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小説『あまったれH』/極秘作戦フィールドマニュアル。

■ 前書き(能書き)
映画『96時間/リベンジ』のブルーレイを視聴した。
元諜報員の主人公が犯罪組織と戦う話だ。
特典映像に「極秘作戦フィールドマニュアル」なるものがあり、本編と並行して物語の背景となる設定や情報を紹介しているのが面白かった。

こういうの、私もやりたい!
そう思って後悔……じゃない、公開したのが、小説『あまったれH』だ。
過去に書いたものの中から、無駄な解説をブッコミ易そうな作品をチョイスした。

したがって、本記事のタイトルの副題には何の意味もない。
本当なら、
極秘作戦フィールドマニュアル(笑)
と、してしまいたかった。しかし、(笑)は誘い笑いになるので使いたくなかった。誘い笑いでスベったら立ち直れない。

とにかく、この記事は、映画のソフト版において監督が副音声で解説を挿むタイプの特典映像と同じ意図のものである。
小説『あまったれH』本編にスキをした数人の酔狂な方にさえ望まれないことを今から長々とやる。完全に私の暇つぶしである。
ちなみに、私はこれまでnote記事は「です・ます調」で書いてきた。
が、今回は「だ・である調」を用いる。
単にその方が解説っぽいからである。
『あまったれH』というタイトルはお気に入りだ。
個人的にタイトルはシンプル・イズ・ベストだと思っている。
どういう種類の話か分かること、その点においてこのタイトルは役目を果たしているだろう。
更に、興味を引くだとか、印象に残るだとか、そういうタイトルをつけられたらなお良かった。
Hは、主人公・陽菜の頭文字でもある。
あまいエッチと、あまったれた青春の話である。



下ネタ注意!!
本編の冒頭にこんな注意書きを入れたくはなかった。
しかし、私に残された僅かな良心が注意書きを書かせた。
こんなもの書かなくても本編冒頭の数行を読んだだけで下ネタにアレルギーのある人は全身にじんましんが出てページから離れただろうに。



さあ、ここからが本編である。


 彼のえっちって、めちゃくちゃすごいの。
 日曜日なんか目が覚めたと思ったらくちゅくちゅされて。それも、とっても優しいのね。冷え込んでるとあったかいお布団から出たくないし、頭の中があまい幸せでいっぱいになって、一日中だってこうしていたいって思っちゃう。

この冒頭はいかがだろうか。
若く、内向的で、軽蔑されるべきスケベな作者の姿が透けて見えたらごめんなさい。ちなみに本作を書いたのは私が二十代前半の頃である。

小説的に真面目なことを言うと、物語を通して主人公はある心理状態に落ち着くのだが、主人公をその状態たらしめる軸となる感覚を冒頭に書いた。
性欲と恋愛感情は切っても切れない(特に若いうちは)。そして、性的充実は紛れもない幸福の一つの形であり、その幸福を信じて人生の重大な決断を下した読者も多いだろう。
これが要するに本作のテーマに当たる。テーマに関連する文章を冒頭に持って来るのは小説の定石である。

それから、下ネタを用いる作品である以上、早い段階で読者をふるいにかけたかった。
「これはこういう話だぞ」と宣言すること――それは読者に対する礼儀でもある。
そして宣言したら貫く。ジャンルは首尾一貫が原則だ。例えば、ラブロマンスかと思いきや、後半の別れ話で一転、恋人がストーカーになってサイコスリラーに早変わり、ではいけない。

冒頭の一文は、レンタルビデオショップの健全な棚とアダルトコーナーを隔てる「R18」の簾に当たるものだ。
《彼のえっちって、めちゃくちゃすごいの。》は、私なりの簾だった。

 彼とつき合うようになってから、私毎日が素敵なの。それまでの私なんて死んでるのと変わらなかった。短大を出てOLになってみたけど、私って愛想が悪くて気は利かないし、要は女として使い道薄いのよ。

愛想と気遣い――女性は男性以上に求められていると思う。

 お給料も少なくて奨学金の返済もあるから毎月家計はきっつキツ。地方なのに車はもちろん原付だって持ってないの。自転車よ、自転車! 中学生かっての。実家に住んでれば少しは楽なんだろうけど……親とは折り合い悪くてね。無理してでも独りで暮らしてる。

高等教育を修了して社会人になっても思ったほどの所得を得るに至らず、奨学金返済によって生活がひっ迫する若者は多い。

 別に独立心が強いってわけでもないから、自分で言うのもなんだけど幼稚なの中身は。その証拠に、ハタチになるまで大人ってもっと自由で楽しいものだと思ってた。お金ってなかなか稼げないものなのね。おしゃれに気をつかったり、合コンへ繰り出したりするにもお金が必要。おかげさまで結婚に夢見るような女にはならなかったけど、将来に悲観的にはなれた。だって想像ついちゃうのよ。自分の性格とか仕事とか考えたら、十年後や二十年後のことなんか。

事実上、女性は化粧することがマナーとされる場合も多い。生活がひっ迫する人にとって、こうした出費も軽視できるものではない。
未来が想像できることは安心感にも繋がり得るが、その未来が本人を満足させるものでない場合、遣りきれない退屈・倦怠感に繋がる。
今の日常に不満を抱く者が今と大差ない十年後を想像してしまうのは苦痛でしかない。
若いからこそ「変化すること」を勘定に入れて、未来の姿を不確定なものとしてそれに期待でもできればいいが、二十代前半でそんな風に冷静に達観するのは困難である。

 こんなだから私、どこか自分で幸せになるチャンスを避けてたように思うの。そりゃお金はなかったけど、これでも見た目は悪くないのよ。顔はまあ、中の上だと思うし、おっぱいだっておっきいの。お肌もぷりぷりだし、恋愛を楽しむくらい、若さを武器にすればどうとでもできたわけ。ありきたりの充実を追いかけることができなかったわけじゃないの。でもそんなの厭だった。そんなんじゃ自分に自信が持てなかった。自分に自信を持つって、大切でしょ?
 納得のいく自分になることが先決だと思ったの。ありのままの自分を愛してほしいなんて進歩のない考えよね。自分が好きになれない自分を仮に愛してもらっても、それってあまやかされてるだけだもの。

作者の私は男だが、女性であればこそ「幸せは男性次第」といった考え方に反発する人も少なくないと考えた。
その気になれば相手はすぐに見つけられるだけの容姿を持っていても、誰もがそれを活かした生き方をするわけではない。
私は高身長で、昔からよく「その体格でスポーツしないなんてもったいない」と言われて不愉快だった。
美人の女性が「美人なのに恋愛や結婚に興味ないなんてもったいない」とでも言われたら相当腹が立つだろう。
主人公が「とにかく受け入れてもらえればそれでいい」といった種類の恋愛主義思想について、この時点では「あまやかされているだけ」のものと認識していることは、この物語において重要な意味を持つ。

 毎日退屈でふさぎこんでた。仕事が思うようにいかないんだもの。私、軽い吃音でね。電話対応がダメだって、ちくちく叱られてばかりだった。周りはまあ悪い人たちじゃないんだけど、いつも辞めたいって思ってたの。そのくせ辞める度胸も勢いもなくてね。

文学ではなぜか「吃音」を弱みとして設定された登場人物が頻出する。
本作では主人公に「仕事上不都合な」弱みを設定する必要があったので、私も吃音をチョイスしてみた。ADHDなどと比較して描写しやすく、読者にも理解し易いという利点がある。

 アパートに帰っても独り身の生活を楽しむことさえできなかったの。中学のときからこんな実家出たい出たいって思ってて、やっと出てきたっていうのにさ。悲しかった。今月をしのぎ切るって、そんなこと考えてばかりなんだもの。ときたま料理の腕を磨こうとか、英語でも勉強しようかなんて思い立つけど、結局長続きはしないよね。
 こんなんで自分に自信、持てるはずないでしょ? このままだらだらと歳を重ねるだけなんだって思ったら、自殺まで考えた。近所に気持ちのいい河原があるからよく散歩するんだけど、その途中で車に轢かれたり、通り魔に襲われたりするのを想像すると、私のために泣いてくれる友達とか親とかを思って涙が出るの。ちょっとだけすっきりするのよ。死んで偲んでもらおうなんて、虫のいい話だけどね。

