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幸田露伴とは、国民的文豪なりや

総意的な流行

 東郷、乃木将軍らの軍国切手が追放されたに代って、文化人の肖像を入れた「文化」切手をつくろうと逓信省が案をねっているそうだ。
 このキッカケとなったのは、七月卅日の幸田露伴の一周忌を記念して、この文豪の肖像を切手にしては、と日本出版協会から申入れがあったせいの由である。
 以上は新聞の雑報であるから、真偽のほどは確かでないが、日本出版協会とか何とか文化団体とかのやりかねないことだ。
 いったい、幸田露伴とは、国民的文豪なりや。いったい、露伴の何という小説が日本人の歴史の中に血液の中に、生きているのか。
 少数の人々が「五重塔」ぐらいを読んでるかも知れないが、「五重塔」が歴史的な傑作の名に価いするか、ともかく、一般大衆の民族的な血液に露伴の文学が愛読されているとは思われず、むしろ一葉の「たけくらべ」が、はるかに国民に親しまれているであろう。
 一般大衆の流行の如き、とるに足らぬ、と仰有るならば、笑うべき暴論と申さねばならぬ。死んで、歴史に残る、という。文学が歴史に残るとはいつの世にも愛読されるということで、これにまさる文学批評はないのである。一部に専門的に、どれだけヒネクッた批評があるにしても、いつの世にも愛読されるということより大いなる、又、真実の批評がある筈はない。
 たとえば、坂口安吾という三文ダラク論者が、汗水たらして、夏目漱石は低俗軽薄文学也とヤッツケてみても、その坊ちゃんとか猫とかは、すでに国民の血液の一部と化しつつあるではないか。これに比べれば、三文ダラク論者のヒネクレル説の如きは問題にあらず、と申すより仕方がない。
 露伴の作に、坊ちゃんや猫の如く、国民の血液化しつつある何作品がありますか。彼は我々の血液に、何物を残しましたか
 三文ダラク論者が大衆の流行に反して、漱石をくさすのは勝手なことだが、国民総意のアカシたる切手の如きものに肖像を入れるに際して、個人的な文芸批評が許さるべきものではない。
 国民総意の流行が、いかに低俗でも、それが真に総意的な流行ならば、仕方がないものだ。

(坂口安吾『ヤミ論語』)

 安吾がまた漱石の悪口を書いていると思えば、やり玉に挙がっていたのは幸田露伴だった。
 確かに尾崎紅葉には『金色夜叉』というヒット作があり、それに比べて『五重塔』は有名ながらも国民的総意の流行を勝ち得たとは言えぬかもしれない。

 坪内逍遥にはシェイクスピアの翻訳がある。そういう意味では紅葉、逍遥、一葉、漱石は「国民的」と言えよう。

 一方で露伴を「文豪」ではないと見做さないこともやはりできまい。幸田露伴は文豪である。

 何か調べものをしていて幸田露伴に助けられたことは一度や二度ではない。しかもそれはほぼ結論で、問題が解決してしまう。あれとこれとを比較して、どうも露伴が怪しいということはない。まず露伴が正しい。

 そういう意味では露伴は文豪である。

 又ひどく個人的なことながらこのnoteで二番目に閲覧数の多いのが幸田露伴のこの記事である。

 確かに幸田露伴を読む読者はそう多くはないが、多くの人の中に「あの幸田露伴」という文豪のイメージがあり、それなりの興味を持たれ続けていることもまた確かであろう。

 ただし幸田露伴はもうなかなか読まれなくなっている。使われている言葉が解らなくなっている。しかし国立国会図書館デジタルライブラリーのおかげで、今でこそ国民的文豪の役割を果たしてもいる。ヒット作の有無で国民的文豪が決められるものではない。国会図書館デジタルライブラリーを検索していて、幸田露伴に行き当たった時の安堵感たるや半端ない。

 最後にどっしり構えている文学の巨人、それが幸田露伴である。樋口一葉も夏目漱石もお札になった。幸田露伴の切手くらいあってもばちは当たらないと思う。



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