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作家にとって思想とは何か①

 この二週間ばかり、考え続けていることがある。まずは何の先入観も持たないで、このツイートを眺めて欲しい。

どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか

 ……なるほど。「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」この問題は「食べたから」という以上の答えを持ちうるだろうか。寧ろこの人は萩の月のおいしさ、もっと食べたいという感情、そういうものを表現しているのであって「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」という問題が本質的に存在する訳ではないのではないかと、常識的には言えるかもしれない。
 しかし一応世間では哲学者として認められている永井均であれば、「萩の月に限らず、食べなくても、ものがなくなることはあり得るのではないか」と真面目に答えるだろう。


 また「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」という問題は、「なぜ何もないではなく何かがあるのか?」という有名な問題の裏返しの形式をとっている。

 このことにより、「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」という問題の答えは、ライプニッツによって、

実際、萩の月がなかった方が、萩の月があるよりも簡単で容易であると言える。次に、萩の月が存在しなければならないということを認めた上で、「なぜ萩の月はこういうふうに実在しなければならないのか、別様であってはいけないのか」ということの理由を示すことができなければならない。

 として自然科学的に定式化される。しかしこれではまだ答えが出たわけではない。カントは理性で扱える問題ではないとし、ショーペンハウアーは萩の月に対して「なぜ」とは問えないとした。ベルクソンは 「無い」は無いといい、ハイデッガーは萩の月の問題こそ最も重要であると主張した。ウィトゲンシュタインはこの問題について「語りえない」とし、ノージックは「 答えられないだろうが、挑戦する」とした。
 無論「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」という問題は疑似問題ですらない。
 件の永井均は「そもそもなぜ私である人と私でない人が存在するのか ... この端的な事実をまずは受け入れなければ何も始まらない」とするが、ならば同様に「そもそもなぜ萩の月であるお菓子と萩の月でないお菓子が存在するのか ... この端的な事実をまずは受け入れなければ何も始まらない」とも言えるのではなかろうか。つまり食べたのが萩の月であるからなくなるのであって、もしも食べたのがかもめの玉子ならば、萩の月はなくならないのである。そもそも食べたからと云って、過去には存在した萩の月が「なくなる」という意識そのものが間違っているのではなかろうか。「なくなる」とは萩の月という存在の本来の流れなのであり、むしろ萩の月という存在の一部として食べられるという流れが根源的にあるのであり、食べられるという行為が萩の月の存在を否定することにはなり得ないのではないのではなかろうか。あるいは食べた萩の月はなくなるのに、なぜ食べていない萩の月は存在しているように勘違いしてしまうのかという問題もある。食べられなければ萩の月ではない。

 つまり萩の月は食べられてこそ萩の月なのであって、もし食べるとなくなるのであれば、萩の月は本質的に存在しえないものになってしまう。

谷崎潤一郎に思想はないのか

 この「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」という問題について考えてみる時、しばしば谷崎潤一郎が「思想がない」と批判されてきたことを思い出さずにはいられない。この「思想がない」とはずいぶん乱暴な石礫であって、誰でも不意にそんなことを言われたら、一瞬「ん?」と思うに違いない。思想とは何か、と考えれば、これは大きな話になってしまって、一冊や二冊の本ではまとめられないだろうが、ここではかりに「どうしたら思想があることになるのか」という問題して論じてみたい。
 直近ではこの「どうしたら思想があることになるのか」という実例を、谷崎潤一郎が夏目漱石の「則天去私」の気分を東洋思想と認める辺りで確認した。

 つまりバズるキャッチフレーズがあれば、思想があるように見えるのである。これは永井均にも同様の事が言える。「比類なき〈私〉」と「超越論的なんちゃってビリティ」によって、永井均には思想があるように見える。


 いや谷崎にも「悪魔派マゾヒスト」という看板があるじゃないかと云いたいところだが、どうもこの点ではまだ谷崎は趣味に留まり、思想性を獲得していないように私にも思える。例えば沼正三は日本人の本質的な劣等性を徹底して論い、それを家畜たる資格にまで持って行った。創作の中とはいえ去勢と原子爆弾を許容するマゾヒストのユートピアを描いた。ここまでくると思想だと認めざるを得ない。しかし女の洟のついた手巾をしゃぶったくらいでは、「なんだか汚い」にとどまり、思想という感じがしない。
 この点三島由紀夫は解りやすく(解り難く?)軍服のコスプレで思想を捏造した。本人が語る通り『潮騒』の頃までは政治的にはノンポリで、何も考えていなかった。戦時中は「古今和歌集」を読んでいた。外見的右傾化は『風流夢譚』の筆禍事件以降のことで、教養としての国学は学生時代からしっかり身についてはいたものの、平田篤胤に心酔していたわけでもなかろう。バタイユに触発されて「死・エロティシズム・美」と言い出したのち、UFOや降霊術、阿頼耶識など珍しいもの、オカルト的なものに惹かれ乍ら、武士道やらサムライやらと威勢の良い言葉も振り回すが、総じて三島を「保守」以上の何かに見立てようとする議論は空しく傾いて、体をなさないものになっているように思う。しかし三島には思想がないとは言われない。理解できないが何かがあったのだろうと思わせる。
 ところが少なくとも私は、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、太宰治、三島由紀夫らについては、本当にちゃんと読んでいくと思想がなくなるように感じている。いや、なにかしら思想性というものはあるのだろうが、思想があるように思えなくなるのが読むという行為なのだ。
 これはつまり「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」と同型の問題ではなかろうか。「どうして思想は読むとなくなってしまうのか?」という問題はひっくり返って、谷崎の漱石観批判になる。「則天去私」の気分を東洋思想と認めるなんて、谷崎は本当にちゃんと漱石作品を読んでいたのか、と思えてくるのである。

「いかなる『まじめ』な言語行為にも『なーんちゃって』という発言による冗談化が後続しうるのでなければならない(そのことがおよそ言語行為なるものの可能性の条件そのものをなしている)」

 ……という「超越論的なんちゃってビリティ」を真面目に考えた時、一人の作家、それももう『なーんちゃって』と云いようのない死した作家の作品と向かい合う時であってさえ、これまで私の中に蓄積された読書体験というパラテクスト性の中に作品を投げ込むことで私だけのメタテクストが生じるのであるから、決して閉じられたものではなく、冗談化が後続しうると認めねばならないだろう。

 少なくとも私が作品ごとに新たな解釈を見出しうるうちは思想性などふわふわしたもので、萩の月の如く食べればなくなるものに過ぎないのだ。仮に私が谷崎作品におちんちんの骨のような確固たるマゾヒズムを見出したとして、未読の次作では中身はカスタードクリームでしたではお話にならない。萩の月に思想性があるとは思えない。そういう意味では近代文学の思想性はは萩の月であり、どういうわけか食べるとなくなるものなのだ。












光りの芯(;゚Д゚)



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