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前田雀郎『芥川龍之介と川柳』 その日は涼しかった

芥川龍之介氏と川柳

—私をして語らしめよ—

「唯僕に對する社會的條件。···僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたかと云へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである」これは芥川龍之介氏の遺書「或舊友へ送る手記」の一節である。が、私はこの短い文章の中に何か芥川氏らしい—東京人としての芥川氏らしいある姿を感じない譯にはいかない。

 その日— 七月二十四日は、きのふまでの酷暑にひきかへ、夜來の雨は、思はず床の毛布を引き寄せた程、朝を凉しいものにしてゐた。昨夜は兩國の川開きで、その趣味講演に愛宕山の放送室に起たれた飴ン坊氏を、向島の例の家に迎へて遲くまで痛飮した爲め、今朝は何となくものうく、折からの日曜を幸ひに、シトシトと庭木に降りそゝぐ雨の音を枕に聞きながら、午近くまで眠りをむさぼつてゐたのであつたが、思へばこの時既に一代の文匠芥川龍之介氏は、永久に覺めぬ眠りの床に安らかにその身を橫たへてゐたのである。

 一日なす事もなく、書齋の整理などして夕方になつて仕舞つた私は、徒然のまゝにこの夜小石川の某所に開かれた「新星會」の句會に久しぶりで出席した。句會の後の甘い疲勞にからまれた體を快い夜風にまかせながら、宮尾しげを、太郞丸、三太郞など歸途を同じくする連中と一つ電車の人となつた。私が芥川氏の死をはじめて聞いたのは、實にこの車中に於いてゞあつた。

 私も三太郞も、いづれ劣らぬ芥川氏の愛讀者だつたので、車中に落つくといつか二人は、近刊の「改造」に載つた「西方の人」を話題にのぼしてゐた。
「君はあれを讀んでどう思つた。何か可怪しなとこがありやしなかつたか」「どうも自分ばかりドンドン先へ歩いて行つて仕舞つてゐて、ガツチリ四つに組んでゐるところが無いやうだが·····」
 私はそんなことを三太郞に話かけてゐた。

 と、「芥川」といふ名が耳に入つた爲めか、今まで太郞丸と何か語つてゐた宮尾が、突然私の方を振りかへつて「芥川は自殺しましたよ」と云つた。

 私は自分の耳を疑つた。が、それも須叟の間、私はいつか笑ひ出した。「冗談いふな」
「いや、本當ですよ、今朝。さつきラヂオのニユースにありましたもの」
 私は宮尾の眞顏を見遁さなかつた。

 私の胸は轟いた。然し私はまだその事實を信じやうとはしなかつた。—そんな一大事が起らうとはどうしても信じられなかつたからである。

 私は芥川氏が常に催眠藥を用ゐてゐるといふ話を聞いてゐたので、その量でも過ごして、人事不省になつた、そんなことの間違ひだらうと思つてゐた。三太郞も私と同じやうな解釋だつた。
「けれども、芥川ならやりかねませんぜ、今の文壇で直ぐ自殺といふことの連想出來るのはあの人だけですよ」
 さう云つて私を驚かしたのは太郞丸だつた。

 私は惡いことを云つて吳れたなと思つた。今まで心の隅にそつと仕舞つて置いたものを、グツと摑み出されたやうな氣がした。私はもう平靜では居られなかつた。その事實を信じまいとつとめてゐた私も、今では宮尾の報〓のあまり簡單なのが寧ろ焦つたくなつて來た。

 私はもつと詳しく、もつと確實に、その眞相が知りたかつた。私はいつか笑ひ出した。が、それも須叟の間、私は早く家へ歸つて今夜のラヂオの話が聞きたかつた。私は家の玄關を上るなり、母に、今夜のラヂオのニユースが、確かに芥川氏の死を報じたかどうかを訊ねて見た。

「あ、毒藥を嚥んだのだつて。奥さんと菊池寛といふ人へ書置きがあつたさうだよ」
 社會の一出來事として、芥川氏の死を報ずる母の答は、あまりにもハツキリとしすぎてゐた。

