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瀬田なつき『違国日記』大人になるということ、自分だけの孤独に向き合うということ

大傑作。瀬田なつき長編五作目。原作未読。なので、笠町、森本、三森など絶対に面白そうなエピソードがありそうなのに匂わせ程度で終わっていた人たちも、原作では映画におけるえみりくらい補足されているんだろうし、他にも面白い人が未登場なんだろうなとは思うが、他者の"絶対的に理解できない何かを肯定"しながら寄り添い合う人間を描く本作品において(『ドライブ・マイ・カー』でも似たようなことを書いたことを思い出した)、これらの人物が映画内で遠くに感じることもそれなりに意味があることだと思えた。人には人の孤独と絶望があるんです、と。映画は冒頭から見事で、あっという間に"普通の"人生から脱線してしまう様を、落ちていくアイスで表現している。アイスの落下は、後にマグカップの落下で繰り返され(或いは呼び起こされ)、最終的には花束を"置く"ことで、落下によって発生した物語にケリをつけていた。落下と共に両親の呪縛となるのは、振り返ることと鏡である。卒業式の日、町を歩いていた朝は三度振り返るが、それは母親の気配を感じてのことだった。それ以降、朝は回転はするが一度を除いて振り返ることはせず、自分の中にいる母親と対話するために鏡を覗き込む。彼女が振り返るのは、えみりが家に来たときで、朝が振り返ると、そこには二人を覗いていた槙生がいた。この瞬間に、朝には"帰る場所が出来ていたんだなぁ"と感じて泣いてしまった。また、鏡に関してはリビングにある姿見が不自然にも写り込む瞬間が幾度となく訪れる。基本的にはソファの後ろにあるが、えみりが来た際は(掃除した関係か)テレビの横に移動しており、また同じ形状の姿見が朝へのノートを手にして帰宅した槙生の部屋にも登場している。その多くの場合で服が上から掛けられていた。槙生が自分自身と向き合いきれていないことを示しているんだろうか。あと、撮影が四宮秀俊だからかダイナミックレンジの設定を間違えたのか、室内から見た屋外が異様に明るく真っ白に輝いていた。しかも、特に朝の家と体育館のシーンでは、ありえないところで光が反射して、ありえないところから光が降ってきていた。ある意味で"外界"に手招きするような希望が差しているようでもあったし、それが本人の意図しないところから飛び出してくることもあるのだと。『5windows eb(is)』の、あの反射を思い出した。あれは瀬田なつきにしか出来ない。撮影に関連して、後半の公園や海辺のシーンにて、フレームに入れない人物の追い出し方が非常に上手かった。特に海辺のシーンで槙生がスッと画面から出るとこは、朝が自分だけの感情に自ら向き合っているというシーンで、槙生の言葉通り"誰のものでもない"瞬間を切り取っていた。

作中で朝は大人に対する偏見を語る場面が幾つか存在する。原作未読なので既に結論が描かれているのかもしれないが、映画を見る限り大人と子供の線引は主体性にあるのかなと。最初の頃は今日の夕飯?なんでもいい!と返していた朝が、ギターストラップをピンク色にしていた(校則で髪は染められなかったのだろう)など、細やかな変化が描かれていた。

・作品データ

原題:違国日記
上映時間:139分
監督:瀬田なつき
製作:2024年(日本)

・評価:90点

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