【異国合戦(18)】源氏将軍、復活
久々の更新となってしまいました。
すみません。
今回は文永8年=1971年前後を中心に日本・高麗・モンゴルの動きを整理します。
これまでの全記事は下記にまとめてあります。
皇族将軍から源氏将軍へ
鎌倉幕府はモンゴル帝国からの使者到来という事態に際し、これを無視するという態度を取り続けた。その一方で万一の事態に備えて体制の引き締めを図っている。
文永6年(1269)4月、幕府は3年前に執権による訴訟直接裁断を目的として廃止した引付を復活させ、翌5月には文永4年の徳政令を廃止するという政策を採った。どちらも強力な北条時宗政権をつくるために進められた改革であったが、これを後退させたことになる。反発もある強引な改革よりも危機に対応するために幕府の安定を重視したと評価できよう。戦時体制移行の一環である。
次に幕府が手を付けたのが7代将軍・惟康王を戦時体制に組み込むことであった。惟康王は文永7年(1270)2月に前執権北条政村を烏帽子親に元服すると、同12月には皇族の立場から臣籍降下して源惟康を名乗るようになる。
皇族が臣籍に下って源氏賜姓を受けるのは反平家の兵を挙げた以仁王に平家政権が源以光の名を与えて以来で90年ぶり、これは罰のようなものであるからそれ以前となると71代後三条天皇の孫の有仁王が源有仁を名乗って以来で151年ぶりとなる。
鎌倉幕府にとっては3代源実朝以来、4人目の源氏将軍誕生である。4代将軍九条頼経、5代将軍九条頼嗣、6代将軍宗尊親王は源氏姓に改めることはなかった。この頃の鎌倉幕府の将軍は必ずしも源氏でなくても良いという共通認識は既に存在していたはずである。
それにもかかわらず、鎌倉幕府は皇族の惟康王をわざわざ臣籍降下させ源氏姓を名乗らせた。これはモンゴル帝国の脅威と決して無縁ではない。
征夷大将軍は既に実権を喪失していたし、戦争指導を期待される立場でもなかった。しかし、モンゴルの侵攻の可能性を想定する執権・北条時宗と幕府首脳は源氏将軍を望んだ。鎌倉幕府にとって源氏将軍とは始祖・源頼朝の後継者を意味する歴史と伝統に紐づいた象徴である。
異国からの未曾有の危機に際し、御家人を結束させる装置として源氏将軍としての源惟康が必要とされた。
過激化する日蓮の活動
モンゴルの国書が日本に届けられて以降、時勢を追い風に活動を活発化させたのが僧の日蓮であった。
かつて北条時頼に献上した『立正安国論』の中で為政者が法華経を信仰しないと外国に侵略される(=他国侵逼難)と予言していた日蓮は自身の考えの正しさを確信し、活動を過激化させていく。従来、法華信仰の妨げとして念仏について激しく非難していた日蓮であるが、この頃から北条得宗家が庇護する禅についても厳しく批判を加えるようになる。
蒙古の危機に際し、朝廷と幕府が各宗派の寺院や神社に祈祷を依頼していることは日蓮にとって受け入れ難いものであった。降伏祈祷は法華経を根本仏典とする比叡山の天台宗でなければならないというのが日蓮の考えであった。
『立正安国論』は改めて北条時宗ら幕府首脳に献上され、鎌倉仏教界の僧侶たちには公の場での討論を申し込んだ。日蓮は「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」という表現で諸宗派を徹底的に批判した。
日蓮の過激な言論は幕府や仏教界は無視したが、蒙古の危機と相次ぐ災害を背景に信奉者は着実に増えていった。中には武装する者もあり、日蓮は法華経信仰を異教や迫害から守るためのものとして信徒の武装を積極的に肯定した。
幕府は御成敗式目により鎌倉市中における僧の武装を禁じていた。日蓮にとって法華信仰守護のための武装は、荘園の維持・拡大という私欲を目的とする既存の僧兵の武装とは全く異なるものであったが、幕府にとっては違法であることは変わらない。
蒙古の危機に対処するために国内の秩序維持を重視する幕府は日蓮を無視できなくなり、忍性・良忠・道教といった僧たちの訴えを受けて日蓮の処罰を決断。文永8年(1271)9月12日、侍所所司で得宗被官(得宗家の家人)である平頼綱が日蓮を逮捕した。
取り調べに応じた日蓮は「邪法の根源である念仏・禅の諸寺を焼き払い、僧たちの首を由比ヶ浜で切り落とさないことには日本は滅びる」と語り、自説を曲げなかった。
日蓮は斬首とされる可能性もあったが、最終的に佐渡へ流罪となった。
三別抄の乱
モンゴル帝国の力を借りて国内の動乱を鎮め、長く続いた武臣政権の時代に終止符を打った高麗政府と国王の元宗は、先延ばしにしていたモンゴル帝国との講和条約にある出陸(江華島を出て旧都である開京に還都すること)を実施せざるを得なくなった。
しかし、この対モンゴル従属路線に元は武臣政権の特別部隊で、常備軍へと進化した三別抄が反対し、反乱を起こす。三別抄は朝鮮半島南西部の珍島に立て籠もり、抗戦の準備を進めた。
三別抄は高麗最強の部隊である。開京の高麗政府には独力でこれを撃破することは難しかった。高麗はまたしてもモンゴル帝国の内政干渉を自ら呼び込むことになる。
一方の三別抄が援軍を期待したのが日本であった。三別抄は救援を求める使者を日本に送る。
三別抄からの書状が京の朝廷に届けられたのは文永8年(1271)9月のことであった。後嵯峨上皇の御前に参集した公卿たちは今回の書状が従来の高麗からの書状とは趣が異なることを察した。モンゴル帝国の使用する元号「至元8年」が用いられていないこと、前回はモンゴルの徳を称揚していたのに今回はその風俗を蔑んでいることなどに疑問を抱いたことが「高麗牒状不審条々」として史料に残されている。
しかし、国際情勢に疎い朝廷と幕府はこれがモンゴル帝国に抵抗する勢力からの書状であるという本質をついに理解することができなかった。
京の貴族たちは国際情勢の理解と把握ではなく、漢文のスムーズな読解について議論を費やすばかりであった。三別抄の書状は結局、従来のモンゴル帝国の書状と同様に黙殺することになった。
日本からの援軍を得られなかった三別抄は珍島を攻略された後も済州島に移って抵抗を続けたが、1273年4月にモンゴル・高麗軍によって鎮圧された。
モンゴルはこの三別抄との戦いを通して、軍勢が海を越える上陸作戦の経験を積むことができた。図らずもこの戦争は来たる日本侵攻のための予行演習の役割を果たしたのである。
大元大蒙古国
三別抄が反乱を起こした時、モンゴル帝国は宿敵・南宋攻略のための大規模な軍事作戦を進めている真っ只中であった。1268年から襄陽と樊城を包囲し、長期戦となっていた。
1271年6月、南宋は将軍・范文虎率いる10万の軍勢を救援に送り込むが、迎え撃ったモンゴル軍が完勝し、以後戦争の天秤はモンゴル側へと傾くことになる。
この年の11月、皇帝フビライはモンゴル帝国の国号を「大元」と改めた。正式名称は「大元大蒙古国」であり、漢字一字で中華王朝を表現する慣例によって一般的に「元」と呼ばれる。
既に皇帝(大ハーン)が中央アジア以西の領域を直接支配することは無くなっており、「大元」となった帝国は東アジア世界に軸足を置いた新体制の構築をより進めていくことになる。
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