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岩波書店・漱石全集注釈を校正する54 遠い昔の内面の消息は人間の本体で煩悶はお幾つ?

空想的で神秘的で


「遊びかたがたさ。あすこへ行って、ちょっと写生して来て、材料にしようと思ってるんだがね」
「何の材料に」
「出来たら見せるよ。小説をかいているんだ。そのうちの一章に女が花園ののなかに立って、小さな赤い花を余念なく見詰みつめていると、その赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまうと云うところを書いて見たいと思うんだがね」
「空想小説かい」
「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい。うまく感じが出ればいいが。まあ出来たら読んでくれたまえ」

(夏目漱石『野分』)

 岩波はこの「空想的で神秘的で」に注を付け、中島敦の泉鏡花に対する評を引用する。泉鏡花が「空想的で神秘的で」あることは間違いない。しかし夏目漱石とは没交渉の泉鏡花を持ち出す意図が明確ではない。

 結果として夏目漱石は『倫敦塔』のような「空想的で神秘的」な作風から、谷崎潤一郎が感心した『草枕』『虞美人草』的なもの、泉鏡花や純日本的な文学の気配をひらめかしつつも、比較的平易な、つまりおばけが出てこない程度に現実的な作風に転じたと見做されており、泉鏡花贔屓の谷崎潤一郎は夏目漱石を見限り、激しくこき下ろした。
 そうしたところを眺めた上でやはりここで中島敦の泉鏡花評を持ち出すのは適切ではなかろうと思う。このあたり、比較により漱石の文学観を示そうとしていると受け止めても、少し散らかった感じが否めない。
 そもそも「空想的で神秘的」「赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまう」というだけで泉鏡花と結びつけてしまうのはいかがなものか。

花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに

 ならば小野小町だ。

遠い昔しが何だかなつかしい


 岩波はここに森鴎外の『青年』を引き、「こん度は現代語で、現代人の微細な観察を書いて、そして古い伝説の味わいを傷つけないようにして見せようと、純一は工夫しているのである。」という考え方を例示する。

 泉鏡花に続いて森鴎外……。「遠い昔しが何だかなつかしい」と「古い伝説の味わいを傷つけないように」はつながるようでつながらない。この比較によって何かが明確になっているかと言えば、そういうことでもなかろう。

 これは飽くまで純一の考え方であり、高柳君の考えではない。

 夏目作品で言えば『倫敦塔』は「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするもの」と言えなくもない。ただ夏目漱石自身の作品で『野分』以降、遠い昔しを舞台にした作品はない。高柳君と漱石の文学観の違いの表れであろう。
 この文学感の相違は、注釈者の中でさらに追及されていく。

僕の内面の消息にどこか、触れていれば


「自然なんて、どうでもいいじゃないか。この痛切な二十世紀にそんな気楽な事が云っていられるものか。僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだからな。奇麗でなくっても、痛くっても、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、触れていればそれで満足するんだ。詩的でも詩的でなくっても、そんな事は構わない。たとい飛び立つほど痛くっても、自分で自分の身体を切って見て、なるほど痛いなと云うところを充分書いて、人に知らせてやりたい。呑気なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、人間の本体はここにあるのを知らないかと、世の道楽ものに教えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思っていなかったが、云われて見るとなるほど一言もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なんだ。君とはだいぶ方角が違う」
「しかしそんな文学は何だか心持ちがわるい。――そりゃ御随意だが、どうだい妙花園に行く気はないかい」

(夏目漱石『野分』)

 ここで岩波は「内面の消息」に注を付け、『虞美人草』の一節を引く。これは作品解釈上は正しいようで、正確さを欠く。

 何故ならこの「内面の消息」は漱石以前から使われていた言葉であり、また漱石と無関係に広く使われた言葉だからだ。このことから寧ろ、『虞美人草』に意味を閉じるのではなく、広く一般に使われた用語の意味を注釈すべきではなかろうか。

「阿叟の生前死後をさだむる」と云へるは、芭蕉死後の句の續猿撰に入りては、續猿蓑は芭蕉の鑑裁を經ざるものとなりて、信を世に取ること能はざれば、これを判定取捨せしにて、こゝに續猿蓑撰集の內面の消息盡く明らかに露はると云ふべし。

炭俵・続猿蓑抄 幸田露伴 著岩波書店 1930年

渠れの心理的描寫は筆を內面の消息に起して、外部の動作またやがて躍如として紙面に表はる。
一は外部の脚色に思ひを凝らし、他は深く內面の消息を探らんとす。是を以てスコットが諸作は其構想の雄大なるに反し、其心裡の描寫に至りては情なく、熱なく、陳腐にして、時に背理なるものなきにあらず。

最近英国小説史 中島茂一 著東京専門学校出版部 1901年

藝術で入用なのは、只この內面の消息で、外面の方は歴史の事である。この二つは互に全く離れる事も出來れば、又一〓に現はれる事も、各々別々に現はれる事も出來る。

意志と現識としての世界 上 ショペンハウエル 著||姉崎正治 (嘲風) 訳博文館 1910年

 そして漱石自身もさしてひねりなく使用している。

矛盾には違なからうが夫は單に形式上の矛后であつて内面の消息から云へは却つて生活の融合なのである。

(夏目漱石『中味と形式』)

 高柳君の文学観に比べれば、中野君の文学観の方が『文芸の哲学的基礎』の、

 そうして百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃き出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完うしたるものであります。

(夏目漱石『文芸の哲学的基礎』)

