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靴宇の社会人 先天性社会人なんているの? そもそも何でそんなに喧嘩腰なの?

 谷崎の「胡蝶羹」の意味が解らず、ずっと考えている。蝶が羽を広げた形から、ふかひれの姿煮のようなものかと考えてみたが、ふかひれは既に出ているのでどうも違うような気がする。しかし「胡蝶」に蝶以外の意味が見いだせない。胡が西胡、ペルシャだとして、ペルシャの羹のイメージが捉えられない。ゼリー、ジュレ…。しかしまさか蝶は食べないだろうが、蝙蝠を蝶とは呼ばないだろうし…。萩の月を開いたようなものか…。と考えていた。

この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才能に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。(「文学は実学である」『文学は実学である』荒川洋治・みすず書房・2020年)

 そんなものかなと思いつつたまたま村上春樹作品の主人公はお金に困らないというツイートからこの「靴宇の社会人」という言葉に辿り着いた。このnoteの読者、(おそらく谷崎君一人)なら解ってくれると思うのだが、私はまあ、そこそこあれである。なのにこの「靴宇の社会人」という言葉を知らなかった。宇は天地四方といった広い意味を持つ字で、靴はほぼ靴という意味しか持たない字である。「靴宇の社会人」とはなんだ。そもそも煩悶や蹉跌のない社会人なんて存在するのか、と考えてしまった。もともとは

 …ここから流れ着いたのだ。

 夏目漱石も作家デビューは遅く、そもそもは学者だった。十代二十代の過ごし方は人それぞれなんじゃないかなと思う。体から何が出てくるのかも解らない。そこは一番よく解っていないことで、今手術の後の傷口から白い袋のようなものが毎日出てくるのだけど、これ膿でもないし、脂でもなくて、なんだか解らない。

 でもね『ねじまき鳥クロニクル』でいえば、ちゃんと宝くじを買うんだな。こういうところをきちんと読んでいない人が案外多くて、あれだなと思う。私は今おそらく「靴宇の社会人」ではないのだろう。しかし煩悶も蹉跌もある。誰かに成り代わって書くなどとはおこがましくて言えない。才能には恵まれて居ないだろうし、あざやかな文は恥ずかしくて書けないし、鋭いことばを駆使しているなどと思われたら舌嚙んで死にたくなっちゃうくらいだ。だからあれだなと思う。

 人間えらくなっちゃったら終わりだなと。








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