思春期の頃の家出願望や自立願望は珍しくないと思うが、それを成人するまで(なんならそれ以降も)持ち続ける人はどれほどいるだろうか。
私は持ち続けたクチである。
高校卒業後の進路に就職を選んだ同級生が、
「家から近くの会社がいい。実家を出たくない」
と語っていて大変驚いたことをよく覚えている。
私の死生観について事細かく書いていたらキリがないのでやめておくが、私も自殺について考えたことがある。断っておくが「自殺しようとした」のではなく、「選択肢としての自殺」を考察したという意味だ。
鶴見済 氏の『完全自殺マニュアル』は今も本棚にある。

 私が十七八の頃だったかな。全国のお見合いイベントに参加しまくってる女がテレビに取材されてたの。そのときは哀れな女、とか思って見てたんだけど、ハタチ過ぎてその女の気持ちがなんとなくわかっちゃった瞬間があって、はっとさせられちゃった。日々に閉塞感があると心機一転したくもなるよね。「新しい恋人と新しい土地で」なんて、まさにキャンバスを真っ白に戻すようなことだもの。憧れる。最高の絵を描くのに夢中になってたら、最高につまらない絵に近づいてたって、なかなか気づけなかった女の気持ちよ。

お見合い番組に参加しまくっている女は、ナインティナインのお見合い大作戦というテレビ番組を参考にしている。
日本各地でお見合いイベントを行うこの番組。毎回開催地が違うものの、日本全国から女性の応募がある。それに繰り返し応募している女性が現にいた。
「北から南まで住む場所はどこでもいいからとにかく結婚したい」という執念はあっぱれである。
その女性は二十代前半、工場勤務というプロフィールだった。
現住所ではよほど出会いがないのか。都心に移り住む資金を稼ぐにも苦労するのか――。
彼女の現状を勝手ながら推察してみると、噛んでいるうちに甘くなる白米の如き魅力を私はこの番組に見出した。

 私の絵の中に彼が飛び込んできたことは、本当に運がよかったとしか言いようがないの。どうにも直しようのない絵が急に輝いて見え出したんだもの。これは奇跡ね。私は努力したわけでも意識を変えたわけでもないの。ただ愛ってものがどういうものか、これまで知らずにいただけだった。
 彼とは友達の紹介で知り合ったの。言っとくけど私から頼んだわけじゃないからね。元彼と別れてずいぶんたってて、フリーの男知ってるけどって話の流れで、まあ別に会ってもいいけどって適当に答えてたらそうなったの。女友達に女紹介してくれなんて言うヤツは好みじゃないから期待してなかった。後から聞いた話じゃ向こうも乗り気なわけじゃなかったみたいだけどね。
 私っていつなんどきも男がいないとダメなタイプじゃないでしょ? 惚れっぽいわけでもないし。でも案外、食事会で初めて彼を見たとき、ちょっといいかもってすぐ思ったの。なんだかんだ彼女募集中の男ってがつがつしてそうなイメージあるじゃない。それをいい意味で裏切られたのね。優しそうで、ちょっと頼りなさそうな雰囲気までそのときの私には好印象だった。第一声に「初めまして孝(たかし)です」とか言ってちょっと頭下げてさ。最初の三十分くらいは見た目通りの大人しいヤツだったけど、お酒が入るとにこにこし出してね。こうなると饒舌なの。けっこう飲むけど酒癖は悪くないのよ。遊びに夢中になってテンション上がっちゃってる子どもみたいだった。でもたまに我に返るらしくて、うつむきながら鼻をクイクイって触るの。「はしゃぎすぎたかな?」テヘッ! みたいな感じで反省してるのかな、なんて想像したら可愛く思えた。
 結局、連絡先は私のほうから聞いたんだ。どっちかっていうと私もそういうの待ってる側の人なんだけどね。私と彼がうまくいってるらしいってわかって、友達も気をよくしたみたい。根が世話好きの女なのね。人を幸せにしてあげたいって思うのか、それとも他人事を傍から楽しみたいのか、いずれにせよ気持ちはわからないでもないの。こういう人が一人くらい周りにいてもいいよね。
 この友達が彼に「陽菜のこと送ってってあげなよ」とか言うから、二人で駅まで歩いたの。十一月の夜風に当たって酔いが醒めちゃったのか、彼はまた無口だった。私もいたずらにお喋りするような野暮はしなかったよ。ベタな話になるけど、沈黙が苦痛じゃないっていうのはいい恋の証よね。歩きながらそんなこと考えてた。
 私、彼がどんな表情してるのか何気なく横目で探ったの。そしたらさ――ああ、もう彼、アソコおっきくしてるの! 笑いも軽蔑もないよ。あんまり予想外だったから思考が停止しちゃった。緩い感じのボトムスだったからぼこっとしてるのが丸わかりなの。こういうとき不思議と視線って外せないものなのね。でも彼に気づかれてもいけないから私、うつむきながら鼻をクイクイ触ってごまかしてた。なんだか熱くなっちゃった。男の人って普段から不意にえっちなこと考えて勃起したりまた縮んだりさせてるらしいから、女性と二人でいるときにそうなっちゃうのはむしろ自然……てことよね。非難するようなことじゃない。うん。勃起がいけないんじゃなくて、女の子を傷つけるのがいけないんだもの。私、別に傷ついてないし。うん。

デート中の勃起は私も経験がある。
血気盛んな男性は固い生地のボトムスがよろしかろう。
つい先ほどまで落ち着かせるのに必死だったのに、ベッドの上で急に元気をなくすのが本当に不思議である。
男性が(私が)女性に幻想を抱いている証拠だろうか。

 あからさまに勃たせてるくせにホテルに誘う素振りがないってところがいかにも彼らしい振る舞いだと思った。結局そのまま家に帰ったんだけど、私……ちょっと酔ってたのもあるかな。頭から離れないのよアレが。なんかムラムラしちゃって。普段はオナニーなんて月に一二度ふと思い出したようにする程度なんだけど、元彼と一緒に買ったローターまで使って没頭しちゃった。もちろんこの場合、彼に強引に迫られるところを想像したよ。十分もしないでイケちゃった。幸せだったなあ……。性行為で幸福感を覚えたのなんか、初めてだったかもしれない。最初の彼のときだって、そのときは好きだったし、えっちしたいって思ってしたけど、あれはえっちなことしてるってことに興奮してただけね。理想のセックスって十代の頃とは違ってきてるし、オナニーも歳を取ると絶頂より過程を楽しむようになる。心の芯まで充実感に浸って、普段より穏やかで心が広くなってる自分を楽しむの。「よし! 明日からガンバロウ」って、驚くほど素直に思えた。

アダルトショップへ行くとカップルがいるのは珍しいことではない。
だが女性がアダルトグッツを買うのは大抵ネット通販と思われる。
元カレと買ったのか、ネット通販で買ったのか、些細な設定の違いではあるが、それ次第で主人公の印象が微妙に変わる。
気軽な恋愛について、私は主人公に《ありきたりの充実》という風に言及させたが、主人公にも《ありきたりの充実》に浸った過去はあるのだ。

 次の朝は化粧にも気合が入っちゃった。なんかファンデも抜群にのるしさ。別に彼に逢うってわけでもないし、ただの仕事だったんだけどね。でも夕方になったら彼にメールしようって心に決めてたの。万が一彼が勃起に気づかれたのを悟ってて、私によそよそしくなったら悲しいもの。たったこれだけの楽しみなのに、もう気分がよくて仕方がなかった。私、彼に惚れたのね。

化粧を文学的に、精緻に描写するのは女性作家の領域だろう。私にはできない。
文学ではないが、化粧と女性、と言えば私はこれが思い浮かぶ。
さしてドリカムのファンではないが、一時期この曲だけはなぜか繰り返し聴いていた。

