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谷崎潤一郎の『柳湯の事件』を読む 李徴はフリチンだ

 何故夏目漱石の『こころ』や中島敦の『山月記』は論理国語の教科書に採用され、谷崎潤一郎の『柳湯の事件』は論理国語の教科書に採用されないのだろうか。おそらくそんなことを真剣に考えた人間はこれまであるまい。しかし不思議なことではなかろうか。

 現代的な視点に立てば、夏目漱石の『こころ』にはいくつもの問題があると言える。鎌倉の海水浴で「私」は全裸で先生に迫る。「私」は水着を持たず、何を着ていたとも書かれない。「海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切を脱ぎ棄てる事にしていた。」とあるので「私」は理論上全裸である。その後、猿股一丁の西洋人の股間を凝視しているので、水にぬれて透けた猿股に浮かび上がる西洋人の一物を見て居たことになる。これはいかにも猥褻である。無論現代的な視点に立てばこそ、適当な就職先を探すより親の遺産という不労所得を得る事こそが肝心、身を粉にして働くより債券の運用で「金に金を稼がせる方が得」というような極めてリアルな経済理論のような評価できる要素もなくはない。

 しかし夏目漱石の『こころ』や中島敦の『山月記』が教科書に採用され、谷崎潤一郎の『柳湯の事件』が採用されないのは、『こころ』の「私」が全裸であることに誰一人気が付かず、『山月記』の李徴がおそらく虎になったと同時に全裸にもなっていた筈だが、その股間に全くフォーカスされず、全裸であることさえ無視されているからではなかろうか。李徴は出張先の汝水のほとりで発狂する。しかしもし自分が勝手に虎になったと思い込み、全裸でがおがおーと吠えながら、暴れまくっていたとしたらどうなのだろう。そしてふと我に返り、詩を詠む。全裸で。全裸の変態詩人の誕生である。いや、書かれていないだけで虎はパンツをはいていた、と反論する人があるだろうか?  ならば太宰治の『走れ、メロス』のメロスがフリチンであることをどう言訳するのか? 『ごんぎつね』はパンツをはいていたのか? いや、フリチンだろう。国語教科書はこのようにずっとフリチンにこだわってきたのだ。

 谷崎潤一郎の『柳湯の事件』もそういうたぐいの話だ。サディストの青年画家が、たまたま入った柳湯という混雑した不潔な銭湯で、男の急所を摑んで殺してしまう話である。しかし服は着ている。裸で逃げ出してもいいところをちゃんと服を着ているだけ真面である。

 しかし青年は女を殺したと勘違いしている。

 青年は湯船の中で足裏で女の死体を踏んでしまう。それは青年が一緒に暮らしている瑠璃子という女の死体である。家に帰ってみると瑠璃子はちゃんといる。それから青年は四晩続けて柳湯にいく。その度に足の裏に瑠璃子の死体が沈んでいる。

 思い切って引き上げてみると確かにそれは瑠璃子だった。瑠璃子の死体を湯に沈めて、大急ぎで湯から出て服を着替えていると、「人殺し」だと騒がれ始める。青年はなんとか逃げ出して、そのまま弁護士S博士の事務所を訪れ、事の次第を話す…。自分を虎だと思い込むほど深刻ではないが、やはりこの青年は病んでいる。「私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が喰くい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。」という『こころ』の「私」より、やや分裂気味である。

 瑠璃子の話を聞いて見ると、なんということもない精神病者の話に思えてくる。

「私があの人を嫌つたのは、決してあの人に働きがないからではなく、さうかと云つて外に男が出來たからでもありません。實は年々に激しくなるあの人の狂氣が恐ろしかつたのです。あの人は此の頃、私に對して無理な奇態な要求ばかりをしました。さうして、ありもしない事を事實に見たと云つて私を困らせ、虐待し、責檻しました。その責檻のしかたが又非常に妙でした。たとへば私を壓さへつけて置いて、ゴムのスポンヂヘシヤボンをとつぶりと含ませて、それで私の目鼻の上をぬるぬると擦つたり、體中へどろどろした布海苔を打つかけて足蹴にしたり、鼻の孔へ油繪の繪の具をべつとりと押し込んだり、始終そんな馬鹿げた眞似をしては私をいぢめました。私がじつと大人しく玩具にされて居ると機嫌がいゝのですけれど、若し少しでも嫌がつたり何かすれば忽ち腹を立てゝ亂暴を働きました。そんなこんなで、私はあの人と一緒に居るのが厭で厭で溜りませんでした。」(谷崎潤一郎『柳湯の事件』)

 これはただの変態サディストである。ただの?

