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「田圃の朝」とは何か? ムクドリには解るまい。

「アア詰らねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫ってやれか。オイ、おとま、一升ばかり取って来な。コウト、もう煮奴も悪くねえ時候だ、刷毛ついでに豆腐でもたんと買え、田圃の朝というつもりで堪忍をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面あすることはねえ、女ッ振りが下がらあな。(幸田露伴『貧乏』)

 さて、「ぐりはま」が「あべこべ」、「いめえましい」が「いまいましいの江戸訛」、「取って来な」が「買って来な」、「煮奴」が「豆腐の煮たもの」、「刷毛ついで」が「もののついで」、「女ッ振り」が「女の粋」というあたりまでは感覚的に、何となく読めはするものの、「田圃の朝」は感覚では読めまい。これは旦暮、湯婆の洒落ではないかと思ったが、どちらとも像を結び難い。旦暮、つまり差し迫っている時の求食、あさるものという意味か、湯婆、つまり酒の肴のあさるものという意味かと考えたが、どちらももう一つ意味に届いている感じがしない。おそらく当時の人にとっては何気ない表現なのだろうが、最近では調べられた形跡さえ見つからないので、しかたない。
 

「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでも潜っているのかい。
「ハハハハ、お手の筋だ。(幸田露伴『貧乏』)

 こうした江戸詞は案外記録されていて、用法から「気ぜん」は「性格」、「お手の筋」が「読みが当たる事」だということも何となく解る。しかし洒落や掛詞で用例が乏しければ、その表現はたちどころに意味を失ってしまいかねない。
 例えば、

すると重さんのは、行くにや行かれず田圃の夜路つて格だね。(『邪劇集
』邦枝完二 著歌舞伎新報社 1919年)

 ……といった表現から、「そうか、昔の田圃の夜道なんか真っ暗で、危なっかしくって歩けたもんじゃないよな」ということが解る。その逆に朝ならばあるけるだろうという理屈は解る。しかし「豆腐でもたんと買え、田圃の朝というつもりで堪忍をしておいてやらあ。」では意味が解らない。

「邪見な口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆だのと、れっきとした内室さんをつかめえてお慮外だよ、兀ちょろ爺の蹙足爺め。
と少し甘えて言う。男は年も三十一二、頭髪は漆のごとく真黒にて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めに苅りたるままなるが人に優れて見好よきなり。されば兀ちょろ爺と罵しりたるはわざとになるべく、蹙足爺とはいつまでも起き出でぬ故なるべし。(幸田露伴『貧乏』)

 この「兀ちょろ爺」(はげちょろじじい)はなかなか気の利いた表現だ。「兀」は「高くつき出たさま」あるいは「一心に努力するさま」の意味でもあるが、はげ山の意味でもあり、羽や毛がない意味でもある。そして「兀者」とは刑罰によって足を切断された人を云う。「兀ちょろ」自体は黙阿弥、一葉、鏡花も使う言葉だが、ここでは羽をむしられて、蹙足爺と考えてみれば、かなりブラックな表現なのではなかろうか。
 と、漢字は調べればそれなりに意味が解る。

「ああ、いい酒だ、サルチルサンで甘え瓶づめとは訳が違う。

「酔いもしない中からひどい管だねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。

無間の鐘のめりやすを、どこで聞きかじってか中音に唸り出す。(幸田露伴『貧乏』)

 解らなくなるのは時代の風俗である。「サルチルサンで甘え瓶づめ」の酒というものがあったのだろうと推測は出来るが、それがサッカリンの間違いではないかとは指摘出来ない。そういうものがあったことは確認できなかった。「バアジンへ押込んで」が「管」(くだ)にかかることは解る。しかしこの「バアジンへ押込んで」がどのくらいの感覚なのかが解らない。「無間の鐘のめりやす」が『傾城無間の鐘』の長唄であることは調べて分かった。「この鐘をつくと来世では無間地獄に落ちるが、この世では富豪になるという伝説があった。」という因縁の鐘があり、ここでは貧乏に甘んじる意味であるとも解る。しかし解らないものは解らない。

「ハハハ、これではお互いに浮ばれない。時に明日の晩からは柳原の例のところに○州屋の乾分の、ええと、誰とやらの手で始まるそうだ、菓子屋の源に昨日そう聞いたが一緒に行きなさらぬか。
往いかれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。
「そうさ、お互に少し中り屋さんにならねばならん。
「誰だってそうおもわねえものは無ねえんだ、御祖師様でも頼みなせえ。
からかいなさるな、罰が当っているほうだ。
「ハハハ、からかいなさんなと云ってもらいてえ、どうも言語の叮嚀な中がいい。
ガリスの果と知れるかノ。
「オヤ、気障な言語を知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊しだあナ、チョタのガリスのおん果とは誰が眼にも見えなくってどうするものか。
チョタとは何だ、田舎漢のことかネ。
「ムム。
「忌々しい、そう思わるるが厭だによって、大分気をつけているが地金はとかく出たがるものだナ。
「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気を出したもんだ。
「イヤ居れば居るだけ笑われる、明日来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。(幸田露伴『貧乏』)

 「手で始まる」は文脈から「賭博場を開く」という程度の意味だろうか。「往いかれたら往こうわ」は現在の「行けたら行く」とはどこかニュアンスが異なるようだが、巧く説明できない。「中り屋さん」はいわゆる「ホースシューズ」の意味だろうが、これが古い言葉なのか新しい言葉なのか判断できない。「からかいなさるな」と「からかいなさんな」の品の違いが私には解らない。「ガリスの果」は後で「坊主ッ返りの田舎漢の癖に相場も天賽も気が強え」とあることから、坊主のなれの果て、「チョタ」は田舎者の意味と思われるが他に用例が確認できない。むしろ「チョタ」には虛弱(チョタル)という意味もある(『俗語字海』)ことから、田舎者に限定せず、「チー牛」的な用法なのではないかと疑われる。「地金」は「お里」程度の意味だろう。しかし正確なところは解らない。

 つまり私にはほとんど何も解らないのである。


「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体になって寝ているばかりヨ。塵埃が積る時分にゃあ掘出し気のある半可通が、時代のついてるところが有り難えなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁奴軽くなったナ。(幸田露伴『貧乏』)

 この「白丁」が無位無官の良民以上の意味を持つことは前から知っていた。掘出し気のある半可通が、時代のついてるところが有り難がてえなんてえんで、幸田露伴を読んで何かわかったようなことを書いても詰まらないことも前から知っていた。だからまだ幸田露伴論2.0とは言わないのだ。





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