 それなのに……その日の午後始めだった。総務の課長と、何かと私の面倒見てくれてた女の先輩に呼び出されたの。小さい会議室に三人きりよ。怒られるんだってすぐにわかった。案の定、「しっかり電話対応させろ」って客先からクレームが来てるって言うの。営業が得意先回りしてると、特に年配のお客さんから話題にされるんだって。私、悔しくて涙が止まらなかった。「どうにかしなさい」って、そんなこと言われてもどうしろっていうの? 私がどもり始めたのは――少なくとも自分の吃音に気づいたのは会社に入ってからなの。外じゃ全然ならないのに。最初は「緊張のせいかな」くらいに軽く構えてたんだけど、入社して四年たっても治らないなんて思ってもみなかった。私だって時間が解決してくれるのをただ待ってたわけじゃないのよ。いつも電話に出てすぐの会社名を言うところでつっかえちゃうから、そこのところを何遍も繰り返し言ってみたり、朝起きてふと気づいたら「吃音」でググってた休日もあった。それで一日終わっちゃって、寝たらまた会社って、これが生きるってことならなんで生まれてきたんだろうって考え込んだりして。こうなるともう何もかも厭になる。惨めな気持ちになるばかりなんだもの。人間追いつめられると、誰かに認めてもらいたいとか、受け入れてほしいとか、死に物狂いで救いの手を求める悪魔的欲求に気づくの。これが満たされない内は、何もならないのよ。何も……。

悩むことだけで終わってしまう一日……これは誰にも経験があるのではないだろうか。

 いつか〈ようつべ〉の名言集みたいな動画で「情熱とよばれる情念の大半には自己逃避が潜んでいる」なんて言葉が紹介されててなんとなく共感してたんだけど、今なら酷く共感しちゃう。ほかの生き方を模索することに私も情熱を燃やしたの。というか燃えちゃったの。要は極力電話対応をしなくてもよさそうな仕事よ。高校生の頃にファミレスでバイトしたことはあったから、接客なら大丈夫かもしれない。アパレルのショップ店員なんか聞こえはいいけど、私ファッションに言うほど興味もセンスもないしな。オススメとかわかんないよ。資格とかないから、ほかにできそうなことって言ったら工場のパートとか? どれも生活するには苦しそう。今だって限界まで削って生活してるのに。実は彼と知り合った食事会のときだって、電車賃とか痛かったんだから。

《情熱とよばれる情念の大半には自己逃避が潜んでいる》とはよく言ったものである。
確かに、何かに情熱を傾ける時、その人は現在の自分とは別な自分を目指して移動していると言える。それは現在の自分からの逃避に違いない。
この自作解説の記事など自己逃避の極致である。泣けてきた。

ちなみに、これはエリック・ホッファーの言葉らしい。
らしい、というのは、私自身この文言が記述された書籍を実際に読んだことがない。
google先生によれば以下の本に登場する文言、らしい。

 夢って呼べるものがある人は、きっと夢に走るんだろうね。芸術で食べていこうとか、趣味をお金にしようとか。私にはそれほど熱中していることさえないの。何か新しいこととか、新しくなくても今までやってきたことをより深くとか、そういう方向に本気になれればいいのに。――いいのに、で終わっちゃう辺りが、自分で笑えちゃうね。これが私っていう女なんだ。
 母親って不思議なもので、このタイミングで電話をかけてきた。私はね、親への不満とか不快とか、昔から表に出すことはほとんどなかったの。だから向こうは比較的気楽に連絡してくるわけ。相談相手とか将来像とか考えるとき、両親のことなんか微塵も頭に過ぎらない私なのに、こうして声を聞くと心を落ち着ける自分が確かにいるの。そしてもう死んでしまいたいとか、どうにでもなれっていうヤケな気持ちがみるみる萎んでいく。どんなに距離を取ろうとしても、この人に育てられたっていう事実が頭に染み込んでるのね。嬉しいような、苦しいような、怖いような、愛の呪縛だね。

後々描写もあるが、主人公は実家を居心地いいと思っていない。親に対しても冷たい。少なくとも母の日や父の日にわざわざプレゼントしたり電話をかけたりはしないタイプである。
それでも、親の声というのは響く。これは刷り込みであり、呪縛である。
松本人志 氏の《久しぶりにオカンに電話した。》で始まるツイートも、こういうことだと思う。

 電話を切って、さてどうしようかなって思ったら私、彼にメールしてた。このままめそめそ眠りについたって、明日が来るだけなんだもの。もうテレビを見るのさえうんざりって心境だったけど、自分を少しでもいい気持ちにさせてくれそうなことを考えたら、彼へのアプローチしかないと思ったの。要するに男に走ったのね。頭の中では彼がどんどん魅力的な、というより私にとって都合のいい男になっていった。顔はいくらかカッコよくなってるし、まだよく知らないけどきっと稼ぎがよくて、優しくて、結婚願望が強くて、私を選んでくれて、子どもと夫のために尽くしていればそれで私の全てを認めてくれる。もし世間が私の生き方に苦言を呈したって「関係ないよ」って言って抱き締めてくれるの。いや違うね、むしろ世間がそんな生き方を称賛してくれるの。惨めな気持ちから逃げ出したい一心が、結果的に世間の称賛の声を呼び込むの。……そう思いたくて、そう信じた。実際のところ、仕事を替えるより余程現実味のある明るい将来像だったしね。

《子どもと夫のために尽くしていればそれで私の全てを認めてくれる。》――事実、こういう時代もあっただろう。こういう生き方しか選べなかった時代があった、と言うべきか。
そして、こういった「常識」や「価値観」に切り込む文学も昔からあった。
石川達三 氏の『幸福の限界』は印象に残っている。流石に半世紀以上も昔の作品なので、ジェンダー平等が(十分とは言えないにしても)進歩した現代人からすると、「女性」の描き方は一部冷笑ものであるが、昭和を描いた一種の時代小説として読めばいい。
絶版ではあるがヤフオク等で手に入るとは思う。興味のある方は是非。

 メールの返事はすぐに来たの。文面には彼の好意が滲み出てて、光明が射すとはこのことか! なんて思った。溺れる私が藁を掴もうとしてるところを、彼が大きな浮きで一気に引き上げてくれたってわけ。少なくとも気持ちは軽くなったの。この強運がある意味、このときの私にとってはほかでもない、自信になってくれたのよ。私は救われるんだっていう、根拠のない自信だったけどね。
 相変わらず仕事はやったよ。いい大人がベソかいたところを見ると、流石に二日連続で説教垂れる気は起こらないらしくて、それから何度もどもったけど何も言われやしなかった。プライドだって傷ついたし周りの目も気になったけど、家に帰ってからのメールとオナニーで少しは忘れられる程度のことだもの。なんとかなる。でも会社からの帰り道は、三十分も自転車をこぎながら三十分も惨めな思いに胸を痛めてた。空を見上げてさ。綺麗だよね、冬の星って透き通ってて。南の空に三つ並んだ星を毎日探してた。アパートに着いちゃうと終わっていく今日との闘いが始まるから、こうして無意識に空なんか見上げちゃう時間も私には、案外必要なのかもしれなかったね。
 玄関の扉を開けたとき、そこに自分の全てを受け止めてくれる人がいたらどんなにいいだろうって思った。外での私なんか本当は全部架空で、その人といる私だけが本質の私なの。事実、きっとそうなのよ人間って。でもそうじゃない人って私のほかにもたくさんいる気がする。架空の自分ばかり気にしている人が。外の私なんかぜーんぶ絵空事! だからどうだっていいの。そう思わせてくれる誰かが、私の帰りを待っていてくれたら……。
 これまで私の思考とか想像にパートナーの存在が入り込むことはなかったの。いつだって「独り」が前提だった。それがね、彼と出会ったことで「誰かと私」に切り替わったの。鮮やかなまでの方向転換と言っていいね。世界中に情けないダメ男しか残っていないとしても、自分がその中の誰かと生きていくことを疑わなくなったんだから。

私はこの主人公のように「家で待っていてくれる存在」を欲したことはない。
だが、独り者の私がパートナーを持つことの良さを推察すると、「内(プライベート)の世界と外(パブリック)の世界の差別化の進行」は少々魅力的だ。
人が毛色の違う二つの世界を持つことは、一種のリスクヘッジになる。
内と外とがむやみに影響を及ぼし合わないのであれば、だが。

 こうなると、そりゃ急に男が目につくようになるよね。それもセックスを意識して見てるの。人生初の感覚だった。これまでだって容姿とか男らしさとか気にしないわけじゃなかったけど、要は小さい女の子が白馬の王子様に憧れるような、そういうこだわりに過ぎなかったの。私にとっての恋って、所詮は夢物語だったんだって気づかされたわけ。夢から覚めて地に足をつけた恋に向き合うと、この人はどういうふうに私を抱くだろうとか、意外と意識がいっちゃうのね。熱心に出会いを求めて男の子と簡単に寝る子なんか、今までは「そんなに寂しいんかい」とか思って見てたけど、なるほど男ってものが性的に映ると本能的にそれを渇望する感覚がわからないでもなかった。私って比較的真面目だったんだ。出会い系とか、そういう話を聞いてもどこか別世界の物語みたいに感じちゃうはずだよね。
 ずいぶん長い間、私にとってほとんど道端の石ころに過ぎなかった男たちにも、ピンからキリまで色々あるって再確認していったの。魅力的な恋愛ドラマの俳優が魅力的に見えて、内容そっちのけでただ眺めてるだけでもちょっと幸せだったり、その次の朝、コンビニで男の店員をまじまじと見て現実に落胆したり。すれ違う男のランニングウェアの上からでもわかる引き締まった体に、どきどきしてみたこともあった。ああ、大きい男の人。あの腕に包み込まれるように抱かれて、よしよしされて、がさつに揉まれるのも悪くない。絶対乱暴しないでよね。優しくされたいなあ。ああ!

