マガジンのカバー画像

三島由紀夫論2.0

224
運営しているクリエイター

2024年6月の記事一覧

お言葉が過ぎます 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む94

お言葉が過ぎます 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む94

何故『豊饒の海』を書いたのか?

 平野啓一郎の『三島由紀夫論』の裏表紙にはこう書かれている。

 これが全くの嘘であることはすでに説明した。平野啓一郎の『三島由紀夫論』は「その生と死の必然性を「テクストそのもの」の中から見出してゆ」かない。ここはそのまま読めば誠実さのかけらもないどうしようもない嘘宣伝である。
 それにしても何か救いようがあるのではないかと考えてみる。

 例えば「最後の作品『豊

もっとみる
三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか⑤ ものが違う

三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか⑤ ものが違う

 あらかじめ言っておいたはずだ。

 わからないよと。

 漱石や鴎外なんかいくらひっくり返してもこんなものは出てこないよと。

 三島由紀夫はこの時まだ自分の言語能力をセーブするということをしらなかった。自分以外の普通の人間がどの程度の抽象化に耐えられるものかしらなかった。

 自分が特別だと気がついていないのだ。どの程度の言葉の揺蕩いの中に雅を感じ得るものかどうかを、近代以前の日本文学、万葉歌

もっとみる
嵩はある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む93

嵩はある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む93

そうかもしれないけれど書き方の問題として

 形式というものは大切だ。注記や解説というものは根拠を示し、ここにこう書いてあったのでこうだ、という形式が望ましい。ロジックの展開は本文で好きにやって、流れをぶつぶつ切らないようにして、『なんとなく、クリスタル』のように後でたくさん注記をつけた方が解りやすい。

 平野啓一郎はその形式というものを一応理解している筈だ。「Ⅲ 『英霊の声』論」の注記1は、

もっとみる
〈絶対者〉は空洞か 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む92

〈絶対者〉は空洞か 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む92

北村透谷の引用に関して

 平野啓一郎の『三島由紀夫論』「Ⅰ『仮面の告白』論」注記40に『厭世詩家と女性』(北村透谷)とあり、

 と透谷の一文が引用されていた。青空文庫からの引用であろうか。しかし北村透谷作品が長らく改ざんされていたことを思えば、北村透谷作品はけして時代を代表できる言説ではありえないので、ここはさらに注記が必要となろう。

 少なくともこれから北村透谷作品を引用する場合は何年のど

もっとみる
そんな(略)はないものだ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む91

そんな(略)はないものだ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む91

ミスなのか欺瞞なのか

 誕生日おめでとう。

 以下はプレゼントだ。毎日プレゼントを91回も贈ってくれる人なんか他にいないだろう。

 例えば三島由紀夫の最期について、生首になったんだから今更嘘だとか贋物だとか言ってもつまらないと私は考えている。誰にでも簡単になしうることではごまかせないものも、生首はごまかせてしまう。
 そういう意味で平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む者を悩ませるのは、そのボリ

もっとみる
男性の秘密 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む90

男性の秘密 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む90

三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?

 この問いを後何度か繰り返さねば、平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読んだとは言い切れないような気がしている。私自身未だ「三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?」という問いに対する答えを一つに絞り切れているわけではないが、平野啓一郎は一応、こう答えているように読める。

 三島由紀夫は「天皇陛下万歳!」というという言葉に自分の存在の全体性を託し

もっとみる
三島の核 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む89 

三島の核 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む89 

出る順平野啓一郎の『三島由紀夫論』の間違い

 あまりにも時間がないので最低限ここまでは必ず押さえておきたいというポイントを三つに絞ってみた。

 それは、

①「天皇主義者」の起源 ✖十代の精神  〇『風流夢譚』
②「天皇主義者」の正体 ✖憂国の義士  〇言行一致
③『豊饒の海』の結末  ✖呆然     〇記憶喪失

 最後は少し引っかかるかもしれないので少し補足しよう。

解脱とは

 平野啓

もっとみる
三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか④ 弟かもしれない

三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか④ 弟かもしれない

 二つ前の夢の中の景色は北国に雪の降り始める冬だったはずだ。しかしそんなことが問題ではない。母のことが書かれておらず母屋と父のいるいおりの位置関係の説明もいい加減なまま、果樹園の一部の葡萄園の話になり、蜂の話になり、夏雲の話に移った。『花ざかりの森』の文体は何かを物語るようでほとんど説明になっていない。決してそういう種類のユーモアではない。何かは語られ、ストーリは形作られない。なんなら何が起きてい

