芥川龍之介の『一塊の土』をどう読むか① 白紙で読んで行こうか
芥川龍之介は下戸である。だから『蛙』という小説を書けば蛙はきっと「ゲコ、ゲコ」と鳴くはずだ……と思っていたが、「ころろ、からら」と鳴くのだ。
そういう意味では先入観を捨てて読むことはとても重要だ。正宗白鳥が褒めて、芥川が喜んだとか、『トロッコ』『百合』のモデルから材料を提供されたとか、関東大震災の翌年の作だとか、そういうことは一旦忘れよう。
村上春樹ならこの章に「不吉なカーブを曲がる」というタイトルをつけるだろうか。
八年も床についていても「倅(そつ)」という。腰抜けなのに「倅(たすけ)」という。「せがれ」の語源は「痩せ枯れ」とも言われる。朝夷奈切通(あさいなきりどおし)だが、都会者の芥川は朝比奈にしてしまう。修善寺に「き」の字の橋を書いてしまうのもそのたぐいのことなのだろうか。
なるほど、仁太郎を殺したのはお住ではなさそうだ。仁太郎を誰が殺したのか、どうもこの点は明示的ではない。腸チブスでもなさそうだ。寧ろその点は問われもしていない。それにしても「兎に角朝比奈の切通しか何かをやつと通り抜けたやうな気がしてゐた」とは何か一仕事やり遂げた感が滲み出ていないだろうか。
勿論「兎に角朝比奈の切通しか何かをやつと通り抜けた」はふりであり、「後生よし」もふりである。
仁太郎の死後八年、孫の広次は十二三である。つまり仁太郎の死んだ時、広次は四五歳。足かけ八年、腰ぬけ同様に床に就いてゐた仁太郎は五六年前、つまり腰ぬけ同様に床に就いていながらお民を見事に妊娠させたことになる。
つまり仁太郎は腰ぬけながらそっちの方だけは可能で、なかなか立派な倅をお持ちで、お民はこっそり跨り腰を振ったことになる。
そう言われるには言われるだけの理由があるのだ。お住は腰抜けに跨ってまで子をなすお民のはげしい性欲を知っていたのだ。勿論いきなり跨ってどうなるものでもなかろう。その前段階として合意形成のための手続きが欠かせないことは当然である。フランス・ブルゴーニュ地方でシャルドネ種から造られる白ワインのような行為も欠かせないだろう。
あるいは仁太郎の死因は腎虚ではないのか。
さて、正宗白鳥はそのことに気がついて激賞したのだろうか?
それとも?
[余談]
うーん。
インターネットで閲覧可能な近代文学1.0の『一塊の土』に関する論文らしきものをいくつか眺めてみたが、これしきのことさえ解っていそうな人が見つからない。大丈夫?
本当にこれでいいのかな。
なんというかみな芥川龍之介という作家の本質の部分が見えていないんじゃないかな。芥川龍之介はそういうことをやってくる作家なのだ。
靴職人の靴下まで描いて、靴を描かない。これが芥川龍之介なのだ。
これがふざけた話でないことは『女』や『河童』や『あばばばば』を読めば明らかな筈。
むしろみんながふざけてない?
まだ私の本を買わないなんて。
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