 遺書! 私はもう口がきけなかつた。「どうして死んだのだらう」私は口の中で繰返して見た。だがどうしてもまだ心から信じる氣にはなれなかつた。自分の眼、自分の耳で、しつかりその眞相を確かめぬ以上、疑ひなしにそれを肯定することは出來なかつた。

 おそらくは事實だらうと思ふ心の底に、何か一縷の望みを殘したまゝ、私は寒々とした氣持の中にとも角もあすの朝の新聞を待つことにした。意地惡く新聞は遲かつた。出社時間のギリギリまで待つたが、まだ新聞は配達されなかつた。

 私は妙な焦燥を感じながらいつもの電車の人となつた。と、私の眼の前には大きな芥川龍之介氏の寫眞があつた。氏の死を報ずる大きな活字があつた。「或る舊友へ送る手記」といふ氏の遺書があつた。

 あゝ芥川氏の死はつひに事實だつたのである。私は「貼りたての障子に穴をあけられたやうな」何とも云へない寂しさに襲はれた。事實はつひにどうしやうもない事實である。

 私は社の机の前で、芥川氏の死—— 何にもつかまへどころのない、その「死」といふボヤツとしたものを、しばらくボンヤリ見つめてゐた。そして私は、何といふ理由なしに「しやうがないな」と、自分自身につぶやいたのであつた。

 私は、私と芥川氏との、それはホンの往來で摺れ違つた位にしか過ぎない、淺い短い、然し一生その喜びは忘れないのであらうところの交渉について、しづかに振りかへつて見た。

 私が芥川氏を知つたのは、—といふよりも、私が芥川氏に知られたのは、極めて最近のことである。何かの用事で芥川氏を訪問した私の友人が、話のついでに氏の作品の熱心な愛讀者の一人に私があるといふやうなことを、氏に語つたらしい。これがそもそもの最初である。氏はこんなことをも大變に喜んで吳れたやうで、その友達へのある用件の手紙の端へ、僕のものを讀んでゐてくれるといふのは前田といふ方ですか、そんなら川柳をやる方でせう、僕は前田といふ人の川柳をいつも見てゐます、といふやうなことを書き添へて來たのを見せられた。

 大正十四年、恰も「川柳みやこ」全盛時代の夏のことである。川柳みやこは創刊號から芥川氏始め文壇詩壇のある人々へ每號拜呈してゐた。どうせ讀んでは吳れまいけれど、これも川柳運動の何かの一つにはなるであらうと思つて續けてゐたのであつたが、私はこの芥川氏の手紙を見て、その好意に感激した。

 私は氏の好意に對しその時感謝の手紙を出したかどうだか、今は忘れて仕舞つたが、それに前後して氏から、私と川村花菱氏との「武玉川」の句解についての論爭に對する好意ある言葉及び拙句

 佛の姑口あいて寢る

 に對する思ひがけない讚辭を頂いた。「武玉川」に就いてのそれは、私の花菱氏に對する馭論の態度を褒め、併せて例の問題になつた

 安弔ひの蓮明ぽの

 の私の句解に賛意を表されたもので、當時四面楚歌、柳壇こぞつて私の說に反對し、いさゝか自分の旗色の惡い時であつたから、私にとつてこの芥川氏の味方は百萬の援軍とも思はれ、私は本當に淚をこぼして喜び狂じた。

 正直な話、その時の私の心は、たとへ柳壇こぞつて私の敵となるとも私は恐れない。私はこの一人に知つて貰つただけで滿足である。私はこの一人の理解者が得たいばかりに戰つてゐるのだとさへ思つた程である。(私は今までこの事をわざと活字にしなかつた。私はそんなことから私の文壇への成心などゝいふ事を云々されたくはなかつたからである。

 尙、安弔ひの句については、私の名こそ出さね、芥川氏自身がその事を「改造」六月號の「文藝的な、餘りに文藝的な」の一項「川柳」の中にも書かれてゐる)それから間もなく「川柳みやこ」第十二篇の卷頭に揭げた氏の「輕井澤にて」の句

