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芥川龍之介に日本の生活と詩はあるか? 

  今度と同じ題目で、昔も一度、室生君と烈しく喧嘩をしたことがある。その時は僕もまだ年が若く、客觀の認識力がなかつたので、室生君の「東洋趣味への傾向」を、詩の同志を裏切る者として腹を立てた。それは僕が獨合點で、昔から室生君を自分と同じ氣質の詩人であり、それ故にまた日本の文壇や文化に對して、戰ひを持つ共同の戰士であると思惟してゐた爲であつた。だが裏日本の金澤に生れ、暗い過去の傳統の中に育つた室生君が、長じて日本趣味に轉向するのは自然であつて、むしろそれが本來の囘歸であつた。當時僕が怒つたのは、家鴨の卵から鷄が生れたと言つて腹を立てたやうなもので、今思へば我ながら認識不足の滑稽である。

 僕も今では、だんだん日本の好い趣味が解つて來た。昔は聽くも耳の穢れと思つてゐた三味線が、今ではオーケストラよりも好きになつて來た。昔は人間墮落の骨頂と思つて憎惡し切つてゐた江戸文化が、今ではそれほどに惡くない。俳句や茶道の幽玄な妙趣なども、だんだん少し宛解つて來た。昔、芥川君によく連れられて行つた田端の自笑軒の風流料理が、今では時々食ひたくなる。それを昔は「非營養料理」と罵つて、芥川君に「野蠻だなあ」と呆れられた。もつとも人が五十年近くも日本に住み、毎日疊の上に坐つて米や味噌汁を食つてゐたら、どんな生えぬきの外國人でも、少しは皮膚の色が變つて來る。ただ變らないのは、人種の遺傳された骨格だけだ。

(萩原朔太郎『悲しき決鬪』)

 堀辰雄が室生犀星について「あなたこそ最も東洋的な精神の持主であると思ひます」と書き、萩原朔太郎がやはり室生犀星について東洋趣味の人と見做し、どちらかと言えば芥川もそちら側に置いていることは面白い。

 しかし芥川の俳句のように芥川の東洋趣味もまた、そんなに根が太いわけではないのかもしれない。

 例えば泉鏡花は東洋趣味の第一人者、というよりもっとも日本的な文学者であると誰しも認めるところであろう。その根の深いところに芥川は最短距離で近づこうとしたようなところがないだろうか。

 つまり『後漢書』を読むのではなく、孫引きの注釈に頼るようなところがなかったであろうか。

 購読者の中には、まだ学生時代の芥川竜之介もいた。後に世間で芥川の名を見るようになった時、「どこかで会ったことのある名前だが」と思ったりしたが、実は「甲寅叢書」の熱心な読者の一人であった。ずっと後のことであるが、有名な『河童』という小説は、私の本を読んでから河童のことが書いてみたくなったので、他に種本はないということを彼自身いっていた。

(柳田国男『故郷七十年』)

 わずか五百部しかない『山島民譚集(さんとうみんだんしゅう)』を泉鏡花と芥川龍之介は手に入れた。その種本が功を成したのは最晩年の一度きりではあるが、芥川は実に効率的に利用できたであろうか?

 じつは芥川の『河童』の設定は独特なもので、『山島民譚集(さんとうみんだんしゅう)』そのものは種本と言われるほどの影響を与えているようには思えない。逆に言えば『山島民譚集』を汲み尽くしたとは見えないのである。

 芥川氏は、仏蘭西の作家を愛してゐたやうだが、遂にその誰からも本質的な影響を受けなかつたらしい。一見模倣とさへ思はれる「ルナアル風の短文」にしても、恐らくルナアルの心境からは遠い心境によつて綴られたやうに思へる。これは芥川氏の恥ではない。仏蘭西文学にとつての損失だ。
 アナトオル・フランスの微笑、バアナアド・シヨウの微笑、芥川竜之介の微笑――この三つの微笑が、同じ皮肉の花びらを彩るニユアンスこそ、三つの民族、三つの文学を隔てる永遠の謎であらう。
 そして最後に、芥川氏自身を殺したのは、この微笑――このあまりに日本的な微笑ではなかつたらうか。(一九二七、一〇)

