情報など、自分が調べなければ見聞きすることもない。

ただ私たちが選んだ「油絵科」は食っていけるようになるまで、長くかかる、というのは当たり前の認識だった。学校で教授の助手をしたり、アルバイトをして絵を描き続けていくのが普通だった。うちの学部は80人中2人しか就職しなかったが(できなかった?)、たぶん、同学年の誰も心配していなかった。(1999年春の卒業)

就職したくても、就職先がない理由

卒業して半年くらいして、父が倒れた。母は頑なに働かないという。弟はまだ中学生だった。

仕方なく、どこでもいいので就職しようと思ったが、働き口がない。そもそも求人がないし、パソコンも使えない。パソコンは学校にある「ヤフー」を見るものだという認識だった。

自分が何に向いているかもわからない。資格はAT限定の自動車の免許のみ。今の時代のようにキャリアコンサルティングなど、学校に整備されていなかったから、就職したいと思ったら、自分で求人情報誌を買ってくるか、母校の就職課の掲示板を見に行くくらいだった。

卒業した時は、就職しようと思えば、いつでもできると思っていた。景気が悪い、とか有効求人倍率が、と言われても正直意味がわからなかった。

中学、高校、短大、と順調に来れたのと同じようなものが就職だと思っていた。社会に放り出されて、始めて就職したいという気持ちになった時、なすすべがなかった。

当たり前だ。絵しか描いてこなかった3年間。大人の言うことには一切耳を傾けなかった。唯一聞いてたのは、美術の先生の話(もちろん応援してくれていた)。

履歴書に書けることは「絵が描けます」だけだったのだから。

そこで、今まで自分が軽んじていた一般的なことが「働く」ということに、とても大事なのだと知ることとなった。

就職先で教わったこと

それでもなんとか卒業後半年遅れて、マンションの受付嬢として採用された。特殊なスキルは不要。ファストフード店でアルバイトをしていた、というだけで採用された。

ワード、エクセル、パワーポイントの扱いは、ここで教えてもらった。(ただしエクセルは「日報を書く方眼紙」のような扱いだったので、関数などは習っていない)

ファストフードとはちがう、上司への接し方、お客様への接し方。簡単にいうと挨拶や敬語の使い方。

ここで、社会人になる基礎を習った。私にとって、今で言うインターンのようなものだったのかもしれない。

ここでの経験を生かして、この後独立するまで、数社を経験した。

夢は諦めた時が、破れた時

マンションのモデルルームが完売し、契約終了になったあと、いくつかの仕事をした。

そして年を追うごとに、高1の時の担任が「好きなことは仕事にしないほうがいい」といっていたことの意味が分かった気がする。

正確にいうと「仕事にしようとしないほうがいい」というニュアンスだろう。

「絵でなんか食っていけるのは一握りだし、絵だけ勉強しても、将来つぶしがきかないよ」

という意味だ。

更に言うと

「夢が破れた時に、めちゃくちゃ辛いよ」

ということだ。

夢が破れた、というのは、いつが定義なのかは言えない。

不動産屋のあとに、運良くデザイン事務所の総務として採用してもらったが、赤文字系と言われるファッションの月刊誌の下請けをしている会社で、1週間家に帰れないなど、ざらだった。パワハラなどもあり、半年で退職した。念願のデザイン系だったのに、無念だった。

この時にはまだ私なら出来る、と思っていた。

その後、バッグを作る会社に就職するが、4ヶ月で倒産。

好きなことを仕事にしたいのに、出来ない辛さ。この時にはじめて、もうだめかも、と思った。本当に辛かった。

好きなことで食べられない=自分がダメだという認識。

昔の自分に、今アドバイスするなら、全くそんなことはないよ、と言えるが、当時は、自分が世の中に認められないということは、否定されていることだと感じていた。


夢は食って生きやすい夢と食っていきにくい夢がある

恐らく「夢」が、好きなことでも

「理系の研究者になりたい」

「看護師になりたい」

「教員になりたい」

「人と話すのが得意なのでリクルートの営業マンになりたい」

という夢であれば、好きなことでも応援されたのかもしれない。

文系卒の人が、マスコミに入ってジャーナリストになるのは少々難しいが、一般企業の総務や事務に就くのはイメージしやすい。

理系卒の人が、研究や開発が必要な会社に入るのも、イメージしやすい。

看護学校や医療系の学部で勉強し、試験に受かれば看護師にだってなれる。

もちろんどれも一定の学力が無いと難しいが、逆に一定の学力(と、求人)さえあれば、なれる可能性が高い。そう、誰でも階段がイメージしやすいものは、叶いやすい夢なのだ。

大人になってから知ったのは、食って生きやすい夢と食っていきにくい夢があるということ。

そうか、そうだったのか。

もっと早く教えてほしかった。でもまあ、当時の私にそう言われても、訊かなかっただろうけど。

つぶしがきく、きなかいとは?

短大卒は、2年早く仕事をしているのに、4大卒で社会人経験が浅い子よりいつも給料が低かった。

美大卒かあ、何ができるの?と言われて何度も面接に落ちた。言い返せない自分のスキル不足が原因だが、美術、芸術、デザインから「美大卒雇ってもなあ」という空気を感じていたのも事実だ。

氷河期も相まって、仕事は1年ごとの契約くらいしかない。転職して会社が4ヶ月で潰れたこともあった。めちゃくちゃな時代だった。

多分コロナの今もそんなかんじなのかもしれない。

大学生の子らと話をすることもあるが、アルバイト先の飲食店の再開のめどが立たない、就職先もオンライン面接ばかりで空気感がわからない、と聞く。

つぶしがきく人間であれば、きっとどこへ行っても大丈夫だ。しかし私は「つぶしがきかない」人間だった。そして、あちこちで揉まれ、(すぐには)好きな仕事につけなかったおかげで、今はつぶしがきく人間になっていると自負している。

