見出し画像

17. 【番外編】避暑地軽井沢〜『ロシア語だけの青春』と心の旅〜

 休みを次の日に控えたある平日の昼間、「あ、旅したい」と思った。
 非日常を感じてみたいと急に思った。

 時は夏の盛り。

 残念ではあるが、すっごい遠くに行って、その見知らぬ土地を何時間も練り歩き、異文化を肌で感じるという大胆なことが可能な季節ではない。
 手軽に、身近で、関東から安近短で、涼しく過ごせるところはないだろうか。
 
 この条件によると私の行き先は軽井沢一択だった。
 私の人生での軽井沢の接点は、高校生の時に読んだ堀辰雄『風立ちぬ』だけだった。
 とにかく涼しい土地であるという印象だけ持っていた。
 これまで北陸新幹線に乗る度、軽井沢駅到着時に見える立派なショッピングモールは気になっていた。

 ぜひ、行って街の雰囲気を感じてみたい。

 心は定まった。私はネットで大宮発新幹線のチケットを予約した。

 大宮から新幹線では40分ほど。
 乗車前の午前中に感じた下界の暑さは、太陽が南中したときの日差しの強さを予感させた。
 新幹線に乗車している短い時間、現地の気候が気になった。

 東北でも容易に30度を超える記録を連発する昨今の猛暑。
 避暑地でも同様ではないか、と不安がよぎる。

 もう一つ、不安があった。

 軽井沢で同時間を過ごすか、ノープランだった。
 電車や新幹線での移動時間では十分練れなかった。
 現地にはおそらく観光案内所があるだろうから、そこでゆっくり考えることにした。

 新幹線に乗っている時間が短く、あっという間に軽井沢に到着した。

到着!

 ドキドキしながら新幹線の扉から出てみる。

「暑…くない!」

 モワァッ、という夏独特のまとわりつくような熱気は感じられなかった。
 私のテンションは爆上がりした。

「これが避暑地軽井沢だ!」と。

 軽井沢で有名なのは、あのジョンレノンも立ち寄ってコーヒーとアップルパイを食したという万平ホテル。
 そして、軽井沢の歴史が詰まった旧三笠ホテル。
 真っ先にそこに行こうと調べてみると、いずれも改装工事のため閉館していることが判明した。
 しかも、1週間2週間とかかわいい期間ではなく、年単位で。(万平ホテルは2024年夏、旧三笠ホテルは2025年夏までの予定)

 それ以外の目的地は私には思いつかなかった。

 とりあえず、作戦を練るために考える時間がほしくなりと、近くのカフェを探した。
 歩いて10分ほどのところに、書店が併設されたカフェがあると知った。
 天気は晴れ。歩くことを躊躇したが、ここが避暑地であると自分に言い聞かせ、歩くことにした。
 日は出ているが、幸い、すぐに発汗が促されるほどの鋭さはない。
 現地の気温をネットで調べると、下界より5度低い摂氏26度。
 この差は大きいのだ。体で感じた。

 一応、日陰を選んで歩いていたが、時折、碓氷峠のあたりから山越えで吹いてくる風の涼しさが肌を刺激した。
 あぁ、今、あの軽井沢に存在しているのだ。
 夢心地だった。
 燦燦と降り注ぐ陽の光を浴びて体で感じる冷たい風。
 今までは文字や映像で知るだけでの避暑地軽井沢。
 五感で非日常を感じられたこの時点で一人感激した。

 店舗は某大企業の系列書店であるようだが、外観からそれはわからない。
 ここ軽井沢にしかない書店のような気がして、ワクワクしながら店に入った。
 店内はとてもキレイ。
 併設するカフェには10名ほどのお客さんがいたが、空席は多く、とても落ち着けそうな雰囲気だった。
 店内を軽く歩く。
 文庫コーナーでは黒田龍之助『ロシア語だけの青春』が平積みされていた。
 今年6月に発刊された書で、書店に出て間もない時期に一度手に取ったことがある。
 忙しく心に余裕のないときだったこともあり、著者自身の体験を記したその本は、忙しくない時にゆっくり味わいながら読みたいと思い、そっと書棚に戻したのだった。
 平積みされていたはずの本も残りは私の目の前にある一冊となっていた。
 私は手に取って数ページ読んでみた。学生時代を回顧する文章に強く惹かれ、購入することにした。