 確かにある傾向のある変態である。その変態性は青年自身によってこう説明されていた。

僕は子供の時分から馬鹿に蒟蒻が好きでしたが、それは必ずしも味がうまいからではありませんでした。僕は蒟蒻を口へ入れないでも、たゞ手で觸つて見るだけでも、或ひは單にあのブルブルと顫へる工合を眺めるだけでも、それが一つの快感だつたのです。それから心太、水飴、チユープ入りの練齒磨、蛇、水銀、蛞蝓、とろゝ、肥えた女の肉體、-それ等は凡て、喰ひ物であらうが何であらうが、皆一樣に僕の快感を挑發せずには措かなかつたものです。(谷崎潤一郎『柳湯の事件』)

 蒟蒻と心太、水飴、チユープ入りの練齒磨、蛇、水銀、蛞蝓、とろゝ、肥えた女の肉體を同列に並べる感覚が私には解らないが、多分彼は豚の脂身も好きだろう。

僕の畫いた靜物を見ればお分りになるだらうと思ひますが、何でも溝泥のやうにどろどろした物體や、飴のやうにぬらぬらした物體を畫く事だけが非常に上手で、その爲めに友達からヌラヌラ派と云ふ名稱をさへ貰つてゐるくらゐなんです。で、ヌテヌラした物體に對する僕の觸覺は特別に發達して居て、里芋のヌラヌラ、水洟のヌラヌラ、腐つたバナヽのヌラヌラ、さう云ふ物には、眼を潰つて觸つて見たゞけでも、直ぐに其れを中てることが出來ました。(谷崎潤一郎『柳湯の事件』)

 コーネリアス(小山田圭吾)は嘗てブラ風呂に入っていたような記憶があるが資料が見つからない。

 こういう水洟のヌラヌラみたいなものに惹かれる人が一定数存在することは想像に難くない。渡哲也が山芋を「洟食ってるみたい」と嫌っていたことを思えば、確かに逆もあるのだろう。

  しかし何故谷崎はこんな話を書いたのだろうか。

 確かに谷崎には蒟蒻の触感が好きなのだろう。水洟のヌラヌラも好きなのかもしれない。しかしただ好きだから書きましたということではなかろう。それは中島敦がフリチンの言い訳のために李徴を虎にしたのではないのではないかという程度に何も根拠のない私の感想である。あるいは村上春樹さんの『1973年のピンボール』に現れる双子のカールフレンドという過剰さが、シリアル番号やハイスコアの無意味さを象徴するものではなく、村上春樹さん自身が単純に双子のカールフレンドにあこがれていたから書かれたものであったように、この時期谷崎は単純にヌラヌラ派だっただけなのかもしれない。ここには明確な答えは存在しない。

 ただ教訓として、銭湯ではいつ頭の可笑しい人間に股間を握られるのか解らないので用心した方がいいとだけは言える。富岡義勇は「生殺与奪の権を他人に委ねるな」と云った。しかし谷崎は「股間を他人に握らせるな」と書いているわけではなかろう。

 私はこれまで谷崎作品をいくつか読んできて、どうも谷崎の中の変態性欲とか性的嗜好ではないもの、むしろ谷崎自身の中には見当たらないが、他人のどこかには見当たるものを、谷崎がお勉強して取り入れてきたのではないかと疑っている。

 佯狂の詩人ほどみじめな者はあるまい。谷崎はそれではない。あくまで真面目に思える。谷崎の姿勢は、そもそも自分の中にないものも含めて、人間というものをあらゆる意味で突き詰めていこうという、極めて真面目腐った狙いを持つものに見える。何の偶然か酒鬼薔薇君がホームページで蛞蝓への関心を明らかにしていたことを思い出す。生半可な勉強では「心太、水飴、チユープ入りの練齒磨、蛇、水銀、蛞蝓、とろゝ、肥えた女の肉體」とすらすらと出てはこないだろう。天才が努力している。この時点の谷崎は、私にはそう見える。これを教科書に載せてもいいのではないかと私は真面目に思う。そうでなければ、私の『シベリア』を…。

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