安吾がまた漱石の悪口を書いていると思えば、やり玉に挙がっていたのは幸田露伴だった。
確かに尾崎紅葉には『金色夜叉』というヒット作があり、それに比べて『五重塔』は有名ながらも国民的総意の流行を勝ち得たとは言えぬかもしれない。
坪内逍遥にはシェイクスピアの翻訳がある。そういう意味では紅葉、逍遥、一葉、漱石は「国民的」と言えよう。
一方で露伴を「文豪」ではないと見做さないこともやはりできまい。幸田露伴は文豪である。
何か調べものをしていて幸田露伴に助けられたことは一度や二度ではない。しかもそれはほぼ結論で、問題が解決してしまう。あれとこれとを比較して、どうも露伴が怪しいということはない。まず露伴が正しい。
そういう意味では露伴は文豪である。
又ひどく個人的なことながらこのnoteで二番目に閲覧数の多いのが幸田露伴のこの記事である。
確かに幸田露伴を読む読者はそう多くはないが、多くの人の中に「あの幸田露伴」という文豪のイメージがあり、それなりの興味を持たれ続けていることもまた確かであろう。
ただし幸田露伴はもうなかなか読まれなくなっている。使われている言葉が解らなくなっている。しかし国立国会図書館デジタルライブラリーのおかげで、今でこそ国民的文豪の役割を果たしてもいる。ヒット作の有無で国民的文豪が決められるものではない。国会図書館デジタルライブラリーを検索していて、幸田露伴に行き当たった時の安堵感たるや半端ない。
最後にどっしり構えている文学の巨人、それが幸田露伴である。樋口一葉も夏目漱石もお札になった。幸田露伴の切手くらいあってもばちは当たらないと思う。