(岸田國士『悩みと死の微笑』)

 この岸田国師の指摘は、坂口安吾の指摘と重ねられた時、思いがけない毒を持って來る。安吾は芥川にフランス文学の教養が欠けていることを指摘した。岸田國士は芥川がルナールを読み切れていないとは書いていない。日本的であると書いているだけだ。

 しかし芥川が『後漢書』や「老子」を読み切れていないのであれば、『猿蓑』も蕪村も読み切れていないのであれば、仏蘭西の作家を愛してゐた芥川がついにその本質に届かなかったから、三つの文学が隔たってみえるということはないだろうか。

 私は芥川を文豪に置かない。

 立原道造や中原中也、太宰治は文豪ではない。彼らを文豪と呼ぶとかえって貶めているように思える。谷崎は文豪である。

 芥川に伝統がないという坂口安吾はやはり芥川には文豪の「豪」がないというのではなかろうか。安吾は芥川の「日本的」なところまで否定する。

 しかしここで少し冷静になろう。

 坂口安吾の言葉はこと「フランス語」に於いてなにがしかの根拠を持っているようでありながら、時代と安吾が呼ぶ戦争の暗さに染められた、憎しみの表れでもあるのだ。

 芥川は太宰よりも、もっと大人のような、利巧のような顔をして、そして、秀才で、おとなしくて、ウブらしかったが、実際は、同じ不良少年であった。二重人格で、もう一つの人格は、ふところにドスをのんで縁日かなんかぶらつき、小娘を脅迫、口説いていたのである

(坂口安吾『不良少年とキリスト』)

 芥川が女たらしであることは否定しない。しかしさすがに「ふところにドスをのんで縁日かなんかぶらつき、小娘を脅迫、口説いていたのである」というまでのことはなかったのではなかろうか。

 安吾は芥川を憎み、痛いところを突いた。

 確かに最晩年芥川はシャルル=ピエール・ボードレールを引っ込め、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテにすり替えたようなところがある。

 このすり替えのインチキ臭さは言うまでもない。芥川はボードレールをフランス語で読んだだろうが、ゲーテはドイツ語で読めたであろうか。間違いなくここには隙があるのだ。

 しかしまた堀辰雄が「芥川龍之介はドストエフスキイの一行をこそ欲すべきではなかつたか」と書いていることが、甚だ見当違いに思えて面白い。安吾は芥川から東洋どころか日本まで奪おうとした。ドストエフスキーを持ち出せば片付く問題ではない。むしろ『猿蓑』も蕪村も読み切れていないのであれば、芥川も案外根無し草であると認めていいのではないか。

 それは根本的な疵ではない。

 そこそこ根無し草であることは、芥川の天才をいささかも損なうものではない。『史記』に「劉長伝」が見つからないとしても、三省堂の『全訳 漢辞海』は素晴らしい漢和辞典だ。

 間違いは誰にでもある。人にはそれぞれ知っていることと知らないことがある。ラテン語までやらないと英語は分からないという考えもあろうが、それは程度問題ではなかろうか。

 例えば安吾は芥川の熱心な読者ではないので、『一塊の土』を読んでいないのではなかろうか。そして寝たきりの良人に跨るお住の姿が見えていないのではないか。

 私はこれが日本だと思う。書かない。けれども事実としてある。そういう設定や書き方を含めて「省略」という短詩型の芸術を極めた日本でこその小説だと思う。一間で三世代が暮らしていて二人目の子供ができる日本には5000を超える俳句の結社があると言われ、俳誌も四百を超えると言われている。そんなひそかな詩人の国が世界に他にあるだろうか?