もっとみる
もう時間がない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む88

もう時間がない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む88

 もう時間がない。

 間に合わない。

 それなのに……。

他人の重み

 160 148 145 163?

 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読んでいるとなかなかうまくまとめているなと感じるところが、実際に三島作品そのものを読み直してみると全然そういう話ではなかったということが少なくない。
 例えば「Ⅳ 『豊饒の海』論 59 父と息子」というこの切り取り方がまず、「おおっ」と思わせるところで

もっとみる
三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか③ どちらから見て左なのだろう

三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか③ どちらから見て左なのだろう

 平岡公威少年の書いた『花ざかりの森』が「祖先との邂逅」の物語であり、その祖先が老人の肖像ではなく奇妙にも若い生き生きとした姿で顕れる序の巻に始まり、「その一」では夢とうつつのあわいのような追憶で始まることを見てきた。
 汽笛は夢で汽車に置き換えられる。汽車は電車にスライドする。

 このスライダーにバッターはついていけない。ざるそばを注文したはずなのにウズラの卵がついていないことに当惑する関西人

もっとみる
安らかな死を迎えるために 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む87

安らかな死を迎えるために 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む87

 もはや私には近代文学の読みあやまりを訂正したいという願いしかない。おそらく太宰の誤解は解けたと思う。夏目漱石と芥川龍之介の主要作品、特に芥川の俳句に関する誤解は、私が出来る範囲ではかなり問題提起・新解釈という形で記録に残せるものが書けたと思う。

私個人の思いなどどうでもいい 

 しかし三島由紀夫に残された課題は大きい。何よりもいまさら平野啓一郎が『三島由紀夫論』を書き、新潮社がそれを「決定版

もっとみる
鵜呑みではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む86 

鵜呑みではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む86 

※見出し画像は昭和天皇。

書き急ぎ

 平野啓一郎の『三島由紀夫論』「Ⅳ 『豊饒の海』論 58 「自己正当化のための自殺」」においては、本多が透の死を願いながら生きさされるくだりから「こうした本多の心情が、読者に共有されるかどうかは微妙だが」とし、久松慶子が透をクリスマスの晩餐会に招き、「誰の目にも喪ったら惜しいと思わせるようなものが、何一つない」と言い放った点に関しては、

 このように評価そ

もっとみる
三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか② 黒貂は狩りつくした

三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか② 黒貂は狩りつくした

※見出し画像は島津久光公とゆかいな仲間たち

 結局手首の柔らかさなのだと思う。書きなれている人の文章というのは、手首の柔らかさ、しなやかさを感じさせてしまう。その人の呼吸が伝わる。良くも悪くも書けてしまうというのはそういうことだ。中身があろうがなかろうが、雨が降ろうが振らまいが関係ない。

 

祖先とは何者

 わたしが邂逅する祖先は不思議な姿をしている。

 足があるかどうか、平岡公威くんは

もっとみる
バランスが悪い 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む85

バランスが悪い 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む85

※見出し画像「昭和天皇」

覗かれたいはず

 とも解し得るであろうと書かれているのでここは誤りとは言い切れないし、他人のセクシュアリティを根拠もなく彼是と論ってみても意味のないことである。しかし作品の解釈として「『禁色』に於いては、ホモセクシュアルであることの露見と強く結びついていた」と読んだとして、作者もまたホモセクシュアルであることの露見を恐怖していたと勘違いしなければこんな言いぐさにはなり

もっとみる