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芥川龍之介の『一塊の土』をどう読むか① 白紙で読んで行こうか

 芥川龍之介は下戸である。だから『蛙』という小説を書けば蛙はきっと「ゲコ、ゲコ」と鳴くはずだ……と思っていたが、「ころろからら」と鳴くのだ。

 そういう意味では先入観を捨てて読むことはとても重要だ。正宗白鳥が褒めて、芥川が喜んだとか、『トロッコ』『百合』のモデルから材料を提供されたとか、関東大震災の翌年の作だとか、そういうことは一旦忘れよう。

 お住の倅に死別れたのは茶摘みのはじまる時候だつた。倅の仁太郎は足かけ八年、腰ぬけ同様に床に就いてゐた。かう云ふ倅の死んだことは「後生よし」と云はれるお住にも、悲しいとばかりは限らなかつた。お住は仁太郎の棺の前へ一本線香を手向けた時には、兎に角朝比奈の切通しか何かをやつと通り抜けたやうな気がしてゐた。 

(芥川龍之介『一塊の土』)

 村上春樹ならこの章に「不吉なカーブを曲がる」というタイトルをつけるだろうか。

「杉原と書いてすい原と読むのさ」
「妙ですね」
「なに妙な事があるものか。名目読みと云って昔からある事さ。蚯蚓(きゅういん)を和名でみみずと云う。あれは目見ずの名目よみで。蝦蟆の事をかいると云うのと同じ事さ」
「へえ、驚ろいたな」
「蝦蟆を打ち殺すと仰向きにかえる。それを名目読みにかいると云う。透垣(すきがき)をすい垣、茎立(くきたち)をくく立、皆同じ事だ。杉原をすぎ原などと云うのは田舎の言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる」

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 八年も床についていても「倅(そつ)」という。腰抜けなのに「倅(たすけ)」という。「せがれ」の語源は「痩せ枯れ」とも言われる。朝夷奈切通(あさいなきりどおし)だが、都会者の芥川は朝比奈にしてしまう。修善寺に「き」の字の橋を書いてしまうのもそのたぐいのことなのだろうか。

 仁太郎の葬式をすました後、まづ問題になつたものは嫁のお民の身の上だつた。お民には男の子が一人あつた。その上寝てゐる仁太郎の代りに野良仕事も大抵は引受けてゐた。それを今出すとすれば、子供の世話に困るのは勿論、暮しさへ到底立ちさうにはなかつた。かたがたお住は四十九日でもすんだら、お民に壻を当がつた上、倅のゐた時と同じやうに働いて貰はうと思つてゐた。壻には仁太郎の従弟に当る与吉を貰へばとも思つてゐた。
 それだけに丁度初七日の翌朝、お民の片づけものをし出した時には、お住の驚いたのも格別だつた。お住はその時孫の広次を奥部屋の縁側に遊ばせてゐた。遊ばせる玩具は学校のを盗んだ花盛りの桜の一枝だつた。

(芥川龍之介『一塊の土』)

 なるほど、仁太郎を殺したのはお住ではなさそうだ。仁太郎を誰が殺したのか、どうもこの点は明示的ではない。腸チブスでもなさそうだ。寧ろその点は問われもしていない。それにしても「兎に角朝比奈の切通しか何かをやつと通り抜けたやうな気がしてゐた」とは何か一仕事やり遂げた感が滲み出ていないだろうか。

 勿論「兎に角朝比奈の切通しか何かをやつと通り抜けた」はふりであり、「後生よし」もふりである。

 仁太郎の死後八年、孫の広次は十二三である。つまり仁太郎の死んだ時、広次は四五歳。足かけ八年、腰ぬけ同様に床に就いてゐた仁太郎は五六年前、つまり腰ぬけ同様に床に就いていながらお民を見事に妊娠させたことになる。

 つまり仁太郎は腰ぬけながらそっちの方だけは可能で、なかなか立派な倅をお持ちで、お民はこっそり跨り腰を振ったことになる。

「だがのう、お民、お前今の若さでさ、男なしにやゐられるもんぢやなえよ。」

(芥川龍之介『一塊の土』)

 そう言われるには言われるだけの理由があるのだ。お住は腰抜けに跨ってまで子をなすお民のはげしい性欲を知っていたのだ。勿論いきなり跨ってどうなるものでもなかろう。その前段階として合意形成のための手続きが欠かせないことは当然である。フランス・ブルゴーニュ地方でシャルドネ種から造られる白ワインのような行為も欠かせないだろう。

 あるいは仁太郎の死因は腎虚ではないのか。

 さて、正宗白鳥はそのことに気がついて激賞したのだろうか?

 それとも?


 



[余談]

 うーん。

 インターネットで閲覧可能な近代文学1.0の『一塊の土』に関する論文らしきものをいくつか眺めてみたが、これしきのことさえ解っていそうな人が見つからない。大丈夫?

 本当にこれでいいのかな。

 なんというかみな芥川龍之介という作家の本質の部分が見えていないんじゃないかな。芥川龍之介はそういうことをやってくる作家なのだ。

 靴職人の靴下まで描いて、靴を描かない。これが芥川龍之介なのだ。

 これがふざけた話でないことは『女』や『河童』や『あばばばば』を読めば明らかな筈。

 むしろみんながふざけてない?

 まだ私の本を買わないなんて。


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