 この詩人の国だからこそ『一塊の土』は成立するのだ。

 芥川に日本の生活と詩はある、と私は断ずる。しかし室生犀星の東洋趣味に飽き足らないものがあり、西洋の教養を求め、安吾がいうところの欠如に苦悩していた可能性は否定しない。ふところにドスはなかろう。


【余談】

 ですから私があれこれ考えるのは全く文学の方法としてのことです。芥川龍之介は佐藤春夫のことを、生き恥をかく男と云って当時酷評とされていました。でもそれは一つの炯眼でしたね。私は昔から所謂文壇ぎらいで、そういう常套の雰囲気なしで生きて来ているし、いい友達はこういう折に益〃いい友達として誠意を示してくれるし、それだけの面から云っても孤独の感じはありません。それは圧迫となりません。そんなものは私に遠いわ。そうなわけでしょう? どうしてわたしが孤独でしょう! その人の人生にすじさえ通っていれば過去にも未来にも、知己は、各〃の卓抜な精励の業蹟の中から相通じる人間精神の美しい呼吸を通わせます。孤独になるのは、その者が、迷子になったときだけよ。日常生活の中においてさえそうです。宇宙の法則から脱れてほしいままに自分にまけたとき、孤独は初まるのでしょう。

(宮本百合子『獄中への手紙 一九四三年(昭和十八年)』)

 昭和十八年になっても宮本百合子は芥川のことを書いている。令和五年になっても私が芥川について書いていることと似ていようか。

 一人の作家のなかにある、作家とモラリストとの関係は、いろいろ興味ふかく且つ本質にふれた問題ですね。芸術の向上の歴史がそこに語られても居るようです。この間いろいろ考えているとき、芥川の「或る日の馬琴」を思い出しました。つづいて「地獄変」を。
 こういう問題のチャンピオンはトルストイと考えられていて、たしかに彼はあの強壮な精神と肉体との全力をつくして立てられる限りの音をたててこのたたかいを行いましたが、考えてみると、実に不思議に自分の枠をはずせなかった人ですね。あんまり枠が大きくて、つよくて、こわれなかったのかもしれないけれど、最後の家出にしろ修道院に向ってであって、それは客観的には最も彼にとってやさしい方向でした。自分の一面の力への降伏であったと思います。更に面白いことは彼にあれだけの文学作品があって、それではじめて、あのモラリストとしての動きの意味や価値が明らかにされていることではないでしょうか。

(宮本百合子『獄中への手紙 一九四三年(昭和十八年)』)

 この時点で宮本百合子はトルストイと芥川のゴシップを耳にしていないようだ。しかし芥川のモラルが壊れていたことは『歯車』……でないにしても、

二十三 彼女
 或広場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。
 彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。五分ばかりたつた後、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」と言つて頬笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明い広場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる為には何を捨てても善い気もちだつた。
 彼等の自動車に乗つた後、彼女はぢつと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顔はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。

(芥川龍之介『或阿呆の一生』)

 芥川がモラリストではないことは明らかだろう。

 織田作の『夜の構図』が昭和二十一年。織田作は芥川がモラリストではないことをとうに見抜いていたように思う。

 日本の文学的伝統における散文の力とはどういうものでしょう、この見地から見直すと、漱石の散文は秋声よりも弱いと思います。寛の散文は初期だけ。芥川のもよせ木です、もろい。小さい、器用です。志賀のは、よく洗ったしき瓦でたたんだような散文ですね、建造物的巨大さはありません。「誰がために鐘はなる」などは、肉体的ぬくみと柔軟さとスポーティな確乎さをもっていて新しい一つのタイプでした。そうお思いになるでしょう?
 私は今の自分として、もっているプランに添ってもバルザックが分って来たことをうれしく思って居ります。自分の散文を全く散文の力を十分発揮し得るものと鍛えたいと思います、私が詩人でないことに祝福あれ。
 では又ね。

(宮本百合子『獄中への手紙 一九四三年(昭和十八年)』)

 どうも宮本百合子も芥川を文豪に置かない。宮本百合子は三島由紀夫的な方向へ向かっていたのか。しかし『風流滑稽譚』が出るのは昭和二十一年だ。

 それにしても宮本百合子は貫録があるなあ。


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