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ラドゥ・ジュデ『若き詩人の心の傷跡』ルーマニア、世界を覆い尽くす濁流について

人生ベスト。ラドゥ・ジュデ長編四作目。若くして亡くなったルーマニアの作家マックス・ブレヘル(Max Blecher)の諸作に緩く基づく本作品は、1937年夏に黒海沿岸のサナトリウムを訪れた若き詩人エマニュエルについての物語である。シーンの転換点にはブレヘルの諸作から引用が中間字幕として登場しており、エマニュエルが小説の中の人物のように描写されている。戦前欧州、サナトリウム、青春、戦争、恋愛、死といえばトーマス・マン『魔の山』を思い出すが、出版年的にブレヘルがマンの影響を受けているのは間違いないようで、ブレヘルの作品は出版されてから『魔の山』と比べられ続けてきたらしい。ジュデによると両者の違いは、ブレヘルが実際に患者としてサナトリウムにいた経験を基に書かれている点とのこと。また、"緩く基づく"とクレジットされているのは、原作のエピソードにブレヘル本人のエピソードを混ぜ合わせたという変更の他に、原作にはない反ユダヤ主義と右翼イデオロギーの台頭というテーマを混ぜ込んだことに由来している。それは前作『Aferim!』におけるロマ差別から次作『The Dead Nation』における"個人と社会/政治との関わり合い"と反ユダヤ主義の台頭やそれ以降の作品におけるジュデのメインテーマと受け継がれていくものの一つでもあり、1937年のルーマニアを飲み込んだ巨大な濁流でもある。改変には多くの批判もあったが、ジュデは"原作にはなかった当時の音楽も付け足しているが彼ら(批判者)は何も言わない、彼らの不満は純粋なものではない"と一蹴している。

大学で化学を習っていたというエマニュエル(カストルプの出自と似ている)は宝石商の一人息子で、同時代を含めた多くの文学作品から引用を重ねるナイーブな青年として描かれている。骨結核のために上半身を石膏でガチガチに固められた彼が、大きな車輪のついたベッドで病院中を押し回され、寄宿学校のような陽気で猥雑な空間に閉じ込められる。ここまで主人公が画面の中に一文字に横たわっているのも珍しいだろうというぐらいに、常に寝かされたエマニュエルは、ワンシーンフィックスワンショットの様式美(レンブラント『テュルプ博士の解剖学講義』のパロディまで!)の中にまで閉じ込められ、時間感覚すら曖昧になる隔絶された空間で身動きが取れないまま濁流に飲み込まれていく。患者の声やラジオ放送で聞こえる鉄衛団(極右反ユダヤ主義)の躍進、街中で"ユダ公死ね!"という叫び声を聴いたエピソード等々、エマニュエルの緩やかな死は同時代に対して暗示的だ。

しかし不思議なことに、適当な医師や患者たちの下品な雑談に参加する看護婦たちを筆頭に、病院内の雰囲気は意外と明るく、死の匂いを感じるからこそ(実際に近しい"プロ患者"が亡くなる瞬間もある)生を謳歌しているようにも見えてくる。享楽主義というより、"治るよ!"と無責任に言い続ける医者に見えるような楽観主義に近いように感じ、それは先述の加速する反ユダヤ主義、そして現代において加速するポピュリズムと密接に結びついているように思える。いつものことだろうと楽観的に放置してしまったが故の結末。

また、エマニュエルはソランジュ(フランス語で"太陽の天使")という女性と出会う。彼女は元患者で、完治した後も右足に歩行補助具を付けながら病院で働いている。本作品の中盤は二人の関係性の発展を中心的に描いているが、彼女の存在は名前が示す通りエマニュエルにとっての希望そのものである。翻って、エマニュエルは同じサナトリウムの患者イサベルにも恋し、ソランジュを想う傍らイサベルにも言い寄る。イサベルはソランジュと対になるように配置され、両者がエマニュエルを救うことが出来ないことをグロテスクに導いていく。

『魔の山』は主人公カストルプが第一次世界大戦に参加するために山を降りて終わるが、本作品も手術のためにサナトリウムを出て終わる。そして舞台は現在に移り、ブレヘルの墓を含めた手入れされていないユダヤ人墓地が映される。その墓の後ろには、後にジュデが『The Exits of the Trains』で描くヤシ市から強制輸送されたユダヤ人たちの墓が無造作に建てられていて、その事実こそが本作品の重要性を物語っているように感じた。

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・作品データ

原題:Inimi cicatrizate
上映時間:141分
監督:Radu Jude
製作:2016年(ルーマニア, ベルギー, フランス, ドイツ)

・評価:100点

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