男性は女性の胸や尻をつい見てしまうものだが、血管フェチであるとか、手や腕の筋が好きとか言う女性がいるのだから、女性もある程度は男性の肉体を品定めしているに違いない。そうに違いない!

 二週間くらいして彼からお誘いがあったの。向こうもかなり前向きに考えてくれてたんだね。メール読みながら私、携帯をババ抜きの手札みたいに両手で持ってニヤケ面だった。ちょうど生理が終わったばかりのべストコンディションで週末を迎えたの。初めてのデートでそんなことないだろうと思いつつ、そうなった場合も恥ずかしくないように最高の下着をつけて行くのが乙女のたしなみだよね。どうせいつかは抱かれるんだからさっさと抱かれたい、とかいうわけじゃないんだけど、もし半ば無理やりに抱かれたとして、それでも女としての見栄だけはちゃんと張っていたい気持ちってあるの。女はいつだって女でいたいのよ。たとえ地獄の底だって化粧ポーチは手放せない。なんのためとか誰のためとか、そんな打算から来るものじゃないの。理屈じゃないのよ。『星の王子様』に「これが私の仕事ですから」とか言って一分毎に街灯をつけたり消したりする男が出てくるけど、それに近い矜持だと思ってほしい。

別に男のために化粧してるわけじゃねえんだよ!
――ということである。
人の行動は他者への働きかけのためだけにあらず。
努力やこだわりの行き着く先が自己完結であっても文句を言われる筋合いはない。
『星の王子様』の一場面を引き合いに出したことは今読み返してみると的外れな気がする。反省。

 とりあえず小洒落たパスタ屋さんだった。ゆっくりランチしながら、彼とお互いを語り合ったの。自由恋愛には違いないけど、始まりってお見合いみたいなものよね。ほら、子どもの頃は例えば学校で普段の様子って垣間見られたし、お互いに語るまでもなく知り合って、仲よくなったり、好きになったりしてたでしょ? 公私なんてあってないようなものだし。そうして人となりがわかるじゃない。それが大人になると特別な儀式が必要になるのね。知り合った人を――なんて言うのかな、ドキュメンタリーじゃなくてストーリーから見極めるって感じ。難しいことだけど、おかげで助かる部分も大いにある。だってドキュメンタリーの私を見て惚れる男なんか、いないだろうからさ。

過去を掘り返せば必ずストーリーになる。
ドキュメンタリー風に演出することはできても、過去の出来事は全てストーリーである。
したがって、恋愛の始まりはストーリーの語り合いである場合がほとんどだ。
「今」や「実情/実状」に焦点を当てて初めてドキュメンタリーを見せることができる。あるいは見ることができる。
大抵は結婚して初めてドキュメンタリーに至る。
結婚前にドキュメンタリーに至り、それを見た上で結婚した方が離婚率は低くなりそうだ。

 前は友達も一緒だったし、彼とはまだ大した話はしてなかったの。流行りのアイドルグループじゃ誰が可愛いとか、要はその程度の話。でも今度は男として――顔がどうこうじゃなくてね、暮らしが成り立つかってことを探りたかった。「独り」が前提だった頃は、そこそこの容姿とお喋りなくらいの陽気さがあれば恋にできたの。その先にある将来なんて考えなかったから。色恋なんてものはちょっとした風邪みたいなもので、自力で治せる、私だけの問題だった。でもこれからは違うの。恋の先には将来の暮らしがあって、相手とよく相談しながらつき合っていかなきゃならない大病なの。どうか不治の病であれ!
 彼もそういうところ、私と同じに考えてくれてるみたいだった。まあ、もうじき二十八になるっていう男だしね。それとなく結婚願望を探ってみたら、「結婚したい」ってはっきり口にしたの。これを聞き出すにはちょっと神経つかったよ。だって、あまり結婚だの将来だのギラギラしてると、そりゃ嫌われるだろうからさ。
 彼って見た目は頼りない系だけど、流石にアラサーだけあって私みたいに気持ちがバタバタしてないの。会社で厭なことありました、バタバタ。親に小言を言われました、バタバタ。私って他人より惨めー、バタバタ。こういうことって、彼にもあると思うのよアラサーだからって。私だけの悩みじゃないってことぐらい私にもわかってる。それをなんて言うか、諦観できてるのね彼はもう。私は所詮、自分が大好きだから、男がほしいって言っても他人事で頭抱えたくないの。悩まされたくないの。不快にされたくないの。相手にバタバタされたくないのよ。岩のようにどっしり構えて、ただ私を包み込んでほしいわけ。その点、彼は御影石。上等な日本庭園にあるでっかいヤツ。だけど私は、隣の古池に飛び込む貧しい蛙に過ぎないの。御影石に寄り添うつもりなら、杜若の花にならなくちゃ。私は立派な杜若になりたい。――なりたいじゃダメか。なる!

《他人事で頭を抱えたくない、悩まされたくない、不快にされたくない。》
大事なことなので抜粋した。
主人公が恋愛に熱心じゃないことも実家が嫌いなことも、全てはこの心理に原因がある。
御影石の件は、ほどよく意味不明である。つまり当時の私としては大変お気に入りの部分であった。
ここまで砕けた口語文体なのだから、このくらいのノリがあってもいいだろう。

 彼への好意が確固たるものとして大きくなるほど、たらこスパゲッティをもぐもぐしてる彼の唇をじっと見つめちゃう私がいたの。いつかセクシーなテレビタレントが「男女での食事は前戯」みたいなことを言ってたのを思い出して、ますますそんな気分になっちゃった。食欲、睡眠欲、性欲という三大欲求があって、「一緒に寝ましょ」とか「一緒にえっちしましょ」がエロいんだから、「一緒に食べましょ」も確かにエロいことなのかもしれない。きっと私、モノほしげな女に見えてたんだろうね。別れ際だった。唐突に唇を奪われたの。私のアパートの前、日曜の昼、3P.M.

《男女での食事は前戯(みたいなもの)》発言については、私の記憶の限りでは杉本彩 氏や、ビートたけし 氏が言っていた。
《日曜の昼、3P.M.》の件は、『水曜の朝、午前3時』からの言葉遊び。
ちなみに『水曜の朝、午前3時』はgoogleで検索すると蓮見圭一 氏の小説『水曜の朝 午前三時』が上位にヒットするが、元ネタはポール・サイモンの楽曲 "Wednesday Morning, 3 A.M." である。
私は十代でポール・サイモンの『母と子の絆』を聞いて彼に夢中になったという希少種のため、蓮見氏の小説より先にポールの楽曲の方を知っていた。
蓮見氏の小説も既読で、大変完成度の高い恋愛小説と思うので興味のある方は是非。

