『彼 第三』をどう読むか⑯ 『或阿呆の一生』をどう読むか⑩ それは逃げか本音か
例えば俳狂・尾崎放哉は鳥取県鳥取市吉川町の出身だ。
近所には千代川の支流袋川が流れる。鳥取市は山々に囲まれた盆地で日本海から吹く湿気を多く含んだ風が中国地方の背骨である中国山脈にぶつかるお蔭でよく雨がある。岡山広島側が平穏な気候で晴が多く山陽と呼ばれるのに対して、鳥取島根は山陰と呼ばれる。その山陰の中でも当時の吉川町辺りは湿地帯のようなじめじめした土地だった。
後に「底の抜けた柄杓のような」と形容されるどうしようもない放哉の性格はそうした風土から生まれた。帝国大学で漱石から英語を学び、漱石に心酔し、やがて俳狂として朽ち果てる放哉は自分の文學と人生の本当のところを放浪と自由律俳句に求めた。
そこにはまるで漱石の影響がない。ただ俳句という薄いつながりがあるだけだ。
しかし今更芥川龍之介が「僕は詩人だからゲーテになれなくて残念です。クリストにはなりませんよ。クリストはジャアナリストの菊池寛に任せます。夏目先生? 夏目先生の小説はただ読むもので真似して書くものではないでしょう」と言ってきたら「ああそうですか」と納得できるものだろうか。
ゲーテは詩人。まあ、そうだろう。シェイクスピアが劇作家であるというならゲーテは詩人だ。そして芥川が自らを詩人と呼ぶのは急に今とってつけた話ではない。
これは昭和二年五月の作だ。……急だ。しかもこの結びは何なんだ。今とってつけた話じゃないか。
なんなんだこれは?
これこそが本当の『彼 第三』であり、「誰を書いても善い。又誰を書かないでも善い。すると書かずにゐるほど気楽であるから、「3」と書いただけでやめることにした」として『彼 第三』は書かないという宣言なのではないのか。
しかし「詩人」であることと「夏目漱石作品に対する批判と継承の痕跡のなさ」の両方の問題、つまり『或阿呆の一生』が何事も成し遂げられなかった「彼」の話であるかないか、つまり『彼 第三』なのかどうかという問題にこそ、「僕の友人 2」である堀辰雄こそがクリアな答えを用意しているかのように思えるのはどうしてだろう。
堀辰雄は又芥川龍之介という詩人が計算したことが解っていた。何でも素直に室生犀星でも萩原朔太郎でも持ち出せばいいところで「3」と書いてみる計算によって、『或阿呆の一生』が何事も成し遂げられなかった「彼」の話であるかないか、つまり『彼 第三』なのかどうかという問題をうやむやにできると計算した。
そんな計算を萩原朔太郎もそれとなく見抜いていた。二人の交際は芥川の突然の訪問から始まった。
これはアリバイ工作ではないのか。萩原朔太郎も「芥川龍之介詩人問題」に関してこう結論している。
つまり芥川龍之介は確かにゲーテやボオドレエルに感心したのだろう。そこに嘘はないとして、やはり本職から見れば芥川はやはり詩人になれなかったのである。それはつまり鰻屋なのに金曜日にはカレーライス目当てで行列が出来る池袋の「うな達」のような矛盾であり、芥川にとっては致命的なことだったのだ。
芥川は必死だ。その前は怒鳴りつけている。最後は萩原朔太郎が折れているようで折れていない。
三島由紀夫が生首になったから偉いとは思わないというくらいの強さがなければ詩人ではない。萩原朔太郎は「彼の中の「詩人」を實證した」と書いて彼こそは本当の詩人だったとは書かない。厳しい見立てだが嘘もお世辞もないのがいい。
そして再び堀辰雄の当然の指摘の中にあるおかしな点があることを確認しよう。「芥川龍之介はドストエフスキイの一行をこそ欲すべきではなかつたか」ではなく「芥川龍之介は夏目漱石の一行をこそ欲すべきではなかつたか」であろう。
問題がぐるりと一周したので、今日はもう解散。
明日、書けたら書く。
つまり書く。
[余談]
萩原朔太郎のリストに斎藤茂吉、稲垣足穂がない。まあ足穂は何と位置付けるかややこしいのか。詩人であり過ぎるのは足穂だと思う。
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