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『三島由紀夫未発表書簡』を読む① 右翼がやかましく


西鶴


 西鶴の「男色大鑑」を改めて通讀し、その詩的な高さにおいて、西鶴のものでは一番だ、と思ひいました。(昭和三十三年四月七)

(『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』中央公論 1998年)

 そういえば小説においては殆ど西鶴の影響を見せない三島だが、西鶴を読んでいないわけはないのだ。織田作や太宰、そして三島由紀夫まで西鶴は届いていたわけだ。

 してその影響は?

 これはシンプルに戯曲を精査すると露骨に確認できるのでは?

 確かに小説のスタイルに近松的なところはあるけれど語彙的には近松も見えていない。近松、西鶴、馬琴辺りの語彙は戯曲の方に見つかるかもしれない。これは掘ると深いぞ。


右翼

 このごろ東京はいろいろ右翼がやかましく、嶋中さんも連日右翼に会社を訪問されて弱つてをられます。銀座のまんなかに右翼の事務所ができて、二十年前の愛國行進曲がそこの拡声器から銀座に流されてゐる始末です。(昭和三十六年二月一日)

(『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』中央公論 1998年)

 この口ぶりからすると三島由紀夫の所謂右翼というものに対する嫌悪感というものは普通の市民並みのものだったかのように見受けられる。この後筆禍事件を知り事件の簡単な報告と追記がある。

 日本もおそろしい國になりました。みんなおびえてゐます。日本へかへつて匆々の事件で、僕は呆然自失、なすところを知りません。

(『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』中央公論 1998年)

 テロは否定しません、と嘯いていた三島もやはり平和馴れしてしまっていたのか。しかしやはりこの事件以前と事件以後で三島由紀夫の中で何かが変化したのでなければ『奔馬』はあり得ないわけだ。『憂国』はあくまで自刃。『憂国』を書いた三島をおびえさせるほど、身近におきたテロというものは強烈なものだったのだ。



百何人


 その後の東京は第二のテロ事件は今のところ起こつてゐませんが、百何人の言論人に警察の保護がつき、小生も「風流夢譚」の推薦者だといふゴシップが出たおかげで、危険が迫り、脅迫状もありがたくいただき、毎日警察のbody guard がついて、床屋へも一人で行けない有様、面白いとも何ともいひやうのない世の中ですが、護衛つきでナイト・クラブへ行つたりするのも、一寸little king の氣分でステキです。(昭和三十六年二月二十三日)

(『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』中央公論 1998年)

 この翌日三島由紀夫は軍服のコスプレで仮装パーティーに参加したはずだ。軍服はあらかじめ用意したものか、レンタルか。機を見るに敏、という感じがする。

 それにしても三島の書いた通りなら、百何人にも護衛がつくこの『風流夢譚』の筆禍事件の影響の大きさというものに対して認識を新たにしなくてはならないと思う。

 一番危険なのが深沢七郎だとして、三島由紀夫も三番手くらいに危うかったわけである。百何人中ベストスリーである。そう考えてみると軍服のコスプレは単なる悪ふざけではなく、自分は『憂国』を書いた男ですよという必死のアピールだったのかもしれない。


定家の生涯


——臼井氏も定家に言及してゐますが、最近
  「藤原定家」村上修一著 吉川弘文館(人物叢書95)
といふ本をよみ、あまり面白くて、我を忘れてよみました。いつか定家の生涯を小説にしてみたいと思ふほどです。(昭和三十八年三月二十日)

(『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』中央公論 1998年)

 定家について書きたいとは「定家の生涯を小説にしてみたい」という意味で「藤原定家」村上修一著がきっかけのようだ。

 従ってどうもこれは藤原氏の話にはならず、道長も出てこないのではなかろうか。

 この点私もうっかりしていたが、平野啓一郎も確認を漏らしている。やはり一つ一つ丁寧にやっていくということが肝要だ。


[余談]

 昭和三十四年の手紙に小宮豊隆と久保田万太郎の話が出てくる。それぞれ漱石、芥川と結びつき、明治、大正の人のイメージだ。昭和三十四年ねえ、と思ってしまう。

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