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夏目漱石論2.0

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2022年4月の記事一覧

批評の文体②

批評の文体②

 好んでわざわざ文芸批評を読んだことがないという人でも、解説や評価というものはどこかしらで読んでいるんじゃないかと思う。例えば芥川賞の選評なんかはテレビでも流れてくるわけだけど、ああいうものをみんなはどう受け止めているのだろうか。批評するということはある意味評価するということでもあるので、良し悪しを語ることになる。解説も選評も同じで、一言で切り捨てるような乱暴な人もいるけれど、それはもう批評以前の

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批評の文体③

批評の文体③

 私は「近代文学2.0」としていささか真面ではない作家たちの作品についてこれまであれこれ書いてきました。真面ではないという形容は、作家と作品の両方にかかります。また「近代文学2.0」という区分けそのものが真面ではないと考えています。
 この真面ではないという感覚を具体的に説明すると、例えば村上春樹さんについて考えてもらえばいいと思います。早稲田大学を卒業して、作家になり……とその経歴や実績を私が説

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作家にとって思想とは何か①

作家にとって思想とは何か①

 この二週間ばかり、考え続けていることがある。まずは何の先入観も持たないで、このツイートを眺めて欲しい。

どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか

 ……なるほど。「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」この問題は「食べたから」という以上の答えを持ちうるだろうか。寧ろこの人は萩の月のおいしさ、もっと食べたいという感情、そういうものを表現しているのであって「どうして萩の月は食べると

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夏目漱石と谷崎潤一郎②

夏目漱石と谷崎潤一郎②

 この夏目さんが夏目漱石であることには少々驚いた。これまで谷崎潤一郎の作中で夏目漱石の名前を見た記憶もない。芥川との接点はあるが、谷崎には夏目漱石との直接のつながりはないと思い込んでいたから意外だ。同時代に生きながら、何故か交わらなかった天才二人というイメージだったが、少し軌道修正が必要だろうか。

 作家が作中で登場人物に芸術論、小説論、あるいは哲学、認識論を語らせることは珍しくない。優れた小説

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シンプルな読みに向けて

シンプルな読みに向けて

 これまで私は夏目漱石から谷崎潤一郎までのいくつかの作品について、何か書いてきた。それを「新解釈とは言えないまでも私なりの感想のようなものをまとめてみました」とでも書いてしまえばいささかでもお行儀が良かろうものを、私は「宇宙で初めての新解釈です」と云わんばかりに書いてきた。これはどう考えても私なりの感想のようなものではない。現に、『途上』のからくりにさえ、誰一人気が付いていなかったのではないか? 

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「お話」とは何か   軸があるかないかだよ からあげくんが妖精だったなんて!

「お話」とは何か   軸があるかないかだよ からあげくんが妖精だったなんて!

 前回、私は谷崎の『泰淮の夜』について「お話」になっていると書いた。『蘇州紀行』は紀行文だが、『泰淮の夜』は「お話」だと。

 実はこのあたりのシンプルな筈の事が案外伝わっていないのではないかと思い、少し補足説明しておきたい。紀行文はどこそこを観光した、何々を食べたの羅列でよい。筋ができてしまうとお話になる。『泰淮の夜』は支那料理を二ドルでたらふく食べ、三ドルで芸者が歌を歌うと聞かされる。では女は

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靴宇の社会人 先天性社会人なんているの? そもそも何でそんなに喧嘩腰なの?

靴宇の社会人 先天性社会人なんているの? そもそも何でそんなに喧嘩腰なの?

 谷崎の「胡蝶羹」の意味が解らず、ずっと考えている。蝶が羽を広げた形から、ふかひれの姿煮のようなものかと考えてみたが、ふかひれは既に出ているのでどうも違うような気がする。しかし「胡蝶」に蝶以外の意味が見いだせない。胡が西胡、ペルシャだとして、ペルシャの羹のイメージが捉えられない。ゼリー、ジュレ…。しかしまさか蝶は食べないだろうが、蝙蝠を蝶とは呼ばないだろうし…。萩の月を開いたようなものか…。と考え

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谷崎潤一郎の『柳湯の事件』を読む 李徴はフリチンだ

谷崎潤一郎の『柳湯の事件』を読む 李徴はフリチンだ

 何故夏目漱石の『こころ』や中島敦の『山月記』は論理国語の教科書に採用され、谷崎潤一郎の『柳湯の事件』は論理国語の教科書に採用されないのだろうか。おそらくそんなことを真剣に考えた人間はこれまであるまい。しかし不思議なことではなかろうか。

 現代的な視点に立てば、夏目漱石の『こころ』にはいくつもの問題があると言える。鎌倉の海水浴で「私」は全裸で先生に迫る。「私」は水着を持たず、何を着ていたとも書か

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