見出し画像

【異国合戦(17)】モンゴル帝国に拉致された日本人

 今回は比較的マイナーであまり知られていないモンゴル帝国に拉致された日本人の物語。
 同時並行で進んだ高麗の政変と合わせて解説します。
 前回記事は下記のとおりです。

 これまでの全記事は下記にまとめてあります。


フビライの不信

 モンゴルの国書を持った高麗使・潘阜が大宰府に至った1268年正月、大陸では高麗国王・元宗の弟である安慶公淐が新年の挨拶としてフビライを訪ねた。接見に応じたフビライは安慶公淐を叱責したと伝わる。前年高麗が、黒的と殷弘のモンゴル使節を日本に案内しなかったことをフビライは依然として根に持っていた。
 
 安慶公淐が帰国の途に着くとモンゴルはすぐさま高麗に使者を送り、モンゴルが朝鮮半島から撤兵すれば首都を江華島から開京に戻すという約束が果たされないこと、兵糧を提供する・出兵に応じる・駅伝を設置する・徴税官を置くといった従属国としての義務を果たさないことなどを詰問した。フビライが高麗に対し、強い不信感を抱いていたことがわかる。
 
 高麗はフビライの不信感に対し、重臣の李蔵用をモンゴルに送り、釈明せざるを得なかった。5月29日、李蔵用に面会したフビライは4万の兵の出兵を命じた。李蔵用はそんな大軍は到底用意できないと説明したが、フビライはここでも叱責し、出兵先が南宋になろうと日本になろうと兵を出すように重ねて要求した。「君臣は一家であるのだから援軍を出して戦争を助けるのは当たり前だ」というのがフビライの論理であった
 さらにフビライは「高麗は常に船を用いているのだから難しくないだろう」と述べ、大型の軍用艦船1000艘の建造を命じた。李蔵用は納期に間に合わない可能性を示唆したが、フビライはモンゴル帝国の戦争に協力せずに滅亡した西夏の例を李蔵用に語り聞かせた。完全な脅迫であった。
 
(西夏滅亡の経緯については4回記事でも触れた)

第三回使節の派遣

 7月18日、大宰府に留め置かれていた潘阜が帰国した。前回記事で触れた通り、日本側の蒙古国書への対応は「返事をしない」であったため、潘阜は何の成果も得られずに、高麗へ戻ってきた。高麗政府はフビライへの報告のため、潘阜をすぐにモンゴルへ派遣している。
 
 これを受けた同年9月、フビライは再び黒的と殷弘を日本への使節に任じた。高麗には当然、両名の案内が命じられる。
 フビライから高麗への命令書には次のように書かれた。
「使者がどうなろうと高麗には責任がないのに、前回は嘘を述べて案内しなかった。危険で渡海できないと言っていたが、潘阜は渡海できたではないか。再び黒的と殷弘を使者に任じたので必ず重臣に案内させろ。先延ばしにするな」
 フビライの高麗への不信感は依然払しょくされていなかった。
 
 12月、高麗国王元宗は前回大宰府に至った潘阜らを案内役に任じ、黒的と殷弘を伴って日本へ送り出した。

モンゴルによる日本人拉致事件

 モンゴル使節団は文永6年(1269)2月16日に対馬へ上陸した。70~80人近くの使節団だったという。対馬から大宰府経由で京と鎌倉へ使者が送られたが、朝廷と幕府が対応を決断する前にモンゴル使節団は帰国することになる。使節団と対馬の役人がトラブルになったのである。
 モンゴル側の記録によると、使節団は入国を拒まれ、対馬の役人側が刀を抜いたのだという。使節団はやむなく対馬島民の塔二郎弥二郎の島民2名を拉致して帰国することにした。塔二郎と弥二郎の素性は明らかでないが、経緯からして両名は農民・漁民などではなく、身分はそう高くないにしても対馬の役人か武士の可能性が高いように思われる。
 
 対馬でトラブルになったことで、使節団は大宰府、その先の京・鎌倉へ進むことを断念せざるを得なかった。しかし、第1回、第2回使節が何の成果も上げていない中、今回も成果なしではフビライが激怒することが火を見るより明らかなことは黒的と殷弘、潘阜ら高麗の案内役全員に共有されていたことだろう。
 フビライを納得させる成果として塔二郎と弥二郎の両名は拉致された。

フビライに謁見した日本人

 塔二郎と弥二郎は高麗を経由し、当時のモンゴル帝国の華北支配の拠点で実質的な首都として機能した中都(燕京)に連れていかれた。両名はこの地で大ハーン・フビライに謁見する。フビライが日本人と会った記録は後にも先にもこの機会以外にない。
 
