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Giorgio Mangiamele『Clay』オーストラリア、その想いは泥沼と共に

オーストラリアにおける移民映画や多民族/多文化主義的な映画を語る上で先駆的な活躍をみせ、近年再評価が進む監督にジョルジオ・マンジャメーレ(Giorgio Mangiamele)がいる。1928年にシチリアのおもちゃ屋に生まれたマンジャメーレは、子供の頃から絵を描くのが好きだった。しかし、カメラが"ほんの一瞬"を捉えることができることに気付いてからは、カメラにのめり込んでいった。カターニアで美術を学んだ後、ローマに移って国家警察に入り、科学捜査班の監視部門でスチルカメラマンとして働きながら映画製作の本質を学んだ。彼はそこでデモなどを撮影しており、それを証拠として提示するために撮影技術や編集技術を磨いていったのだ。また同じ頃、ローマ大学でジャーナリズムを学び、"本質を見極めて最小限の言葉で語ること"を身に着けた。1952年にオーストラリアはメルボルンに移住した彼は、移民キャンプで出会ったドイツ人のドロテア・ホフマンと結婚した。彼はメルボルンにあるイタリア領事館でタイピストとして働き始め、週末にはイタリア人コミュニティで結婚式やパーティのポートレートを撮影し大成功を収めた。

マンジャメーレが本格的な映画製作を始めたのは、オーストラリアに移住して1年半経った1953年だった。それが初監督作『Il Contratto』である。この作品は彼自身の経験を基に、2年間の労働契約を結んでオーストラリアに移住した5人のイタリア人青年を描いている。当時、地中海から来た多くの青年たちは船賃の代わりに政府から委託された仕事に2年間従事していたが、オーストラリアは不況の真っ只中で、約束されていたはずのその仕事すら見つけることが出来ず、生活を維持するのに必死だった。それは映画も同様であり、資金不足のために最終段階まで完成させるに至らず、映画は無音のまま残された。同時代のイタリアで吸収したネオリオリアリズモ的な作風を持ち込んだ初のオーストラリア映画となった。

1957年、オーストラリアの市民権を得たマンジャメーレは、俳優/脚本家のボブ・クラークとともに、メルボルンのラッセル通りにあった経営難の俳優学校を引き継ぎいだ。ここで、演技や映画製作について教鞭を執りながら、生徒たちとともに移民の疎外感や人種差別などを描いた映画の製作を続けていった。そんな中で製作された初の長編が本作品である。マンジャメーレは自宅とスタジオを抵当に入れて予算を確保した。また、オーストラリア映画として初めてカンヌ映画祭コンペ部門に選出された作品でもあるのだが、海外批評家に激賞されたにも関わらず国内では冷遇され、自分自身で配給する以外道もなく、興行的には惨敗した。

本作品は沼地を逃亡する殺人犯の男の姿から始まる。泥まみれになりながら這いずり回る顔や動作がアップで強調され、それは男が陶芸家のコミュニティに助けられてからも続く。一番の感情表現器官である顔に対する執着や矢継ぎ早なカット割りは、音声が別撮りになっている奇妙なミスマッチが強調されるとともに、部外者である男を含めた"他人"に対する感情の発露が分かりやすく捉えられる利点がある。まるでマーク・ジェンキン『Bait』を観ているようだ。

本作品の興行的惨敗の後、マンジャメーレは1970年まで映画を撮らなかった。そして起死回生を図って製作された初のカラー長編映画『Beyond Reason』も本作品と同じ運命を辿った。1977年にドロテアと離婚した彼は、1979年に作業療法士のローズマリー・カミングとパプアニューギニアで結婚し、その地で情報局と契約して5本のドキュメンタリー作品を製作した。彼はパプアニューギニアにおける映画製作の基盤をも作り上げたのだった。また、抽象画家として成功したローズマリーも夫の映画を影響の一つと挙げている。マンジャメーレは2001年に亡くなった。

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・作品データ

原題:Clay
上映時間:85分
監督:Giorgio Mangiamele
製作:1965年(オーストラリア)

・評価:70点

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