 十代の頃ならこういうキスに、どぎまぎするか、そうでなければ下心なんかを感じ取ってたかもしれない。彼が十も二十も離れた男だったら、私が手のひらの上で転がされてるだけだったかもしれない。でも今度のはそんなんじゃないの。あれは、「俺はお前でいくぜ」っていう彼からの宣戦布告だったし、私も「受けて立ってやろうじゃないの」って見つめ返した、そういうキスだった。
 カラカラカラカラ安っぽい音がするアパートの外階段も、いつもは仕事終わりの惨めな気持ちを最高潮にしちゃう厭味なBGMなのに、この日ばかりは天使愛用のイングリッシュハンドベルって感じの耳あたり。一歩上がっては足を揃えて溜息ひとつ、ゆっくりゆっくり、口角がきゅっと持ち上がっちゃうのを堪えようもなくて、言い知れない嬉しさがおっぱいの底で爆発するの。いいウイスキーをショットグラスでぐっといったときみたいにカーッと熱くなってさ。――なんか友達の家で飲ませてもらったときのこと思い出しちゃった。でもあんなの自分じゃとても手が出ないしな……。今夜、美奈子ん家にお邪魔しようかな。
 そういうわけで電話してみたら彼女、二つ返事で承知してくれたの。美奈子っていうのは私に彼を紹介してくれた子ね。私に勝るとも劣らない美人で――ふふ、まあ、私より明らかに美人か。女として堅いとは言い難いけど、気持ちのいい子だから高校時代からずっと続いてるの。股が緩くたって友達付き合いには関係ないしね。そんな彼女だけど私の彼にはノータッチだったみたい。曰く「危険な香りがなさ過ぎる」そうで。でもこれは八割方建前ってわかってるの。直截に言っちゃえば彼の収入が美奈子のお眼鏡にかなわなかっただけ。これはもう少し後になってから知ったんだけど、彼は年収三百二十万なの。しがない測量技師じゃ満足できない女なのね。彼女の家を見ればそうだろうなと思う。エントランス、エレベーターつきオートロック、駅近、新築、3LDK。二十四五の独り身女が住むような部屋じゃない。でも実家が金持ちのお嬢様かと言えばそうでもないの。家庭環境としては私なんかより遥かに苦労してきた子なの。ハングリー精神はあるよ確かに。それ故なんだろうね。パパというか、親衛隊というか、小金持ちをつかまえちゃ巧いこと懐を肥やしてるみたい。

友達・美奈子はいわゆる「パパ活」をやっている。
愛人だろうが情婦だろうが自分の能力で自立しているなら十分である。法に背かない範疇なら何の問題もない。

 二カ月ぶりにお邪魔して広々としたその部屋を眺めてる内に、彼女の生き方に脱帽する思いだった。自分が恥ずかしくさえなったの。私の城なんか冷蔵庫はいつでも空っぽ、西日に郷愁さえ覚えるボロアパートなんだもの。これまで私、「美奈子は美奈子」って無関心を装ってたけど、心のどこかでは男に寄りかかってるだけの風が吹けば倒れる女って、軽蔑とまではいかないけど、彼女を引き合いにして自分の在り方を優位に見ようとしてる部分があったの。でも、今は私と美奈子で何が違うだろうって思う。男に舞い上がって、お空から将来を見渡そうとしてる私がさ。結局、自分に自信がないから、比べることでしか自分の価値を見出せないのね。よくよく考えてみると、美奈子って自分磨きもしっかりしてる。料理とかもめちゃくちゃ上手だし、いつ来ても部屋は綺麗にしてるし、おしゃれにも気を抜かないし。それに引き換え私は、彼氏がいれば浮気はしないっていう、人並みの貞操を守るくらいしか能のない女だった。

《西日に郷愁さえ覚えるボロアパート》の件は、映画『自虐の詩』に登場する台詞――
『西日が貧乏くせえ!』
を参考にした。西田敏行 氏の台詞の言い方が最高に面白い。
《自分に自信がないから、比べることでしか自分の価値を見出せない》
この件は特に書きたかった部分である。
自分に自信があれば比べる必要ない。例えばファッションなら、自分が良いと思ったものを身に着ける。それが流行に合致していようといまいと。
一方で、そもそも自分のモノサシとは他者との比較の繰り返しによって少しずつ形成されるものである。つまり要点は、いつまで他人のモノサシを気にし続けるのか(いつから自分のモノサシで生きるのか)、ということである。
価値とは評価であるという意見を持つ人もいるだろうが、それは全てにおいて当てはまるわけではない。
自分に自信を持つという一種の自己完結こそが自分の価値の本質であると私は考える。
他人に「お前は無価値だ」と言われたら無価値になる自分――そんなバカげた話はない。自分の価値は自分で決めるものだ。
例えばこの記事に一つもスキがつかなくても、自己完結的コミュニケーションとしては発表した瞬間に価値あるものとなる。
でも良かったらスキしてください……。
《彼氏がいれば浮気はしないっていう、人並みの貞操を守るくらいしか能のない女》
この件は、手前味噌ながらインパクトのある言い回しが書けたと思う。
性悪説の立場を取るなら、一夫一妻を前提とする社会において貞操を守ることはそれだけでも称賛される価値はある。
しかし、性善説の立場から言えば、そのくらいのことは「できて当然」のことであり、できて当然のことは誇るに値しない。
誇るに値しない自分に、自信を持つ根拠はない、ということである。

 「今日は飲ませて!」って私が言うと、美奈子、優しく笑って「付き合いましょう!」って言ってくれる。十分もしたらウイスキーが体を燃やすように廻ってきてね。持つべきものは友達だよね、善かれ悪しかれ、いろんなことを気づかせてくれるから。わけわかんないけど、ちょっと泣けてきちゃった。
 自宅までちゃんと帰って来たことは覚えてたの。最近は日の出してすぐの薄明るい時間に起きてたのに、目が覚めたときカーテンから零れる日光が眩しいくらいでね。あんまり寒くもないしおかしいな……え、今日は月曜? 日曜だっけ? なんて頭の中でぐるぐる考えて、霞んだままの目でデジタル時計を睨んでると「月」の字が浮かび上がってきた。
 どうしよう……。
 焦燥感が胸の内にぐつぐつ沸騰してくるのが厭にリアルなの。私、仕事はできないけど勤務態度は至って真面目だから、遅刻したり仮病つかったりしたこともないし、「まあこんな日もあるよね」なんて軽く考えられないの。入社四年目にして初めての事態に、二十四歳、情けないほどうろたえた。ただでさえ吃音のことで笑い物にされてるに違いないって悩んでるのに、二日酔いで出勤なんてしたら何を言われるか、想像しなくてもいいことばかり頭に浮かんでくる。それでも休もうと思えないの。こんなことで大袈裟かもしれないけど、それをしちゃったら罪の意識に苛まれるのがわかってたから。ここまで来るともう病気だよね。

作者の私もズル休みの類はできないタイプである。

 即行でシャワー浴びながら、事務所に入ったらどういう風に振る舞おうかってシミュレーションしてた。身体拭いて、下着つけて、ふっと息吐いて、いざ会社に電話したよ。流暢な声で先輩が出てね。私、「あ、あ、ああの、そ総務の日坂ですが……」自分でもびっくりするくらい手が震えてるのよ。消え入りそうな声ってこういうのを言うんだろうね。「体調が悪くて、き今日は、やっすみます」
 ……通話、ちゃんと切れてたかな。そんな心配して、壁に投げつけた携帯をしばらく見つめてた。
 それからまた寝ちゃったみたいで、五時近くになって起き出したの。やっとお酒も抜けてきて感覚的にはようやく朝って感じだったけど、空はもう日暮れの気配が漂ってた。裏向きに転がってた携帯を拾って、もしかして会社から折り返しの連絡でもあったんじゃないかと思ったけどそんなわけなくてね。
 水でも飲もうって、台所の蛇口を捻ったら水垢で汚れたシンクがぼんぼん音立てるのよ。それがまた気だるい静寂によく響きやがって。結局コップ一杯分も飲み干せなくて息つくと、鼻にちょっぴりカルキ臭が抜けて、仕事辞めようって思った。これまでだってそう思ったことは何度もあったけど、今度ばかりは決心がストンと胸に落ちたの。憑き物が落ちたみたいだった。妙な高揚感に全身が汗ばんできてね。ベッドに座ってふと前を見たら、正面にある姿見のカバーが落ちてブラとパンティだけの私が映ってたの。わざと淫らに大股広げて、ほうけた自分と見つめ合った。”You talkin' to me?” なんてふざけてたのも束の間で、アソコに指を沿わせてる内に何も考えられなくなってね。唇から熱い吐息が漏れ出したの。あっという間にぐちゃぐちゃに濡れて、濡れるほど激しくなって。彼にキスされたときと同じに、脳みそがカーッとなるし、意識と無意識が半々になってむせぶような声が出ちゃう。やめちゃいや……やめちゃいやっ。脱ぎかけのパンティを片方の足首に絡めたまま、一番気持ちいいところで一番淫らな自分に思い切り溺れるの。愛して。こんなえっちな私を愛してよ! 身も心もない。時間も空間もない。幸せ、幸せ、幸せ! アソコから快感が貫いて私、やっと落ち着けた。