 フビライが塔二郎と弥二郎を接見したのは1268年(文永5)5月のことである。フビライは、ここまで対日外交の成果が全く上がっていない中で、3度目の遣使にして使節団が日本人2名を連れ帰ったことに大変満足した。不信感から叱責を繰り返してきた高麗の案内役に対しても初めてねぎらいの言葉をかけ褒美を与えている。
 そしてフビライは接見した塔二郎と弥二郎の両名に「日本は中国に長く挨拶することが続いてきた。朕は日本に外交を強制しているのではない。両国の交流の美名を後世に残したいだけなのだ」と語ったという。
 この時点では中華王朝としての南宋は健在であったし、中国歴代王朝とモンゴル帝国は何の関係もないが、フビライの認識では既にモンゴル帝国が中華王朝を継承する存在となっていたことが塔二郎と弥二郎への言葉から理解できる。なお、モンゴル帝国がその国号を「大元」へと改めるのはこれより3年後のことである。
 日本と中国の歴史を前提に置いた外交的な言葉をただの農民、漁民に語るほどフビライも愚かではあるまい。塔二郎と弥二郎はやはり下級ながらも公的立場にいる人物であったと想像できる。このことは、宮殿内を案内された2人が「この世には天堂・仏刹が存在すると耳にしたが、まさにこのことなのだろう」と語ったと伝わることからも言えよう。天堂とは天上の神仏が住まう殿堂、仏刹とは大寺院を指す。一定以上の教養なしにこういった言葉は口から出ないだろう。

 満足したフビライは対馬でのトラブルについて塔二郎と弥二郎に罪はないとし、両名に中都近郊にある万寿山の玉殿や様々な建造物を見学させた。
 6月、日本人の中都訪問に満足したフビライは高麗の金有成に命じ、塔二郎と弥二郎を日本に送り届けさせることにした。同時に中書省に文書作成を命じた。
 モンゴル帝国の4度目の対日使節派遣は塔二郎と弥二郎を送還し、中書省から日本国王(天皇)宛の国書を届けることを目的とした。なお、前回国書は大ハーンから日本国王宛であったから、文書の格を落としたことになる。 

高麗の動乱

 塔二郎と弥二郎が対馬から拉致され、帰国の途に着くまでの間に高麗では大きな政変があった。崔氏の武臣政権を滅ぼした金俊が臣下の林衍に討たれたのである。国王の対モンゴル妥協路線に反発していたことで金俊は高麗政府にとって面倒な存在になっていたのである。しかし、政権を掌握した林衍は国王元宗とも対立するようになり、遂に元宗を廃位させる。

 7月21日、塔二郎と弥二郎を送還する役目を負った使節団が高麗の都が置かれた江華島に立ち寄った際、出迎えたのは前・国王元宗の弟でかつて安慶公淐と呼ばれた新国王淐であった。金有成ら高麗の使者は不在中の政変に動揺したことであろう。塔二郎と弥二郎が政変を理解し自覚的であったかはわからないが、ここでも2人は政変に揺れる江華島を訪れるという貴重な体験をしたことになる。

 前・国王元宗の世子・諶は金俊殺害の説明のために中都を訪れ、塔二郎と弥二郎ら一行の後を追うように帰国途中であったが、父が廃位されたことを聞き、中都へと戻る。フビライに助けを求めるためであった。
 高麗は結局、モンゴル帝国の内政干渉を自ら呼び込む形で動乱を鎮めることになる。元宗は復位するが、その過程で親モンゴル派武臣の崔坦らが北西部を占領しモンゴルに帰属する。西京(現在の平壌)は東寧府と改称されて、モンゴルの直轄領となった。
 高麗は国内の動乱鎮圧のために、国土をモンゴル帝国に奪われるという高い代償を支払うことになった。 

塔二郎・弥二郎の帰国

 塔二郎と弥二郎、そして第四次となる対日使節は9月19日に対馬の伊奈浦に到着した。塔二郎と弥二郎にとっては約半年ぶりの帰国となった。

 両名を送り届けた金有成ら対日使節は、外交窓口である大宰府へと渡った。大宰府側は使節が京へ進むことを許さず大宰府に留め置き、中書省国書のみが京へ回送された。前回はモンゴル帝国の外交使節に対し、「返事をしない」ということで足並みを揃えた朝廷と幕府であったが今回は朝廷は返事をすることに決し、文章博士の菅原長成に案を起草させた。
 その内容は、塔二郎と弥二郎の送還に感謝し、前回使節と対馬島民がトラブルになったことについて再発防止を約束するというものであった。
 拉致した人間を帰国させて外交カードとして使い、国際親善の手がかりとしようというのは現代に生きる我々日本人が約20年前に経験したことだが、同様のことが約750年前にもあったのである。

 結局、菅原長成が起草した返書が大宰府に滞在する金有成に渡されることはなかった。幕府が返書を送ることに反対したからである。従来通り朝廷と幕府はモンゴル帝国の国書を無視するという立場に足並みを揃えた。

 帰国した塔二郎と弥二郎のその後は記録がない。モンゴル帝国の土を踏み、フビライに謁見した2人の情報は大変貴重なものであり、大宰府が何の聴取も行わなかったとは考え難いが史料からそれを確認することはできない。
 国書を無視し続ける以上、朝廷と幕府にとってモンゴル帝国は存在しないものと扱うに決めたに等しい。存在しないのだから、そんな国に拉致された日本人も存在しない。ましてや丁重に歓待されて皇帝に謁見したという事実は2人が正式な外交使者ではない以上、朝廷も幕府も認めるわけにはいかなかった。結果、モンゴル帝国による日本人拉致は日本側史料に詳細に記録されることもなく今日に至ったと考えられよう。
 
 しかし、日本側の見て見ぬふりをして嵐が通り過ぎるのを待つ戦略には限界があった。ここまで見てきたとおり、フビライ・ハーンという人物は日本が国書を無視するのを許すようなのんびりとした性格ではなかったのである。

第18回に続く。


この記事が参加している募集

世界史がすき

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?