2022年4月の記事一覧
シンプルな読みに向けて
これまで私は夏目漱石から谷崎潤一郎までのいくつかの作品について、何か書いてきた。それを「新解釈とは言えないまでも私なりの感想のようなものをまとめてみました」とでも書いてしまえばいささかでもお行儀が良かろうものを、私は「宇宙で初めての新解釈です」と云わんばかりに書いてきた。これはどう考えても私なりの感想のようなものではない。現に、『途上』のからくりにさえ、誰一人気が付いていなかったのではないか?
もっとみる「お話」とは何か 軸があるかないかだよ からあげくんが妖精だったなんて!
前回、私は谷崎の『泰淮の夜』について「お話」になっていると書いた。『蘇州紀行』は紀行文だが、『泰淮の夜』は「お話」だと。
実はこのあたりのシンプルな筈の事が案外伝わっていないのではないかと思い、少し補足説明しておきたい。紀行文はどこそこを観光した、何々を食べたの羅列でよい。筋ができてしまうとお話になる。『泰淮の夜』は支那料理を二ドルでたらふく食べ、三ドルで芸者が歌を歌うと聞かされる。では女は
靴宇の社会人 先天性社会人なんているの? そもそも何でそんなに喧嘩腰なの?
谷崎の「胡蝶羹」の意味が解らず、ずっと考えている。蝶が羽を広げた形から、ふかひれの姿煮のようなものかと考えてみたが、ふかひれは既に出ているのでどうも違うような気がする。しかし「胡蝶」に蝶以外の意味が見いだせない。胡が西胡、ペルシャだとして、ペルシャの羹のイメージが捉えられない。ゼリー、ジュレ…。しかしまさか蝶は食べないだろうが、蝙蝠を蝶とは呼ばないだろうし…。萩の月を開いたようなものか…。と考え
もっとみる谷崎潤一郎の『柳湯の事件』を読む 李徴はフリチンだ
何故夏目漱石の『こころ』や中島敦の『山月記』は論理国語の教科書に採用され、谷崎潤一郎の『柳湯の事件』は論理国語の教科書に採用されないのだろうか。おそらくそんなことを真剣に考えた人間はこれまであるまい。しかし不思議なことではなかろうか。
現代的な視点に立てば、夏目漱石の『こころ』にはいくつもの問題があると言える。鎌倉の海水浴で「私」は全裸で先生に迫る。「私」は水着を持たず、何を着ていたとも書か