 レジに行く。
 一人、会計中のお客さんがいたので後方で待つ。
 私に気付き、奥から出てきてくれた女性店員さんの案内で隣のレジで会計処理を行う。ブックカバーをお願いする。
 その店員さんは真っ白なブックカバーをかけてくれた。
 書店名や会社のロゴなどない。
 てっきり、その系列書店の社名が入った馴染みのブックカバーが来るものだと思っていたので、意外だった。
 小さく驚いた。

 真っ白なブックカバーを見てもどこで購入したものかわからない。
 普段生活している付近にこんな匿名性の高いブックカバーをかけてくれる書店はない。
 私は白いブックカバーが嬉しかった。
 あまり見ないものだったこともあり、非日常感を増幅させてくれるものだった。
 この白いブックカバーは数種類ある中から選んだものか、それともその一種類しかなかったのかわからないが、私は店員さんに心の中で心から感謝した。

 カフェで飲み物を注文し、席につき、本を開く。
 代々木にあったロシア語学校「ミール」が舞台だった。
 筆者は高校生から大学生になり、そして社会人になっても「ミール」と関りを持ち、そこで、いろんな人と知り合った。
 そんな話だった。
 私は感情移入して読んだ。
 著者の実体験がもとになっており、自分の体験・経験と重なるようなエピソードは、ない。一つもない。
 だが、なぜか、共感した。
 詳しすぎず、しかし、要点を外さない状況の描写を夢中になって読んだ。

 1時間ほど経っただろうか。
 ふと、自分は今、旅の途中であることを思い出す。
 太陽の角度も変わっている。外に出なければ。
 もちろん、プランは。定まっていない。
 私は、カバンから取り出した栞でないものを栞の代わりとして読みかけの本に挟み、席を立った。

読みかけの本と栞

 万平ホテルと旧三笠ホテルがないのなら、旧軽井沢を散策して帰ることにした。
 書店から向かう道にあふれる木陰により、肌で感じる涼しさはいっそう増した。

避暑地らしい光景

 2時間ほど歩いただろうか。
 観光客は適度に多く、街の賑わいとして私の目に映る景色を彩っていた。
 ぼちぼち休憩することにした。それだけ歩くと体温も上がっていた。
 そんな時でも碓氷峠方向からの風は私に涼しさを届けてくれた。
 休みたいし、さきほど購入したほんの続きも気になったので、軽井沢駅南にある大型ショッピングモール内にあるカフェで読書にいそしむことにした。

 栞を挟んだ箇所は、著者が大学から進路を選択する場面だった。
 著者は大学でロシア語を専攻していたが、自ら「ミール」に通い、ロシア語の実力を養った。
 そこで同じ年代の友と知り合い、年上の社会人と知り合い、交流を深め、幸せそうだった。
 もちろん、語学学習のつらさは詳しく語られていないが、想像するに、大変であったに違いない。
 しかし、それを忘れさせるくらい、「ミール」での時間、そこで生まれた交流は実りあるものだったことは行間から伝わってくる。著者がうらやましかった。
 先に記した通り、私自身と重なるエピソードは、ない。一切ない。
 それでも、学生時代、語学学習に励んでいたのは同じであるし、友と知り合い、友から刺激を受け、大学卒業後の社会のありさまや生きていく術を教えてくれた社会人の”友”はいた点では同じである。
 時や場所が違っていても、同じ恩恵を私は授かっていたと気づいた。
 なんだか自分の人生が肯定されているようで、うれしかった。
 本に書かれている文字を目で追いながら、私の意識は、本の中の世界と自分が過ごした数十年前との間を行ったり来たりしていた。私の意識も、心も、旅をしていた。

 天気は崩れ始め、一瞬、暑い雨雲から勢いよく雨が下りてきた。
 カフェにいる私には関係ない。しかし、なんだか、動かなければならないような気がした。過去に浸っている場合ではない。
 先に向かって、未来の自分が肯定できる自分の人生にしなければならないような意識がオーバーラップした。
 総じて2時間ほどで読み終えた。清々しさに満たされていた。
 
 名残惜しさを少し感じつつ、上りの新幹線に乗車した。

 ここでは書かなかったが、今回の軽井沢では、「食」の面では成功したと言えない。
 リサーチ不足だった。これを補うためにも、下界が涼しくなった時期にでも違う季節を感じるために軽井沢を訪問しようと思った。

 そうはいいながら、私は、ただ単に、また、心の旅を堪能するきっかけを求めているだけなのかもしれない。