”You talkin' to me?”は言わずもがな、映画『タクシードライバー』からの引用である。
それがどんな状況であっても鏡の前に立ったキャラにこれを言わさずにいられないのは危険な癖だ。
マスターベーションは、喫煙や散歩と同じで、切り替えの効果がある。
この場面でのマスターベーションは、主人公にとってその効果を狙ったものである。

 ティッシュで拭ってパンティも替えて、部屋着のスウェットになった頃にはもういつもの冷静を取り戻してた。どんなに見つめたって僅か二十万弱の普通預金通帳に溜息ついて、すぐ辞めたほうがいいか、少しだけでもお金を貯めてから辞めたほうがいいか、そんなこと考えたの。私が無思慮ゆえの貧乏人じゃないってことだけはわかってほしいところよ。夏までやってもう一回ボーナス貰ったほうがいいかな、どうせ手取りで十万もいかないから気にしても仕方ないかな、やる気と生活を天秤にかけてさ。ネットで調べて、自己都合退職だと三カ月間も失業保険がおりないことを知ってね。「これを闘うには有給消化させてもらうのが必須だな」「私全然休んでないから一カ月は取れるはず」「その期間でバイト、就活、とにかく次の手を打つ」思惑が増水した河川みたいに流れてた。
 もし、にっちもさっちもいかなくなったらどうしよう。実家にのこのこ帰るのだけは厭。独り暮らしって言い出しただけであれだけ苦い顔されたのに、戻ったら二度と出られない気がするもの。でもお金貯めるには最高の宿なんだよね確かに。考えてみれば、最悪ここに帰ろうかって選択肢に挙げられる場所があるのは幸せなことかもしれない。例えばとらやのない寅さんなんて、あんまりかわいそうじゃない? 絶対戻りはしないけど、たまには私も顔見せに行こうかな。

やはり親にとって息子より娘の方が心配は多いらしい。
私には姉がいるが、飲み会等で帰りが遅くなると母親から苦言を呈されたそうだ。男である私は実家にいた時もそんなことで母に文句を言われることはなかった。
こういった不自由さは若者には息苦しく、独り暮らしを望む女性も多いものと思われる。

 お腹がぐうぐう鳴って、一日何も食べてないって気づいたの。まずいな、もうスーパー閉まってるよ、コンビニで買うと高いしな……。デジタル時計の表示が月から火に替わる瞬間を目撃して、酷く恨めしかった。
 腹が減っても戦をしないともっと腹が減るというのが現実だから、目をつぶってるだけで一睡もできなかったけど今度はちゃんと会社に行ったよ。そうしたら先輩が、「もう大丈夫なの?」って優しく声をかけてくれたの。寝ずに意気込んでた『朝イチで退職を申し出てやるゼ作戦』が、一瞬にして吹き飛んじゃった。人の気持ちなんてこんなものよね。ピンボールみたいに弾かれて、あっちにいったりこっちにいったり。鉄のハート、確固たる意志――そんなもの、筺体の中で生きてる私には一生縁がないのかも。こんな悟りに至ったくせに、私って阿呆は跳ねたピンボールがまたすぐに跳ね返ることまで想像が至らなかった。要するに私を退職に踏み切らせたのは、やっぱり先輩だったってこと。昼休みに給湯室の脇を通りかかったら、中から声が聞こえて来てね。先輩が昨日の私の電話を再現して、誰かとケタケタ笑ってたの。
『き、今日はやっすみます!』アハハ。
 こんな……こんな三文ドラマみたいな状況ってある? OLの給湯室会議、図らずも悪口を耳にしてしまう哀れなヒロイン。視聴率0パーセント。応援してくれる人は誰もいないヒロイン。悲劇の主人公気取りがしたいわけじゃないけど、私しか私を慰められないんだもの。勘弁して。
 先輩もいる前で課長に辞めますって言ってやったよ。流石に想定外だったのかちょっと驚いた風だったけど、今日はひとまず帰って、明日話をしようってことにしてくれた。帰り際、もし先輩がそ知らぬふりして「急にどうしたの?」なんて言ってきたら精一杯の悪態ついてやろうと思って構えてたんだけど、感づいたんだろうね。彼女、ばつが悪そうにうつむいてたから放っておいてあげた。
 辞めること自体はあっさり確定されたの。わかってはいたことだけどちょっぴり寂しかった。引き留められてみたかったな。いつ頃までで考えてるんだって聞かれて、すぐにでもって答えたら今年いっぱい出社して後は有給消化ってことになった。すんなり有給使わせてくれたのはせめてもの救いだったよ。しんどいけど闘わなきゃならないかもって思ってたことだったから。
 年の瀬はロボットみたいに残務整理とお茶くみだけして、とうとう初めての会社と静かにお別れを告げたの。長いようで短い四年間。実家も出たし、不安や悲哀を感じたり、それなりに穏やかだった時もあった。人生に段落があるのなら、今、一段落ついたのね。流石にちょっぴり感慨を覚えちゃう。自分に酔ってるのかな? それがまた心地よくて、この一年が私にとってどれだけ大きな一年だったとしても、きっと何事もなかったように新しい年が明けて、また一からっていうどこか清々しい気持ちになれる気がしたの。キャンバスの一番汚れてた部分をリセットできたようなものだもの。額縁は狭く小さく、なったんだろうけどさ。積み上がるものがないのは認めるよ。だけど、だから何? 文句あるのか。四年の空費がなんだって言うの? これから私が生きていかなきゃならない年月は四年どころか四十年以上あるの。人生って長い。残酷なほど長い。こんな四年間をあと十回以上も繰り返すなんて考えただけで吐き気がする。喜びは夢のように消えていくのに、苦しいことは傷になって残ってる。浮いたり沈んだり、三次関数のグラフみたいな人の一生。心持ち。鬱陶しい。ゼロでいいのに。プラスマイナスゼロでいいのに。

若い頃の積み上げは残りの人生を大きく左右する。
しかし、文中に書いたように、若ければ若いほどその先に続く人生は既に何かを積み上げた期間より遥かに長い。
だから、若い頃の一時期に積み上げたスキルや経験の価値を、不必要に高く見積もらなくていい。
《浮いたり沈んだり、三次関数のグラフみたいな人の一生。心持ち。鬱陶しい。ゼロでいいのに。プラスマイナスゼロでいいのに。》
これは私の人生に対する基本的なスタンスでもある。
良いことも悪いこともあるから人生は楽しい、といった類のことを口にする人もいるが、私はそのような心境には至れていない。
マイナスの出来事に対する重み付けが大きいのだろう。
三次関数のグラフみたいな、の部分は、元々《ジェットコースターみたいな》だった。
『Chase the Chance』を歌う安室ちゃんに叱られてしまいそうだ。

 とにかく整理しなきゃならない生活と感情でいっぱいいっぱいだったの。だから彼とのやり取りをおざなりにしちゃって、そのせいかもしれない。年内にもう一回くらいデートのお誘いがあるんじゃないかと思ってたけど、それもなかったの。正直言ってちょっと彼のこと忘れてた。それが思い出した途端、寂しくなってね。でも、もういいの。振り出しに戻っただけじゃない。清々しく年を明かすんだから……。
 清々しい元日に家賃なんか振り込んじゃダメね。目減りした預金額を見たらお金を使うのに恐怖さえ覚えて、実家まで二時間、自転車で行ったの。私の体型はこれで維持してるんだって思ったら雨ニモマケズ風ニモマケナイ。野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ萱ブキノ小屋とまではいかないけど似たり寄ったりの立地に、掘っ建て小屋さながらの私の生家がある。死んじゃったおじいちゃんが自分で建てたらしいの。家はいただけないけど、おじいちゃんのことは好きだったな。この辺りまで来ると、小さい頃におじいちゃんと一緒に遊んだ公園があって、優しい気持ちにさせてくれる。大好きなおじいちゃんがいなくなってから私はこの家を好きじゃなくなったって、そんな風に考えてみたこともあるけど我ながらロマンチック過ぎたね。思春期を迎えてみすぼらしさが目につくようになっただけなの実際。今も玄関先に銀杏の木が一本あって、素人仕事丸出しの不格好な剪定を寒風にさらしてる。ああ侘しいことこの上ない。昔は真っ黄色に染まる落葉の道に、ずいぶんはしゃいだ気もするけどね。

