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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか43 何故誰も気が付かないのだ?

 私はしばしば誰も驚かないことに驚く。それは私が特別恐がりだという意味ではなく、カピバラのような落ち着きに驚くのだ。カピバラで悪ければやはり哲学的ゾンビと云うべきか。
 決して隠されていない、堂々と公開されている作品に書いてあることを読まない人々、そんな人たちが楽し気に読書を語っているのが実に奇妙なことに思える。谷崎潤一郎の『秋風』を読んで、食い物の話としか理解できない。

 おそらくこれまで『秋風』を読んで、その「あらすじ」が理解できていた人は一人もいなかった筈だ。そのことは、夏目漱石の『こころ』『行人』『道草』にも言える。

 芥川作品に関する読みもひどい。

 しかし問題はむしろそこではない。

 この記事を読んだ四千人が誰一人一ミリも反省しないことが問題なのだ。何故謙虚になれないのか。何故自分の過ちを恥じ、作品そのものと素直に向き合おうとしないのか。何故驚くことに戸惑い、次にいけないのか、そのことに私は驚く。
 
 例えば芥川龍之介の『歯車』、これが間もなく自殺する精神病患者の幻覚と苦悩の告白などではあり得ないということを、これまで私は繰り返し具体的な事実を挙げながら説明してきた。しかし誰一人驚かない。つまり理解できない。

 要するに「地玉子、オムレツ」という紙札に東海道線に近い田舎を感じたわけなんですが、「地玉子、オムレツ」に本来「東海道線に近い田舎」という意味はありませんよね。しかし感じてしまうわけです。これは「誤謬」かといえば、そうは言えないわけです。これは意味です。

 これだけ優しく書いているのに理解できない?
 ならばとても芥川龍之介作品を読むことはできないし、芥川龍之介について何か語る資格はない。

 現時点でもう見落としはないと自信を持って言える人がいるだろうか。

 いたとしたらあなたはカピパラ程度のずうずうしさを備えているだけだ。多分あなたは気が付いていない。昨日ヒントを出したのに。

それでつまり、半面だけ黒い犬って右左、背中とお腹? 残りは白いの? 

 こう問われてなお、何も気が付かなければさすがに自分が哲学的ゾンビではないかと疑うべきだろう。

古代のローマ人は体の右側を善として、一方で体の左側には悪霊が宿ると信じていました。

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 どういうわけか「僕」の左目は何ともない。右目にだけ歯車が現れて視界を塞ぐ。ただそれを日本語で「右」と書いてしまうと何の意味も持たないのでAll rightという文字を持ってきて、

「Bien……très mauvais……pourquoi ?……」
「Pourquoi ?……le diable est mort !……」
「Oui, oui……d'enfer……」

(芥川龍之介『歯車』)

 悪魔は死んだなどと云ってみる。二度も。

 誤魔化さなくてもいい。rightに二つの意味があることは中学一年で教わる。あなたはそのことに気が付かず、現に今驚いてさえいない。それがいかに絶望的なことかと気づかずにいる。

 何故右目なのか、そのことを考えもさえしなかった人には、そもそも「右」という文字も「左」という文字も意味を持たなかったということになる。いやその他のあらゆる文字が意味を持たないのだから、そもそも作品を読むということが基本的に不可能なのだ。

 何故言葉が意味を持つのか。それはあらゆる言葉が実際に使用される際には辞書に鋳固められたところからわずかに触手を伸ばし、別のものと繋がろうとするからだ。「地玉子、オムレツ」に本来「東海道線に近い田舎」という意味はない。日本語の「右」や「黒い犬」にも深い意味はない。

 むしろ「右翼に目を塞がれた」とまで読む必要はない。しかし恐らく塞がるのが右目であることとrightの意味はつながらなければならない。何故なら『歯車』は確証バイアスに陥る「僕」の話だからだ。

 こんなことは最初から書いているのだが。

[余談]


 どうやら目的は情報収集ですらなさそうだ。それにしても人文学系ではからっきし役に立たないというのは、それだけ軽視されているということかな?



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