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【異国合戦(16)】蒙古国書、到来

今さらですが、あけましておめでとうございます。
本年は文永の役750周年イヤー。
記事内容も文永の役直前までやって参りました。本年もよろしくお願いします。

前回記事は下記よりお読みください。

これまでの全記事は下記にまとめてあります。


破られる平穏

 5代執権北条時頼の後を継承して執権に就任した6代赤橋長時、続く7代北条政村は時頼嫡子である北条時宗が成長するまでの中継ぎにすぎなかった。北条一門を中心とした幕府首脳は得宗(北条家嫡流)である時宗の成長を待ちつつ、時宗が絶対的な権力を振るう体制を準備していた。
 一定の派閥を形成し、反得宗の核と成り得た将軍・宗尊親王を追放したことで準備も遂に完了。あとは時宗がカリスマとして幕政を指導する日を待つばかりで邪魔するものは何もない。平穏に時が流れるのを待つばかりであった。
 しかし、その平穏は突如として破られる。宗尊親王追放からおよそ1年半を経た文永5年(1268)正月、高麗の使者がモンゴル帝国の国書を持って九州の大宰府へとやってきた。 

モンゴル使節、渡海せず

 フビライが初めて日本へ使者を派遣したのは、鎌倉幕府首脳部が宗尊親王を追放した直後の1266年8月のことであった。正使に黒的、副使に殷弘という人物が任命されたが、両名の素性はよくわかっていない。

 モンゴル使節団はまず高麗へ向かった。高麗に道案内をさせるためである。フビライは高麗側に「波風の荒れ模様を理由に案内を断るなよ」と釘を刺した。高麗にとっては面倒でしかなかったが、属国である以上、モンゴル帝国の命令を無視するわけにはいかない。

 しかし、高麗もしたたかであった。対馬海峡を臨む巨済島まで使節団を案内して海を見せると「海が荒れていて渡海は危険である」とフビライが想定したとおりの説明をした。モンゴル使節団は、実際に目にした海の荒れ模様と高麗の説明により引き返すことにした。

 実際にこの時の対馬海峡が渡海できないような荒れ模様であったかどうかはわからない。高麗側の「モンゴル人に海のことなんてわからないだろう」という判断からの虚言であったかもしれない。面倒ごとに巻き込まれたくない高麗が使節団を渡海させることに消極的だったとことは間違いないように思われる。高麗の説明を聞いてあっさりと引き返してしまう黒的と殷弘の使節両名もひょっとすると渡海に消極的だったのかもしれない。

 高麗側は「モンゴルの使節を危険な目に遭わせるわけにはいかないし、対馬島民は野蛮で礼儀がない。そもそも高麗と日本に通好はない」と説明したが、皇帝フビライは納得がいかず激怒した。高麗人の臣下より古くから日本と朝鮮半島には通好があるとフビライは聞かされていたらしい。

 フビライは、高麗に対し次は自らの責任で日本に使節を派遣しろと命じた。1267年9月、高麗の使者・潘阜が前年に日本に届けられなかったモンゴルの国書を持ち、日本へと向けて江華島を出立する。

未知との遭遇

 高麗使・潘阜は11月に対馬に至る。そして、対馬守護代・宗助国の案内で1268年1月1日、日本の対外窓口である大宰府へと入った。

 大宰府は鎌倉幕府ではなく、朝廷の行政機関であったが、この頃には次官である太宰少弐を世襲し、それを名字とする幕府の御家人・少弐氏が政務の実権を握っていた。
 潘阜は大宰府に留め置かれ、モンゴルの国書は御家人・少弐資能によって鎌倉へ送られる。鎌倉に国書がもたらされたのは閏1月8日のことであった。しかし、日本の外交権は朝廷にある。幕府は使者を上洛させ、2月7日に関東申次の西園寺実氏を通して後嵯峨上皇へ奏上された。当時の天皇は亀山天皇であるが、実権を持つ治天の君は父である後嵯峨上皇であった。

後嵯峨上皇(『天子摂関御影』)

 国書の伝達は大宰府から鎌倉へ1か月、鎌倉から京へさらに1か月を要した。これは当時の交通事情を勘案してもあまりに遅いが、それだけ未曾有の事態であり、大宰府の少弐氏も鎌倉幕府も対応に苦慮したことが察せられる。なお、大宰府からの使者は鎌倉に行く前に京の六波羅に立ち寄ったと考えられる。幕府から朝廷への正式な奏上は2月だが、それ以前におそらくは六波羅探題経由で朝廷には非公式ながら対馬にモンゴルの使者がやってきたことは伝わっていた。

 朝廷も幕府もモンゴル帝国の存在は以前から知っていたであろう。日本と南宋を行き来する渡来僧や商人を通してモンゴル帝国の情報は伝えられていたに違いない。しかし、日本には中華王朝と朝鮮半島以外の国家との外交経験は無いに等しく、菅原道真の建言によって遣唐使が停止されてから約400年間、他国との正式な国交を絶っていた。日本にとってモンゴル帝国は遠い世界の存在であり、自分たちが対峙すべき相手という意識は無かったであろう。
 東国の地方軍事政権である鎌倉幕府に至っては、外交についての経験は全くなかった。
 モンゴル帝国の国書到来はまさに我が国にとって未知との遭遇であった。

