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【ネタバレ】トッド・フィールド『TAR / ター』肥大したエゴを少しずつ剥がして残るものは?

傑作。2022年ヴェネツィア映画祭コンペ部門選出作品。トッド・フィールド長編三作目で16年振りの新作。主人公リディア・タールは当代随一のオーケストラ指揮者だ。アメリカ五大オーケストラを経てベルリン・フィルハーモニーの首席指揮者となり、同じ現代の作曲家たちとも数々の作品を生み出し、舞台や映画音楽も書き上げ、EGOT(エミー/グラミー/オスカー/トニー)の15人のうちの1人である。正に現代の巨匠の一人であり、劇中で度々言及される過去の偉大な作曲家や指揮者たちと肩を並べるような存在だろう。ケイト・ブランシェットの存在感は、監督の"断られたら撮るのも辞める"という言葉に違わず圧倒的で、一言話し始めた瞬間から"あ…勝てない…"という強烈な個性を匂わせる。すご。序盤に登場するジュリアード音楽院での授業風景は非常に興味深い。クラシック用語はさっぱりなので専門的な会話による彼女の人物像の想像は全く出来ないが、ある生徒が"BIOPOCでパンジェンダーの自分には、女性差別的な人生を送ってきバッハの曲を真面目に聴くのは難しい"と言ったのに対して、"バッハの才能を属性に還元するなら君の才能も属性に還元されるのかい?"や"君の魂の設計者はSNSか?"とボコボコに言い負かす。相手が誰であろうと容赦はしない。彼女はシャロンというベルリン・フィルのコンマスと結婚して娘がいるんだが、彼女が虐められていると知ったら、娘を送迎するついでにイジメっ子に脅迫を仕掛ける。音の強弱に意見をした部下は容赦なく解雇。果てには、新たなチェリストのブラインド・オーディションで気に入った女性が通過するよう工作を仕掛け、過去に同じようにしたが破綻したらしき女性はひたすら邪険に扱って遂には自殺させてしまう。正にやりたい放題だ。それはこのキャンセルカルチャーの時代に過去の巨匠が生きていたら?という壮大な思考実験のようでもあり、"バッハの才能が属性に還元されるなら、リディアの才能も属性に還元されるのか"という命題の反証のようでもある。しかし、これだけではジュリアードでの授業の話だけで終わってしまう。この映画はそんな単純ではない。

映画の終盤で、リディアの師匠レナード・バーンスタインが登場する。それは彼が子供向けの番組で"音楽の意味"を語るシーンだ。音楽を理解するのに記号やコードを知る必要はない。何より素晴らしいのは、音楽が君たちに抱かせる様々な感情には限りがないことだ。その中には言葉では言い表せない感情もあるだろうが、音楽は音符だけでそれらの感情に名を与えてくれるのだ。音楽は動きであることを忘れるな。その動きこそが百万の言葉を上回る感情を与えてくれるのだ、と。リディアは幼少期にこの言葉を聞いて音楽の道を目指したのだろう。中盤までのリディアの非道な行為への断罪はあまり描かれないことからも、キャンセルカルチャーへの反抗と挑発に主眼が置かれてるわけではなく、寧ろ肥大したエゴをそれによって一つずつ剥がしていったときに残るものを描いているような気がしている。とはいえ、バーンスタインの言葉が彼女に与えた気付きというのは、彼女が東南アジアへ行って再び指揮者としてオーケストラという名の新たな王国を築く契機になっただけに見える。なにも欧州の有名オーケストラにこだわる必要はない、という気付きだ。それによって、彼女は再び人々を支配できるフィールドを手に入れる。ラストは彼女にとってはある種のハッピーエンド(アジアに都落ちしたという事実は受け入れてないと思うが)であるが、観客からすれば悲劇だろう。また、新たなクリスタが生まれかねないのだから。

ちなみに、始めてこの題名を見たとき、彼女がハンガリー系なのかアイスランド系など他のルーツがあるのか判断できなかったのだが、劇中で彼女のWikipediaが登場し、それによると彼女はハンガリー移民二世ということらしい(父親タル・ゾルターンは彼女が小学生の頃に亡くなったらしい、リディアは遺された母親との関係性に苦労している)。

・作品データ

原題:TÁR
上映時間:158分
監督:Todd Field
製作:2022年(アメリカ)

・評価:80点

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