 きぬぎぬや耳の根ばかりあでやかに

 死ねとも思ふ秋風の末

 の二句を、輕井澤の避暑先から寄せられたのであつた。當時私達はこの句を見て、たゞ氏の才に敬服するばかりであつたが、今となつてしみじみこの句を讀み返し味つてみると、こゝにもまた今日の黑いものが何か薄墨色に匂つてゐるやうにも思はれる。

 殊に私の句

 佛の姑口あいて寢る

 に共鳴をおくられた氏の心持には、作者として徒らに、唯ニヤニヤと顎を撫でゝはゐられないものがあるやうな氣がする。

 私如き後輩が、芥川氏の「死」を擇ばれた胸裡を推察することは遠慮せねばならぬ。いや、知らうとしても私如き凡下の徒には迚もうかゞひ知ることを得ないであらう。

 然し聞けば氏は家庭的にも不幸な方であつたさうである。家といふ重い棟の下に、辛くも今日まで「生きるために生きて」來た氏が、夜更けて靜かに階下なる寢室に降り、何にも知らずに幸福さうに、鼾の音も安らかに眠られてゐる御養父母や伯母君のその枕邊に立たれた折々、どんな感慨で寢顏を見られた事か。

 この句の作者である私は、今更ながら私の句に、私の作意以上に恐ろしいものが藏されてゐるのを知つて、いや、おしへられて、慄然としたのである。氏の私に寄せられた「きぬぎぬや」の句も、かうして考へて行くと、唯氏が「小生もちよつとまねをして見たくなつた」といふやうな、そんな思ひつきからつくられたものではないやうにも思はれて來る。

 甚だ不遜ではあるが、私は試みに私の「佛の姑」の句に、氏の二句を附けて、變形的な「三つもの」をつくつて見た。

 佛の姑口あいて寢る

 きぬぎぬや耳の根ばかりあでやかに

 死ねとも思ふ秋風の末

 この私の僣越を許されたい。然しこれを通して讀んで、何かをそこに感じないであらうか。私はこの句に夢二氏の寢起きの美人の嬌態の圖を配した輕はづみを思ひ出して、腋下に汗を覺えてゐる。

 さぞかし氏は當時「知らざる者の愚」を憐れんで苦笑されたことであつたらう該博なる氏の識見と理解は、そしてまた都會人としての趣味性は、決して「川柳」なる文藝にも無關心ではなかつた。「文藝春秋」の氏の迫悼號に揭げられた日夏秋之介氏の思ひ出話を讀むと、度々古川柳に就いて語り合つてゐられたやうでもあるし、前掲「改造」所載の「文藝的な、餘りに文藝的な」を見ると、私共の新川柳運動にも理解を持たれ、殊に今日川柳が置かれてゐる詩歌としての地位には、有難い程の(當り前の事であるが、盲千人の現在の詩歌壇の人達に較べて)同情を寄せられてゐたやうである。

 氏に機會があつたなら、或ひはもつと川柳をつくられてゐたかも知れない。現にいつぞやの「文藝春秋」に發表された、何といふ標題であつたか、今手許にその雜誌が無いので思ひ出せないが、輕井澤の印象を叙した散文詩體の短章其他は、立派に川柳であつた。

 私はこれほど氏から好意を寄せられながら、不幸お目にかゝる機會が得なかつた。お言葉に甘へてお邪魔に上らうと思ひは思つてゐながらも、お仕事の性質からウツカリ御迷惑をかけてはとそれを惧れたり、また私といふ人間が、始めての方をお訪ねするといふことに、どうも氣おくれのするタチなので、その中に何かの機會を見つけてと、そんな當てにもならぬものを當てにしてゐた爲めたうとうその馨咳に接することを得なかつた。

 私の書齋に、氏の書を額に欲しいと思つたので「榴花洞」と書いて頂き度いと失禮だが御願ひしたところ、僕でよかつたらいつでも書いてやるから來い。とまで云はれてゐたのに本當に殘念なことをした。今は悔んでも追ひつかない。