収入がない時の家賃振り込みは恐怖である。ここも私の経験が反映された語りだ。
《雨ニモマケズ》の件は、無論、宮沢賢治 氏の詩である。
この詩は私の小学校時代の先生が好きで、クラス全員、暗唱できるまで練習させられた。
私も好きな詩である。
作者の没後に発見されたというところが何ともロマンチックだ。
現代人なら作った瞬間にSNSで発表してしまうクオリティだろう。
そこにロマンは生じない。

 みんなは帰省したら「ただいま」って言うでしょ? 私はね、「来たよ」って言うの厭みたっぷりに。独立を反対されたこと、私が根に持ってるせいだって親も流石に気づいてる。本当はそんなことより根っこはもっと深いところにあるんだけどね。別に苦い顔されたって構わないの。慮って言葉を偽る、そんな親孝行はまっぴらだもの。だって言葉って大事でしょ? 人間、言葉で考えて、言葉で全てを思うんだから。……それでもやっぱり、ただ「おかえり」って返されて、なんだか辛くなるのも事実なの。
 確かに四年たったんだよね。一緒に暮らしてたときは親が老けるなんて想像もしなかった。母特製の素うどんがやたら懐かしく感じるわけだ。思わずほっとさせられちゃった。ダシの匂いに釣られてか、冴えない兄も起き出して来てさ。私に気づくと、「帰ってたのか」なんて独り言のように呟くの。妹への心慮と遠慮が言葉の奥に確かにあって、それにもほっとさせられる。この家を居心地いいとさえ思ったの。だからここまでは悪くなかった。父が食卓につくまでは。
「またうどんか」
 ほら、まるで溜息が言葉に化けたみたいな父の口振り。あーあ、土砂降りの朝の気分。または預金通帳を見る私の気分。そりゃ母が苛立つのも無理ないよ。空気が一気にピリピリしてさ。私は子どもに還ったみたいに、息を殺して小さくなるの。結局相変わらずの家。「ネギは」って父が言えば、「いるの?」って母が言い返す。「いつも使ってるだろ」父の吐き捨てる怒気に、母は黙って従うの。どっちもどっち。黒と黒。
 親なんか勝手にしろと思ってるのに、どうして寂しさなんか覚えるんだろう。自分で自分がわかんないよ。きっと兄だけは同じ気持ちだと思うのに、乱暴に扉を開けてどこへ行っちゃうのよ。うどん、まだ残ってるじゃない……。
 ここは地獄。間違いなかった。平穏の隙間から腐臭がするし、沈黙に解決が丸投げされる。私がずっと厭だったものは、まだこの家に巣食ってた。「独り」ってやっぱり尊い。初めから話すつもりはなかったけど、仕事辞めたことは伏せたまま、さっさとアパートに帰ったよ。

実家への帰省シーンは本作中で最も書くのに苦労した記憶がある。
何度書き直したかわからないくらいだ。
この場面に特に文章のリズムの悪さを感じる読者がいたら、それは正しい。私もそれほど納得のいった場面ではない。
「両親のどんなやり取りに主人公が不快を覚えるのか」の具体的な描写が目的で、それは主人公の語りであっさり片付けたくなかったこと、また、単純に登場人物が多いために本作の文体と相性が悪い場面だったことがうまく書けなかった原因だろう。
両親の不仲ほど子どもの心理に深い影を落とすものはない。
だからこそ主人公が実家と距離を置きたがる理由としては有効である。

 ……もう、最悪。
 清々しく年を明かすなんて、どうしてあんな馬鹿なこと考えたんだろう。自分が情けない。そもそも何? キャンバスのリセットって。巧い理屈をこねたところで、私はただ世の中に必要とされなかっただけじゃない。それがこんなに悔しいなんて、それがこんなに苦しいなんて、今の今まで思ってなかった。無意識に目をそむけてたんだ。私は認められたかった。何より自分を認めたかった。人生の真っ向を切り開きたかった! でも私っていう人間はそうはできないんだもの。壁を越えるより脇道を探し出す方が得意なの。得意な生き方じゃダメ? ダメじゃないって信じたいのに、どうしてこんなに悔しいのよ……。
 一月は大丈夫。二月も何とかなる。三月は闇の中。桜は咲くかわからない。とりあえずバイト探さなきゃ。のんびり就活だけしてる余裕はないもの。小銭でもいいからかき集めて、一日でも多く時間という名のチャンスを作る。今が死活を決するときだもの。こうなると、つくづく人生綱渡りで生きてることに気づかされるのね。お金がないお金がないとは思ってたけど、貧困がここまで差し迫るのは初めてだった。ホームレスになる自分がありありと想像できて、そんなの無理、いっそ死んでしまいたい、やっぱり死ぬなんて怖い――孤独に眩暈がしてきてさ。美奈子を頼るわけにもいかないの。彼女の仕事は邪魔できないからね。だからって、まさか地獄に帰るなんてありえないでしょ。そんなことするくらいなら水商売か風俗か……それにしたって、私に勤まるかわからない。知らないおっさんの酌。知らないおっさんの尺八。自信がない。それさえ私は、自信がない。

貧困に関して、ほんの少しのきっかけで人生が立ち行かなくなるという感覚は、庶民の誰もが実感として持っているだろう。
一寸先は闇、という慣用句もある。
だが、現代(の日本)は原因不明の病だの戦争だの、逃げようのない問題で人生を狂わされる機会は昔ほど多くはない。
仕事を失うのは確かにきついが、大の大人がたったそれだけのことで混乱し、「路頭に迷う」のは大袈裟とさえ私は考えている。
これは暴論かもしれないが、仕事や家庭などは所詮「逃げ出せる」問題に過ぎない。
これらを「逃げ出せないもの」と捉えるのは、場合によって自分の首を絞めることになる。
死ぬことで逃げ出すくらいなら生きて逃げ出せばいい。
漫画『カイジ』の兵藤会長の明言をここに記しておく。

『大詰めで弱い人間は信用できぬ……! つまりそれは管理はできても勝負のできぬ男……平常時の仕事は無難にこなしても緊急時にはクソの役にも立たぬということだ!』

緊急時こそ人の真価は問われる。
綱渡りをやり遂げるのが強さではない。
綱の上にいる時は兵藤会長が言うところの平常時である。
綱から落ちた後に倒れないことが強さである。
《水商売か風俗か……それにしたって、私に勤まるかわからない。知らないおっさんの酌。知らないおっさんの尺八。》
この言い回しは個人的にお気に入りである。
私もこの作品を書いた二十代前半に風俗を覚え、覚えたてだからこそ頻繁に利用していた。
彼女たちとの会話を通じて、女性が仕事として風俗を検討することは、容姿、学歴、(もう一つの)職業、経済状況、生育環境等とは無関係にあり得ると知った。
私の知人の一人も、大学卒業時になかなか就職先が見つからず、「私もソープとかで働かなきゃならなくなるのかなあ。私にお金払ってくれる人なんていないよお!」と冗談交じりに語っていた。
冗談交じりとは言えそれが口にできるということは、いざとなれば本気で検討するのだろう。

 日に日に正月特番が減っていって、気持ちばっかり焦らされてた。何もしてないのにお腹はすくし、時間は止まってくれないし。世の中の流れに弾かれて、ぽかんと浮かんでる感じなの。この浮遊感も余裕があれば楽しめるんだろうけど、貧困と自由をまとめて享受できるほど突き抜けた人間じゃないの私は。ジョナサンを軽蔑する側のカモメだね。本当は憧れてるくせに。

カモメのジョナサンとは、餌をついばむためではなく、飛ぶために生きるカモメである。
脳裏を過ぎる貧困の恐怖、あるいは貧困そのものは、ジョナサンのように自由や理想のために生きるという選択肢を人から奪ってしまう。
腹をすかせながらでも夢を見続けられるのがジョナサンである。
主人公はジョナサンを軽蔑する側のカモメだった。

 きっと何者かになれるような人は、こういう有り余る時間にきらり光ってるんだろうね。私だって光ってやろうって気概がないわけじゃないもの! なんて、所詮は凡人特有の一過性の奮起だった。気づいたら寝てるし、気づいたらアソコいじってるの結局。人間の一日は一生の縮図だって話を聞いたことがあるけど、半日寝て、二時間テレビ見て、カップメンは三分、オナニーは三十分、残りの九時間二十七分は何してたか覚えてもいない人生ってどんなだろ。

