芥川龍之介の『文芸的な、余りに文芸的な』をどう読むか① 一人だに聞くことを願はぬ詞を歌はしめよ。
昨日、この記事で、
この言葉に引っかかった。これまでにも何度となく読んできたはずの所だが、改めて眺めると解らないところだ。
まずこの『文芸的な、余りに文芸的な』は極めて事務的に、当該喫緊の課題としての谷崎潤一郎との論争に整理をつけようというのか、「話」らしい話のない小説、谷崎潤一郎氏に答ふ、として始まる。
最近はこんな真剣な論争があるのかないのか知らないが、——あれば少しは文芸誌の売り上げも上がる筈なので、円城塔と三浦俊彦と上田岳弘あたりが主要文芸三誌に分かれ(主要文芸三誌ってどこだ?『文学界』『群像』『新潮』? 『すばる』『ダヴィンチ』『コロコロコミック』?)三つ巴で論戦を繰り広げれば面白そうではある—— この議論がやがて谷崎に『卍』を書かせ、『細雪』を書かせ、それが三島由紀夫をして『豊饒の海』に向かわせるきっかけになったかと思うと、これはなかなか興味深い話である。
しかしここではその論争そのものの筋は負わない。飽くまでも『文芸的な、余りに文芸的な』の流れを見てゆきたい。
論争の返答のような事務的な用事を済ませると、芥川はまるで自分自身と文芸の関係をそもそもの所から整理するように、順に説明していく。殆ど逡巡している様子もなく、言い澱みがない。
ここでもう「僕」は「漱石先生のような構えの大きい小説も書きたい」とは言っていない。芥川が自分の適性として見出したのはハインリツヒ・ハイネであり、『歯車』にまで現れたヨハン・アウグスト・ストリンドベリではない。
ハイネは小説家ではない。これではまるで、「僕は小説家には向かなかった」と告白しているかのようでさえある。
しかし反論はまだ終わっていなかった。芥川は自身を雑駁な作家としながら、大作家ではないとは言っていない。そして「純粋な作家」である志賀直哉を持ち出して、味方に付けるつもりらしい。しかし先ほど述べたように論争そのものの筋は追わない。ただ次第に逸脱する中で、「川柳」の直前にはまたこんな奇妙な言葉がある。
これは「代作の弁護」らしいが何が言いたいのかさっぱりわからない。太宰治と井伏鱒二の頃までは代作はあった。しかし芥川は代作をしていないという。ここはあくまでも弟子にも書かせていたというロダンの弁護である。
それにしても何故今更ロダンの弁護をして、自分にも代作はできると威張る必要があるのだろうか?
間もなく死ぬのに?
そして「川柳」の章になる。
趣旨は「江戸趣味の肯定」と言ってよいだろう。
現在の地点から眺めれば、川柳はサラリーマン川柳やボケ老人川柳としていまだに大衆の文芸として生きている。私自身は自身の文学をサラリーマン川柳の対極に置きながら、そういうものを全否定しているつもりはない。
むしろ「江戸趣味の肯定」は結構なものだと思う。
ただ、
これは解らない。
平たくとれば、ゲーテよ好きに詠ませてくれ、誰も聞きたくない言葉を詠ませてくれ、という程度の意味ではあろうが、「一人だに聞くことを
願はぬ詞」とは一体何なのだろうか。
それは『風流夢譚』のようなものであろうか。
それでさえ「一人だに聞くことを願はぬ詞」ではなかろう。
江戸趣味で放つ芥川の「一人だに聞くことを願はぬ詞」とは?
新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の「義人なし、一人だになし」……とは関係ないだろう。
あるいは『新千載集』の「きくことを-いとひてもまた-なれにけり-むそちのはるの-うくひすのこゑ」とも……関係ないだろう。
諧謔に隠したポルノグラフイツクな歓びや悲しみ?
確かめようにも「末摘花」なんていくら探しても源氏しか出てこない。
「願はん道にも入りがたくや」は「御法」だしな……。
一体全体「一人だに聞くことを願はぬ詞」とは何なのだろうか。
それはまだ誰にも解らない。
明日解るんじゃないかな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?