オタール・イオセリアーニ『そして光ありき』ジョージアと木、アフリカと木について
傑作。オタール・イオセリアーニ特集上映配給のビターズ・エンド様よりご厚意で試写を観せていただく。オタール・イオセリアーニ長編八作目。全編アフリカで撮影された作品のようで、舞台になるのもディオラ族が暮らすセネガルの森と川である。ディオラ族は男性陣が炊事洗濯担当、女性陣が狩り担当らしく、冒頭からアグレッシブに男を取り合ったり、古タイヤの取り合いで傷害沙汰になったりしている。不思議なのは、彼らは彼らの言語で会話し喧嘩し愛を呟いているが、それらに全く字幕が付けられておらず、ときたまフランス語の中間字幕によってセリフの一部が語られるのみとなっていることか。しかも、そのセリフのチョイスも謎で、一番最初に出てきた中間字幕は開始12分で登場する"バナナいる?"なのだ。見りゃ分かるわ、と。彼らの家の庭にその家独自の音の鳴る大きな木片の太鼓があって、それによって遠距離での会話をしていて、それに字幕が付くことが多いことから察するに、彼らの言葉そのものも音(楽)として捉えているのかもしれない。まぁ確かに彼ら/彼女らの発言は態度を見ていれば理解できるし、ある種の一般化という意味も含まれるのだろう。
イオセリアーニの映画らしく、本作品でも近代文明批判が展開され、それは村人たちの生活にジリジリと忍び寄る森林伐採として視覚化される。いつの間にかトラックがやって来て、近くの森の木々を伐採していくのだが、村人たちは全く危機感を抱かず、むしろお菓子をくれるトラックの運転手の人気は高い。やがて手遅れになるまで村人たちは普通に生活を続け、映画も彼らの風習を捉え続ける。また、首がちょん切れた死体に首をくっつけて蘇らせたり、口で息を吹きかけて大風を起こしたりと、魔術との近さなども現実と地続きで普通に描かれているのもイオセリアーニっぽい。
アフリカ映画を観ていると、土地や自然との結びつきとして木が大切にされていることが多い。例えばフローラ・ゴメス『Tree of Blood』(ギニアビサウ)なんかでは、子供が生まれたら木を植えて、それを人間の分身とする、魂の宿る木とする、という習慣があり、それが失われることの壮絶な痛みを描いていた。Lemohang Jeremiah Mosese『This Is Not a Burial, It's a Resurrection』(レソト)、センベーヌ・ウスマン『エミタイ』(セネガル)、Moustapha Alassane『Toula, or the Water Spirit』(ニジェール)なんかでも木は重要なモチーフとして登場していた。加えて、アレクサンドル・レクヴィアシュヴィリ『The 19th Century Georgian Chronicle』などジョージア映画でも木と大地と国家を結びつけることがままある。こうしてみると、アフリカの人々にとっての木とジョージア人にとっての木の重要性が、この映画で交錯したのだろうか。ならばアフリカでの映画製作は必然か、と思うなどした。
・作品データ
原題:Et la lumière fut
上映時間:105分
監督:Otar Iosseliani
製作:1989年(イタリア, フランス, ドイツ)
・評価:80点
・オタール・イオセリアーニ その他の作品
★ オタール・イオセリアーニ『唯一、ゲオルギア』ジョージア二千年史とその唯一性について
★ オタール・イオセリアーニ『そして光ありき』ジョージアと木、アフリカと木について
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