 氏に最後に御手祇をあげたのはこの六月である。「改造」六月號に載つた氏の「川柳」の原稿を「昭和川柳」の第二號に轉載させて戴き度いと思つたので、お願ひをしたのであつたが、あれは自分としてもまだ考へが充分でないから、專門雜誌への轉載は今しばらく待つて欲しいといふ叮嚀なお斷りの御返事で、これは成就しなかつた。

 この事は後で聞いたことであるが、あの「改造」の氏の川柳觀に就いては當時九段老人を始め大分川柳家からいろいろな手紙が行つたらしく、氏も尠ならず迷惑されたとのことである。そんな爲め遠慮しての私への斷りであつたのであらうが、今更ではないにしても、かういふ川柳家の態度はまことに情ないことである。少し位間違つたところがあつたにしても、そんなことは何でもないではないか、それよりもさういふ人が川柳といふものに關心を持つた、それだけで既に大きな收穫ではないか。

 川柳家もいつまでこんな根性でゐては、川柳もなかなか世に出まい。出ないのが當り前である。鳥なき里の蝙蝠の思ひ上りにも困つたものだと、私はその話を聞いてしみじみ慨嘆した。

 私はその原稿の御願ひをする時、併せて、近頃は大さう御氣分がよろしいやうだから、來月はお邪魔に上り度いと書き添へた。全くその頃の氏は、矢次早に大作を發表され、外見には素晴らしく元氣に見えたので、私も思ひ切つて御目にかゝりに上らうと思つたのだつた。そして早く凉しくなる日の來るのを樂しみに待つたのであつたが、つひにその日は私の上に惠まれなかつた。

 私は七月二十七日。酷暑の谷中齋場に於て、我が尊敬する芥川龍之介氏の靈前に、最初のそして最後の「さよなら」を恭しく捧げたのであつた。その時私は亡き人を偲んで、私の手帳の中に次の一句を認めた。

 眼の色の人には見えで面白し

 然し、私の胸の障子にあいた穴はどうしやうもない。(昭和二年八月)



川柳と俳諧
前田雀郎 著交蘭社 1936年より




二十五 川柳
「川柳」は日本の諷刺詩である。しかし「川柳」の軽視せられるのは何も諷刺詩である為ではない。寧ろ「川柳」と云ふ名前の余りに江戸趣味を帯びてゐる為に何か文芸と云ふよりも他のものに見られる為である。古い川柳の発句に近いことは或は誰も知つてゐるかも知れない。のみならず発句も一面には川柳に近いものを含んでゐる。その最も著しい例は「鶉衣」(?)の初板にある横井也有の連句であらう。あの連句はポルノグラフイツクな川柳集――「末摘花」と選ぶ所はない。

安どもらひの蓮のあけぼの

 かう云ふ川柳の発句に近いことは誰でも認めずにゐられないであらう。(蓮は勿論造花の蓮である。)のみならず後代の川柳も全部俗悪と云ふことは出来ない。それ等も亦封建時代の町人の心を――彼等の歓びや悲しみを諧謔の中に現してゐる。若しそれ等を俗悪と云ふならば、現世の小説や戯曲も亦同様に俗悪と云はなければならぬ。

 小島政二郎氏は前に川柳の中の官能的描写を指摘した。後代は或は川柳の中の社会的苦悶を指摘するかも知れない。僕は川柳には門外漢である。が、川柳も抒情詩や叙事詩のやうにいつかフアウストの前を通るであらう、尤も江戸伝来の夏羽織か何かひつかけながら。
心より詩人わが
喜ばむことを君知るや。
一人だに聞くことを
願はぬ詞を歌はしめよ

(芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』)

 たまたま見つけた前田雀郎の甘ったるい芥川に関する回顧録のようなものから、再び指示された『文芸的な、余りに文芸的な』を読み直すと、たちまちこのぎろりとした文句に出くわした。

一人だに聞くことを
願はぬ詞を歌はしめよ

 あの人気作家が、何を書いているのだ?

 ただ今日は、あの日は涼しかったという記録の確認に留めよう。

一人だに聞くことを
願はぬ詞を歌はしめよ

 この詞を突き詰めるには少々時間がかかる。三日くらいかかるんじゃないだろうか?

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