つぶしがきくとはどういう意味かと言うと、他の職業でも十分に働いていけること。 金属をつぶして他の用途に用いることに由来するとされる。

わたしが考える「つぶしがきく」ようになるための方法は3つ。

いい大学を出ていたら、大体つぶしがきくと思う。(東大とか京大とかわかりやすいところ)

次にコミュニケーションが取れる人間であること。挨拶がきちんとできて、人懐っこい、可愛がりたいと思われたら勝ち。

最後は何か、めちゃくちゃ秀でたもの、得意なこと、好きなことがあること。

私は卒業する時点で、この3つともなかった。卒業したのは3流の美術短大だし、好き嫌いが激しくプライドが高くて、コミュ障。絵が描けるといっても中途半端だし、公募展で賞を取ったわけでもない。

これから生き抜いていくのに必要な3つこと

私が卒業してから22年。時代も大きく変わっている。

恐らく上記に挙げた3つのことを心がければ、もう何年かは食べていけるはずだ。しかし、私が就職しようとしてもがいていた頃より、多様性も認められ、大学だけが価値ではない風潮もある。

スマホやSNSの登場で 今まではYoutuberやインフルエンサーという、広告収入を得るという新しい職業も出てきた。

昔は才能とコネ、そして運が必要だった芸能界や音楽業界も、自分がいいと思ったら自分で発信して、認められていく時代。

そう、これから必要なのは、「その人らしさ」、言い換えると「突出した才能」「創造性」だ。

「その人らしさ」「突出した才能」「創造性」というとそれこそ芸術分野だと思われがちだ。が、「コミュニケーション取るのが得意」なのもその人らしさだし、「何かのオタク」なのも突出した才能だし、「新しいサービスを生み出す」ことも創造性だ。

それは、決して一部の芸能人やYoutuberのような派手な振る舞いをすることではない。

自分の好きなことを徹底的にやり抜いて、それを新しいものに昇華させる力。それがあればきっとこれからの時代も生き抜いて行ける。

自分の追求と発信で道は開ける

私が好きなことで仕事ができているのは、受付嬢の時にHPの作り方を教えてもらったことが大きく関係している。

最初は遊びでブログのようなものを書いていただけだが、そのうち各モデルルームのHPを作らせてもらったり、今のドメインとなる「雑貨屋小箱」というネット通販を立ち上げたりした。

「パソコン、わからない~、苦手~」といっている先輩たちをよそ目に、ラッピングの仕事を取れていったのもHPやブログをいち早く立ち上げたからである。

もしあなたが今、自分に合うか合わないかわからない中、とにかく就職したいと思っているなら、一度本当に自分は何が好きなのか立ち止まってかんがえてみてほしい。

もちろん、生きていくためにいっときは本意じゃない仕事をしなければいけないこともあるだろう。

でもそんな中でも、自分らしさを見失わないでほしいし、今、自分らしさがわからないなら追求していってほしい。

接客が嫌いでメイクすることが好きなのに、飲食店でアルバイトをしなくてもいい。

メイクが好きなら、徹底的に研究して、既存のYoutuberを超える発信をしよう。

スポーツが大好きなのに、室内でじっとしている事務職に就かなければいけないなんてこともない。

運動が好きなら、徹底的にやってみよう。今は事務職かもしれないが、運動能力をPRした発信をしたら、どこからかスカウトがくるかもしれない。

好きな勉強があるなら、徹底的に研究してみよう。既存の知識はもちろん、疑問に思ったことを追求していけば、その道のプロになれるはず。

42歳の私が言えること

好きなことを仕事にできたのは「努力」と「工夫」そして「諦めなかったこと」。新卒の時はつぶしがきかない人間で学歴も資格も無い人間だったけど、それ故に後付で勉強したり、資格を取るなど努力もしたし、発信して見つけてもらう工夫もした。

ただ、一番大事なのは「諦めなかった」こと。どうすれば好きなことで食べていけるのか、だけをいつも考えていた。

不動産や金融など、デザインから程遠い仕事をしていたこともある。電話のセールスなんて苦手なのに、融資の案内などをしていた。派遣と派遣の間に、ティッシュ配りもしたし、タバコのキャンギャルもした。家電量販店でシェーバーやウォシュレットを販売したり、イベント会場で真空パックの機械を売るために冷凍の鮭を何百本もパックしたこともある(笑)真冬にチーズの試食販売で、冷蔵エリアで凍えてたこともある。

それでも「いつか自分のセンスが活かせる仕事がしたい」と思って、諦めなかったから今がある。たまたまそこにラッピングや店舗ディスプレイがマッチしたので、卒業の時に思っていた「絵」「デザイン」ではなかったけど。

だから、今、すごく辛いところにいる若い人たちも、諦めないでほしい。あなたの才能は、埋もれているだけだ。諦めずに発信していけば、きっと夢は叶う。

先生や身近な大人が「好きなものは仕事にしないほうがいい」という本当の理由は、きっと彼らにも破れた夢があったり、好きなことを仕事にしてしまったがゆえの辛さがあるからだ。それはあくまで、その人達の経験。

あなたが諦める必要はない。

時間が経てば世の中も、自分も変わる。

私も20代の時は、本当に仕事が続かず、何度も無理だと思ったが、気がついてみればもがいてもがいて、もがきまくって、いつの間にか好きなことを仕事にできている。

ぜひ、諦めずに、あなたの好きなことを貫いてください。


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小売店のブランディングから一歩踏み込んだ、理念や想いを形にするお手伝いをするコンサルティングをしています。店舗ディスプレイ、POP、ラッピング、ライティングで見せる発信のコツをお伝えしています。