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2024年映画感想No.2:ある閉ざされた雪の山荘で ※ネタバレあり

どこまでがオーディションの範疇なのかがわからない展開の面白さ

TOHOシネマズ川崎にて鑑賞。
舞台の最終オーディションとして集められた7人の男女が泊まっている貸別荘で起こる殺人事件を描く。7人全員が主役級の役者さんで、キャスティング見ただけでは全員に殺される可能性も真犯人の可能性も考えられるのが良いバランスの配役だと思った。

4日間のオーディションの内容になぞらえて実際に殺人事件が起きているのではないか、という展開になっていくのだけど、果たして本当に事件が起きているのか、それも含めてオーディションが続いているのか登場人物たちも観ている観客側も断定できないところが面白かった。
そもそも主役を決めるオーディションで全員にチャンスがあると言っておきながら「殺人事件が起きて犠牲者が出る」という離脱者が生まれる内容のロールプレイングになるのが結構メチャクチャだと思うのだけど、まずはそのオーディション自体の展開の意味わからなさを疑いながら観る部分がある。
犠牲者役が出ることがオーディションの展開通りであることは主催側の音声で説明されるのだけど、具体的に何をすればいいのかよくわからないまま最初の犠牲者が出る展開になるのでどういう基準でオーディションが進んでいるのかよくわからないということが物語全体の展開を読めなくしている。

不自然な設定が醸し出す仕組まれた計画の可能性

全てがオーディションの範囲内である可能性と本当に事件が起きている可能性のどちらもが捨てきれないことで、何がミスリードなのかがわからない点が道中の面白さになっていると思う。ここまではオーディションの筋書き内なのかという部分と実際に事件が起きているっぽいぞという部分の両方があるのだけど、決定的な情報がないことで全部仕組まれた設定の可能性を感じながら観るようなところが面白い。
「雪で閉ざされた山荘」という舞台的な見立ての設定を映像的に表現するカットが挟み込まれることで、映される出来事自体にも一定の信用できなさがあるように思う。事件が起きる場面は被害者目線からのシーンになっているのだけど、「あくまでオーディションの設定上ではこういう場面になっています」という再現映像的な含みがある。
WEST.の重岡くん演じる久我だけ外部の人間であるという点もセッティングの不自然さを生んでいて、元々劇団水滸のメンバーである6人と一人だけ他者である久我、それぞれに実は真の目的があるんじゃないかと疑わせる設定も良かった。登場人物全員が役者であるという点が劇中で起きている出来事が実は仕組まれたものであるということをより考えさせるような要素になっている。
この集まりの本当の目的はなんだ?という一定の信用できなさがずっと響いていて、色んな可能性を考えながら観るのが面白かった。

破綻している三重構造のトリック

解決編でやたらあっさり犯人役が独白したと思ったら「早く殺人を確定させたい理由がある」という一仕掛けがあって、殺人事件とオーディションの可能性が並行してグレーに語られてきた内容に必然性があるトリックがあるのは良かった。
ただ真相的には結構破綻していて、まず本当にオーディションが開催されていたならこの4日間はなんだったのか全く説明がつかないのが残念だった。オーディションの筋書きも建物内のカメラも全て犯人側の仕掛けたものだったわけで、主催者が本当にやろうとしていたオーディションに実態が無い。久我が参加している事からオーディション自体は本当に開催されているのだと思うのだけど、逆に彼がこの場にいることに無理が生じてしまっている。
そこまで犯人がオーディションの内容を改ざんできるならそもそも身内だけで集まる舞台立てから仕込めば良かったんじゃないかと思った。作中の展開が「全てはオーディション内の出来事かもしれない」と思わせる一番の要因だった主催者の音声が実は犯人の作ったもの、という都合良すぎる万能テクノロジーロジックも冷めた。

描写が足りない動機をめぐるドラマ

動機に関わるドラマの部分も酷い描き方だと思う。森川葵演じる雅子が下半身不随になったエピソードがそれまでの物語と全く関わっていないし、そこに関して他の登場人物たちにも感情の厚みがないので仲直りする展開に色々描写が足りていない印象を持った。雅子がこの場にいないことも含めて彼女の一件に関して劇団員それぞれがどう思っていたのか、という「不在の中心」的な部分が背骨になるべき物語だと思うのだけど、真相がわかるまでの展開に彼女の不在に意味を持たせるような描写がほとんど無いことで過去に起きた悲劇が彼らの現在には全く影響していないかのような印象を残す。
親のスポンサー力や演出家と寝てることで役をもらっている人たちがオーディションで落ちて演劇を辞めようとしている人の家に行って心にもない同情を示すこと自体めちゃめちゃ性格が悪いことをしていると思うのだけど、まず3人がなんでそんな酷いことをしたのかも描かれないし、それをどう思っているのかにも触れられない。それこそせっかく部外者である久我がいるのだから、彼にだけは自分がやってしまったことをどう思っているのかを垣間見せることはできたと思うし、それが無いから理解に苦しむ酷い行いをしたことの醜悪さ、それが招いた悲劇に対して全く向き合っていない酷薄さだけが残ってしまっているように思う。
雅子がどういう存在だったのかが描かれればそれぞれの関係性も想像できると思うのだけど、それすらも無いので本当に雅子を訪ねた3人が何をしたかったのかよくわからない。仮に偽装殺人が成功していたとして彼らは雅子に対してどういう気持ちでいたのだろうと思うし、たまたま久我によって真相を暴かれたことで雅子の前に立った彼らが反省を口にしたとしても「だって謝らないで逃げようとしてたじゃん」と思ってしまった。

無神経な真相をなし崩し的に免罪する美談的着地

また、雅子に関する描写が欠けていることで真犯人である間宮祥太朗演じる本多の犯行にも「何がしたかったんだろう」という軽薄さが生まれてしまっているように思う。関係性が描かれないので彼がここまでの計画を実行する切実な動機も無いし、当事者の切実さを無神経に軽視したことで結果的に遅かれ早かれ人の気持ちを踏みにじる結果が待っているだけのことをしているように感じた。仮にこの4日間の計画が成功したとしてもその後どうするつもりだったのだろうか。
偽装殺人はそれ自体が雅子に対して無責任な行為だと思うのだけど、それに対して発覚したその場ですごい反省してるみたいなムードが受け入れられてなし崩し的に赦すみたいな方向に向かっていくのが本当にどうなのだろうかと思った。

不誠実に消費されたままの雅子の悲劇

ラストに一連の騒動が舞台になって本人たちがそれぞれの役を演じているというエピローグがあり、入れ子構造を匂わせながらそれぞれが役者として前に進んだ的な場面なんだろうとは思うのだけど、公演の作家が久我ということになっていて一番関係ないこいつが自己実現のために悲劇を美談にしたのかと思うと一番デリカシーが無いんじゃないかと思った。
かつて雅子に役者を続ける勇気をもらった久我が今度は雅子にもう一度演技する場所を作った、という円環を描きたかったのかもしれないけれど、この話を前向きに語る権利があるのは雅子だけだと思うし、久我の物語も絡めたいのならせめて久我と雅子の共同作にするべきなんじゃないかと思う。
久我に対して本多がありがとうと言うのだけど、せめてそれを言うのは雅子だろとも思った。この映画が「雅子に取り返しのつかない傷を負わせた劇団水滸に久我が受け入れられたところで終わる話」として結ばれているところに物語の致命的なピントのズレが象徴されているように感じた。

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