 この意気込みと合致するように思える。

人間の本体


 岩波はこの「人間の本体」の注釈に『文芸の哲学的基礎』からこの部分を引く。

 もし我々が小説家から、人間と云うものは、こんなものであると云う新事実を教えられたならば、我々は我々の分化作用の径路において、この小説家のために一歩の発展を促されて、開化の進路にあたる一叢の荊棘を切り開いて貰ったと云わねばならんだろうと思います。

(夏目漱石『文芸の哲学的基礎』)

 まさに意味の説明としては適切な引用ながら、語句の注釈としてはこのように、その語句そのものをスヰフトの評価に用いて、前例踏襲すべきであろうか。

一言にして云へば、スヰフトは善惡、美醜、壯劣の部門に於て、寸毫の滿足をも吾人に與へないのである。しかして是が人間の本體だと云ふ。看板を懸けて本體屋と號するのでも、樂隊を雇つて本體を廣告するのでもない。

(夏目漱石『文芸評論』)

 これに対してアヂソンやスチールに対してはやや辛口で、まだ足らんという流れに見えるが……。

然し、都會の風俗は、人類發展の一停車場として吾々の注意を惹くには違ひないにしても、其風俗を作り上げた人間內部裏面の消息迄も此表面上の敍述中に充分含んでゐると思ふのは間違である。

(夏目漱石『文芸評論』)


たゞ一方は前にも屢述べた如く儀容作法の末節に走つた事實を傳へ、一方は人間の內部を裏返しにした事實を傳へたと云ふ相違になる。此點に於て雙方の優劣を論ずるは一に標準の立て方である。深淺を標準にすればスヰフトが勝つ。勝つとは淺い方が惡いと云ふ意味である。然し油繪よりも水彩画が好いと云つたり、水彩画よりも俳画が面白いと云つたりすれば逆さまになる。

(夏目漱石『文芸評論』)

 最終的に比較は相対主義で片付ける。後は読者に任せたらよかろうと放り出す。この時点から実際に小説を書き始めて、『文芸の哲学的基礎』の時点では知らず知らず中野君よりの文学観に到達していたとみるべきであろうか。

現代青年の煩悶


「実は今度江湖雑誌で現代青年の煩悶に対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありまして、それで普通の大家ばかりでは面白くないと云うので、なるべく新しい方もそれぞれ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支えがなければ、御話を筆記して参りたいと思います」

(夏目漱石『野分』)

 岩波はこの「現代青年の煩悶」の注釈で藤村操によって「煩悶」が流行語になったとし、さらに『それから』『行人』に「煩悶」の文字があることを紹介する。

 


 これはいかにも中途半端な説明ではなかろうか。

「いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三日坊主のものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まってから、世の中がなくなるまで続くので、ちっとも問題にはならないでしょう」

(夏目漱石『野分』)

 ……として漱石はそもそも藤村操的煩悶をばっさり切り捨てているのだ。藤村操的煩悶はくだらない。
 そして『野分』に「煩悶」の文字が現れる。そして夏目漱石作品に「煩悶が」現れるのは『それから』『行人』だけではない。たまたま目についたところを拾うのではなく、もう少し丁寧に調べるということが必要ではないか。それが人に何かを教示する立場にある人間の最低の準備ではないか。

 そもそも人間にとっては煩悶とはなかなか逃れがたいものである。


『幻影の盾』1(「苦悶」0)
『吾輩は猫である』5 (「苦悶」2)
『趣味の遺伝』1(「苦悶」0)
『坊っちゃん』0(「苦悶」0)
『草枕』2 (「苦悶」1)
『二百十日』0(「苦悶」0)
『野分』20(「苦悶」0)
『虞美人草』5(「苦悶」0)
『坑夫』15(「苦悶」0)
『三四郎』0 (「苦悶」4)
『それから』2(「苦悶」1)
『門』1(「苦悶」0)
『彼岸過迄』(「苦悶」3)
『行人』3(「苦悶」2)
『こころ』4(「苦悶」1)
『道草』0(「苦悶」0)
『明暗』0(「苦悶」0)

 夏目漱石の主要作品について勘定して見ると「煩悶」も「苦悶」も文字としては現れないのは直情型の『坊っちゃん』『二百十日』、そして晩年の『道草』『明暗』だけということになる。

しかし

『明暗』14
『道草』7
『こころ』8
『行人』8
『彼岸過迄』7
『門』6
『それから』2
『三四郎』0
『坑夫』2
『虞美人草』1
『野分』0
『二百十日』0
『草枕』2
『坊っちゃん』0
『趣味の遺伝』0
『吾輩は猫である』3
『幻影の盾』1

  夏目漱石作品の登場人物たちは最後まで「」の中にいた。『坊っちゃん』『二百十日』の躁状態が極めて特別なものではなかっただろうか。



[余談]

ロジクルーシアンとは十五世紀頃から起つた一種の秘密結社の稱で其會員になれば天地萬有悉く之を掌に指すが如く明らかなりと自稱したものである。

(夏目漱石『文芸評論』)

 この「ロジクルーシアン」漱石以外では、この記述にしか辿り着けない。

地の精や風の精がベリンダを絕えず守護してるのは、アラベラ·フアーモーに寄せた手紙の中にも書いてあるやうに、ロジクルーシアン學說に從つたものである。

英文学史 : ドライデン時代よりヴィクトリア王朝初期迄 小日向定次郎 著文献書院 1924年

 そのうちスマホゲームのキャラクターにでも使われたら、もう永遠に分らないものになってしまうのではないか。



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