フビライの意図

 フビライがこのタイミングで日本に国書を送ってきたのは何故か。やはりアリクブケとの帝位継承戦争に勝利したことは無縁ではないだろう。ただ一人の大ハーン(皇帝)としての立場を確立することに成功し、本格的に政権をスタートさせる皮切りに挨拶代わりに手紙を送ってきたというわけだ。
「上天の眷命せる(=テングリ【モンゴルの至上神】に慈しまれた)大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず」から始まるモンゴルの国書は尊大かつ丁寧という不思議な文書であった。
 趣旨をまとめると下記のとおりとなる。

・古来より小国の君主であっても領土が隣り合っていれば信頼を構築し、親睦に努めてきた。
・朕(フビライ)が即位してすぐ、高麗の罪なき民が戦争に疲れているのを見て軍事行動を停止し、領土を返し、子供と老人を帰宅させた。
・高麗の君臣は感激し、現在高麗は従属国となっている。
・日本は高麗と親しいのに、使者を送ってこないのはこうした事情を知らないからだろう。
・今後、正式に国交を結んで親睦しよう。軍事力を行使することを誰が望むだろうか。

 文章の書き止めには「不宣」の文言が用いられ、これは対等な関係において用いられるものであるけれど、高麗の例を引用していることから、東アジア古来の華夷秩序における皇帝と王の従属関係を望むものであることは明らかである。

 フビライがこの時点で日本侵攻を意図していたとは考えられない。帝位継承戦争を終えたばかりのモンゴル帝国にはそのような余裕はなかったであろう。しかし、日本側、特に鎌倉幕府は末尾の「軍事力を行使することを誰が望むだろうか」を重く受け止めた。

 なお、日本への使者派遣に先立つ1264年、モンゴル帝国は臣従する吉里迷と呼ばれる人々(一説にギリヤーク族)より樺太から外満洲にかけて居住するアイヌが領土を侵犯するとの訴えを受け、アイヌ征討の軍事行動を起こしている。
 これを「北からの蒙古襲来」と言う人もいるが、当時のモンゴル帝国が樺太と北海道、日本列島の位置関係を正しく把握していたとは思えず、このアイヌ征討と後の日本侵攻は無関係と考えたい。

日本の対応

 幕府から後嵯峨上皇への奏上を受け、朝廷では蒙古国書への対応について連日の評議に入った。関白・近衛基平は国書到来について日記に次のように記した。
「この事国家の珍事大事なり。万人驚嘆のほかなし」
 
 朝廷ではなかなか議論の一致を見なかったが、最終的に「返事をしない」という結論に至った。後嵯峨上皇は幕府の後押しなしには天皇に即位できなかった人物であるし、この頃には朝廷は鎌倉幕府の意見を無視できなくなっていたから、国書への対応について幕府から朝廷に政治的な働きかけがあった可能性は十分に想定できる。

 2月25日、朝廷は22か所の神社に奉幣し、蒙古の危機を報告。以後、「異国降伏」の祈祷が繰り返される。承久の乱によって独自の軍事力を喪失した朝廷にとって、祈願・祈祷は唯一ともいえる戦争手段であった。4月には伊勢神宮と歴代天皇陵にも国家の危機が報告される。

 具体的な軍事力を担う幕府は2月27日、西国の守護に対し「異国用心」が命じられた。幕府の長である征夷大将軍は既に実権を失っていたが、本来の職掌は夷狄(外国、異民族)の征伐である。幕府は本来のアイデンティティを発揮するかの如く、素早く戦時体制を敷いた。

 そして、この頃、鎌倉にいた日蓮は蒙古国書を目にし、為政者が法華経を侵攻しないと外国に侵略される(=他国侵逼難)と予言した自身の『立正安国論』の正しさを確信した。

 

執権・北条時宗
 
3月5日、幕府は前代未聞の人事を行う。連署の北条時宗が執権に就任し、執権であった北条政村が連署に就任した。執権と連署がその役職をそのまま交代したのである。執権経験者が連署に下がったのは先にも後にも例がない。異例の人事であった。

 モンゴル帝国という未知の脅威に直面した鎌倉幕府は、もう北条時宗の成長をのんびりと待つわけにはいかなくなった。時計の針を多少強引に進めてでも、得宗が執権となって政治を主導するという理想形で危機に対応することを選択した。
 北条一門にとって偉大な存在である2代執権北条義時の息子であり、政治経験豊富な前執権・北条政村は幕府の重石である。異例の人事で連署に引き下がっても時宗を補佐することが期待された。
 
 この時、北条時宗は18歳。周囲の期待を背負って成長してきた時宗は、この後生涯をかけてモンゴルの脅威と向き合うことになる。 

第17回に続く。


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