まさに「継続は力」なり。
何かを成し遂げる人は継続できる人であるのは間違いない。
奮起が一過性で終わってしまうのは凡人の共通点である。

また、せっかくの時間を有効活用できないのも凡人の特徴と言えるだろう。

 ものの半月足らずで思考を放棄することにしたの。死活だのジョナサンだの言っても私は私、なるようにしかならないもの。自分で進む道を決めるって、それはそれで大変だよね。思い通りにならない苦しみっていうのもわかるけど、他人に定義付けされるのは見方によっては楽でもある。鉄砲を持たされてさ、これが正義だって言われたら、引き金を引けちゃう私がそこにいた。

《思い通りにならない苦しみっていうのもわかるけど、他人に定義付けされるのは見方によっては楽でもある。鉄砲を持たされてさ、これが正義だって言われたら、引き金を引けちゃう私がそこにいた。》
この件も私が本作において書きたかった部分だ。
他者からの定義付けを受け入れることさえできてしまえば、それはある意味で楽な状態と言えるのではないだろうか。
自由と違いやるべきことは明確化され、自由ゆえの選択肢の多さに苦悩することはなくなる。いわゆるディストピアとして描かれる世界において、その世界に順応した住人の状態である。
エーリヒ・フロム 氏の『自由からの逃走』は、ナチズムに傾倒したドイツを考察した書籍だが、自由という言葉や状態に潜む危険性を指摘している。
シンプルな世界はシンプルゆえの負担の少なさがあるが、「それが正義だと言われたら引き金を引けてしまう」のは、自主的な思考を喪失してしまっている。
社会の中でこれに似た状態に陥っている現代人は少なくない。また、積極的にシンプルな社会を望む者さえいる。

 彼ったらすごいよ。こういうときにメール寄越すんだもの。「会いたいです」たった六文字が、私にとっては赤紙同然だった。その日の内にぴかぴかの軽自動車で迎えに来てくれてね。私がアパートの階段を下りて行くと、彼、うつむいて鼻をクイクイ触ってたの。「嫌われたのかと思ったよ」なんて言われて、心の中でカチカチに固まってたものが溶けていくようだった。そうしたらもう何もかも吐き出さずにはいられなかったの。私しか喋ってないってくらいに、全部話しちゃった。吃音のことも、実家のことも、確かに今、あなたが好きで堪らないってことも。
 私がさらけ出した分だけ彼もさらけ出してくれるのが嬉しかった。周りが家庭を持ったり仕事に燃えたりしてるのに、俺はこの歳になってもどうしたいのかわからないって、真剣な顔が素敵でね。この人がまだ見つけてない幸せに私がなりたいって思ったの。
 ――最高のえっちだった。
 このえっちを表現する語彙が私になくて、アソコをじっくり責められてるときみたいにもどかしいんだから。一回終わっても火照りは冷めないし、彼の目尻とか静脈の浮いてる腕とかを見てるとお腹の下の方がじわじわしてくるの。そこんとこ突かれたらもう、煩わしい現在が時の彼方に吹っ飛んで、輝く未来の星だって見えてきた。いいもんじゃないと思ってた人生を思いっきり肯定してあげたくなったの。認めなきゃ寂しいからとか、そんなつまらない消極的肯定じゃなくて、素敵としか思えない、そんな感じにね。
 ポジティブシンキングが世界を変える、そんな自己啓発書の文言みたいなことが実際に起こり得るんだって知ることになった。美奈子が知り合いのバーを紹介してくれたのよ。以前の私だったら物怖じしちゃって断ってたに違いないような立派なお店なんだけど、彼と繰り返す逢瀬にぴょんぴょんしてた勢いのまま飛び込んでみたら、みんないい人ばっかりなの。驚いたのは、周りに「落ち着いてる」って言われたこと。確かに私、前の会社にいたときみたいなふわふわする感じがなくなってた。たまに店の電話に出たってどもったりしない。その理由に気づいたとき、私の新しい人生の幕が上がったの。彼を思うと、スッと一本、心の内を抜けていく筋がある。これが自分の信じるもの。ずっとほしかった自信。彼が創り出してくれた幸福の定義。
 私は相変わらず私よ。何も変わってない。これまでは、それじゃダメなんだ、変わらなきゃダメなんだって思ってた。自分に見えてる自分だけが唯一の自分だって信じてたから。でもわかったの。人の目に映る私がいること、誰かがいて、私は初めて私になること。彼に愛されてる自分が、私は大好きだった。

私の記事【映画『マーサの幸せレシピ』の感想。肯定する/されるという変化。】で書いたところの、肯定するという変化を落としどころとして使った。

 桜が咲く頃、私は笑顔だったよ。仕事が終わって朝帰りしてると、薄橙の空が爽快でね。毎日、毎日、爽快だった。散歩のおばあちゃんとか朝練に向かう女学生とかをぼんやり眺めちゃって、この人たちの生きる指針にどんなロマンスが影響してきたのかな、なんて想像してるの。色恋って不思議だよね。お金とか誇りとか自己実現とか、高尚な指針は人生に必要だろうけど、それと同じくらいの比重をロマンスは持ってる。人の心、運命、こういう不確かなものの内なのに、その不確かさは、ときに希望になるんだね。

誰もがそれぞれの人生を、何気ない日常を生きている。
その当り前をしみじみ思いながら眺めていると、それは癒しになる。
人々の暮らしとは、今風に言えば「エモい」ものである。
NHKの『ドキュメント72時間』という番組があるが、あの番組の魅力はまさにこういった部分にあるのだと思う。

 花冷えって言うのかな、肌寒い日だった。目が覚めたと思ったら私、くちゅくちゅされてたの。彼の命令でつるつるにしてから間もなくて、触れられる感覚がまだ新しかった。じっとしてると頭の中があまい幸せでいっぱいになって、一日中だってこうしていたいって思っちゃう。

冒頭と同じ言い回しの文章をラストにもう一度繰り返すのは小説ではよくある手法である。

 私もうほかには何も要らないよ。裸エプロンもしてあげる。夏はビキニの私を抱いて。今度の冬はもっとパンストはくからさ。なんかもうむちゃくちゃ熱いえっちしよ。

《なんかもうむちゃくちゃ熱いえっちしよ》
これは五・七・五である。語呂の良さが欲しいときは日本の伝統的な型を使う。

全く関係ないが、松任谷由実 氏の『やさしさに包まれたなら』の歌詞――
《目に映る全てのことはメッセージ》
が五・七・五と気づいた時は震えた。意図的ではないと思うが。

 耳元にふうっと息がかかってね。「結婚しよう」って聞こえたの。「そばにいるだけでいいよ」って。

 そばにいるだけ、か。
 それって――

 ごちゃごちゃ考えずにいられないところも、相変わらずの私なの。

「側にいて欲しい」と言われれば嬉しいが、「側にいるだけでいい」と言われるとイラっとする、ということである。
側にいることしか求めてもらえない自分に、主人公は自信が持てないのだろう。
主人公はこの先も、まだまだ人生について考え続けることになる。


■ 後書き(能書き)
長いことお付き合い頂き、ありがとう。
最後まで読んだ人はいるだろうか。

ごてごての口語文体は、音楽ジャンルで言うところのヒップホップみたいに、リズム感重視で措辞を選んだつもりだ。
音読した時に「なぜか朗読が心地いいな」と思ってもらえたらなら、私とあなたの言語感覚は近いのかもしれない。

本作のような文体の小説は、実は本作以降ほとんど書いてない。
長編には向かないし、コンテストにも向かないし、読み手を選ぶし、幾つ書いてもどれも同じようなものになってしまうからだ。また、主観性が強い物語は書く労力が殊更に大きく、私自身の引き出しの多寡に強く依存するため、そもそもたくさんは書けない。

ともあれ、本作『あまったれH』は執筆当時の自分が(良くも悪くも)掛け値なしで詰まっている作品で、非常に思い入れがある。
ある意味では私小説的であり、日記的であり、私という人間の一風変わった自己紹介として使えてしまう。
私の青春の1ページを思い起こさせる品として、ここに記録しておこう。

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