「も」とはどういう意味か?
芥川龍之介は有名人だった。そのことは『歯車』の中でも青年に声を掛けられることで強調されている
このことが悲劇を招いたと言えるかも知れない。『羅生門』出版記念パーティーには錚々たるメンバーが集まった。その理由の一つに芥川龍之介の顔がある。芥川で行こうという機運があったことは否めない。
芥川が太宰治以上に女好きであったことなど今では隠しようがないが、織田作之助はまだ知らなかったかもしれない。いや、今でも素朴な読者はまだ知らないでいるかもしれない。しかし私にはもうこの「いいえ、芥川龍之介」が強烈な皮肉にしか感じられないのだ。なにしろ『夜の構図』はこう始まる。
芥川もこの小説の主人公のようにいささか奔放な男だった。こう言っては何だが、ストライクゾーンが広い。その広さがあだになった。従って、「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」という極めて上品なジョークは「性欲」を「神経」と置き換える詩心によって成立していると読めてしまうのだ。「神経」とはまさに情にさされ流される棹のようなものであろうか。
龍は殺されなくてはならなかった。
これではアリバイどころではなく、殆ど白状してしまっているようでさえある。しかし一般の人の感想などを読む限り、そのことに気が付いている人はいないようだ。ただ芥川のレトリックに幻惑され、死の予感と鬱々としたものを受け止めているようだ。
小説には書かれることと書かれないことがある。この「も」に意味があることは、
ここでヒントを出しておいたのだが、気が付いた人はいるのだろうか?
あるいはそのように読めていた人がいるだろうか。
ここで彫刻家に「探偵に近い表情を感じ」るのは、主人公にやましい気持ちがあることをわざわざ示していて「も」の意味を念押ししている。漱石に比べるとやはり芥川の方が仄めかしが丁寧だ。
さすがに「仕事も?――どうして君は『仕事も』と言うのだ?」とまでは書かないが、『歯車』全体を読めば「ええ、仕事もしているのです」の意味は明確だろう。ここを読み落としたまま「読破」なんて威張っている人がいたら、これは恥ずかしい。芥川龍之介は中里介山とは違うのだ。
この後彫刻家とは女の話になる。
ここまで書いてあるのに、「仕事も?――どうして芥川は『仕事も』と書くのだ?」と引っかからない人はやはり基本的な文章読解能力に欠いていることになる。あるいは文章読解能力とはこの程度のことの積み重ね、組み合わせによって培われるものなのではなかろうか。
ちゃんと読めている人には当たり前すぎることを書いてしまったかもしれない。誰も私の本を買わないのはそういうことなのか?