岩波書店・漱石全集注釈を校正する54 遠い昔の内面の消息は人間の本体で煩悶はお幾つ?
空想的で神秘的で
岩波はこの「空想的で神秘的で」に注を付け、中島敦の泉鏡花に対する評を引用する。泉鏡花が「空想的で神秘的で」あることは間違いない。しかし夏目漱石とは没交渉の泉鏡花を持ち出す意図が明確ではない。
結果として夏目漱石は『倫敦塔』のような「空想的で神秘的」な作風から、谷崎潤一郎が感心した『草枕』『虞美人草』的なもの、泉鏡花や純日本的な文学の気配をひらめかしつつも、比較的平易な、つまりおばけが出てこない程度に現実的な作風に転じたと見做されており、泉鏡花贔屓の谷崎潤一郎は夏目漱石を見限り、激しくこき下ろした。
そうしたところを眺めた上でやはりここで中島敦の泉鏡花評を持ち出すのは適切ではなかろうと思う。このあたり、比較により漱石の文学観を示そうとしていると受け止めても、少し散らかった感じが否めない。
そもそも「空想的で神秘的」「赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまう」というだけで泉鏡花と結びつけてしまうのはいかがなものか。
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
ならば小野小町だ。
遠い昔しが何だかなつかしい
岩波はここに森鴎外の『青年』を引き、「こん度は現代語で、現代人の微細な観察を書いて、そして古い伝説の味わいを傷つけないようにして見せようと、純一は工夫しているのである。」という考え方を例示する。
泉鏡花に続いて森鴎外……。「遠い昔しが何だかなつかしい」と「古い伝説の味わいを傷つけないように」はつながるようでつながらない。この比較によって何かが明確になっているかと言えば、そういうことでもなかろう。
これは飽くまで純一の考え方であり、高柳君の考えではない。
夏目作品で言えば『倫敦塔』は「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするもの」と言えなくもない。ただ夏目漱石自身の作品で『野分』以降、遠い昔しを舞台にした作品はない。高柳君と漱石の文学観の違いの表れであろう。
この文学感の相違は、注釈者の中でさらに追及されていく。
僕の内面の消息にどこか、触れていれば
ここで岩波は「内面の消息」に注を付け、『虞美人草』の一節を引く。これは作品解釈上は正しいようで、正確さを欠く。
何故ならこの「内面の消息」は漱石以前から使われていた言葉であり、また漱石と無関係に広く使われた言葉だからだ。このことから寧ろ、『虞美人草』に意味を閉じるのではなく、広く一般に使われた用語の意味を注釈すべきではなかろうか。
そして漱石自身もさしてひねりなく使用している。
高柳君の文学観に比べれば、中野君の文学観の方が『文芸の哲学的基礎』の、
この意気込みと合致するように思える。
人間の本体
岩波はこの「人間の本体」の注釈に『文芸の哲学的基礎』からこの部分を引く。
まさに意味の説明としては適切な引用ながら、語句の注釈としてはこのように、その語句そのものをスヰフトの評価に用いて、前例踏襲すべきであろうか。
これに対してアヂソンやスチールに対してはやや辛口で、まだ足らんという流れに見えるが……。
最終的に比較は相対主義で片付ける。後は読者に任せたらよかろうと放り出す。この時点から実際に小説を書き始めて、『文芸の哲学的基礎』の時点では知らず知らず中野君よりの文学観に到達していたとみるべきであろうか。
現代青年の煩悶
岩波はこの「現代青年の煩悶」の注釈で藤村操によって「煩悶」が流行語になったとし、さらに『それから』『行人』に「煩悶」の文字があることを紹介する。
これはいかにも中途半端な説明ではなかろうか。
……として漱石はそもそも藤村操的煩悶をばっさり切り捨てているのだ。藤村操的煩悶はくだらない。
そして『野分』に「煩悶」の文字が現れる。そして夏目漱石作品に「煩悶が」現れるのは『それから』『行人』だけではない。たまたま目についたところを拾うのではなく、もう少し丁寧に調べるということが必要ではないか。それが人に何かを教示する立場にある人間の最低の準備ではないか。
そもそも人間にとっては煩悶とはなかなか逃れがたいものである。
『幻影の盾』1(「苦悶」0)
『吾輩は猫である』5 (「苦悶」2)
『趣味の遺伝』1(「苦悶」0)
『坊っちゃん』0(「苦悶」0)
『草枕』2 (「苦悶」1)
『二百十日』0(「苦悶」0)
『野分』20(「苦悶」0)
『虞美人草』5(「苦悶」0)
『坑夫』15(「苦悶」0)
『三四郎』0 (「苦悶」4)
『それから』2(「苦悶」1)
『門』1(「苦悶」0)
『彼岸過迄』(「苦悶」3)
『行人』3(「苦悶」2)
『こころ』4(「苦悶」1)
『道草』0(「苦悶」0)
『明暗』0(「苦悶」0)
夏目漱石の主要作品について勘定して見ると「煩悶」も「苦悶」も文字としては現れないのは直情型の『坊っちゃん』『二百十日』、そして晩年の『道草』『明暗』だけということになる。
しかし
『明暗』14
『道草』7
『こころ』8
『行人』8
『彼岸過迄』7
『門』6
『それから』2
『三四郎』0
『坑夫』2
『虞美人草』1
『野分』0
『二百十日』0
『草枕』2
『坊っちゃん』0
『趣味の遺伝』0
『吾輩は猫である』3
『幻影の盾』1
夏目漱石作品の登場人物たちは最後まで「悩」の中にいた。『坊っちゃん』『二百十日』の躁状態が極めて特別なものではなかっただろうか。
[余談]
この「ロジクルーシアン」漱石以外では、この記述にしか辿り着けない。
そのうちスマホゲームのキャラクターにでも使われたら、もう永遠に分らないものになってしまうのではないか。
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