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【異国合戦(15)】将軍宗尊親王の追放

今回から久々に日本パート。
鎌倉幕府の話に戻ります。

前回記事は下記よりどうぞ。

日本パートとしては第10回の続きですが、第10回は番外編的に日蓮の話を書いたので鎌倉幕府の話としては第9回の続き。

これまでの全記事は下記のまとめよりお読みください。


小侍所別当・北条時宗

 モンゴルでフビライとアリクブケの帝位継承戦争が始まった1260年(文応元年)、北条時宗は10歳となった。この年の2月に小侍所別当に就任する。時宗にとって初めての役職就任であるが、これは将軍(鎌倉殿)の警備隊長のようなものと考えれば良いだろう。
 将軍が源氏将軍から摂家将軍、皇族将軍と移り変わり、小侍所別当の職務内容は軍事的なものから形式的な儀礼執行に移り変わりつつあったが10歳の少年に務まるかと言うと、さすがに簡単な話ではない。
 小侍所別当にはもう一人経験豊富で北条一門の金沢実時が先任でいた。実時は2代執権北条義時の孫で、この時37歳。評定衆、三番引付当人という幕府の要職を兼ね、後に和漢の書を収集して金沢文庫を創設することになる賢人であった。

金沢(北条)実時像(国宝)/称名寺所蔵

 わずか10歳の時宗少年を小侍所別当として実時と別当2人態勢とした狙いは、この実時を師として政務と幕府の仕組みを実地で学ぶことにあったように思われる。後に金沢実時は執権となった時宗を支える存在となる。

 翌弘長元年(1261)4月23日、11歳になった北条時宗は正室を迎えた。相手は宝治合戦で三浦氏を蹴落とし、北条氏に次ぐ御家人ナンバー2の地位に昇った安達氏の女性で堀内殿と呼ばれる。堀内殿が2歳の時、父・安達義景が亡くなっており、21歳年上の兄である安達泰盛が親代わりとして堀内殿を養育してきた。安達泰盛も金沢実時同様に、北条時宗を支える重要人物となっていく。

安達泰盛(『蒙古襲来絵詞』より)

 時宗結婚の2日後、前・連署北条重時の極楽寺山荘に招かれた将軍・宗尊親王の御前で騎射の武芸である笠懸が披露されることになった。当時の鎌倉では、馬上から低い位置にある足元の的を狙う小笠懸は遠い的を狙う遠笠懸と比べて廃れていたらしい。
 そのような状況で、さて誰が披露するかという段になり、前・執権の北条時頼は「小笠懸ならウチの太郎(時宗)が得意なので、召し出してやらせましょう」と自身の子である時宗を推薦した。
 突如、呼び出された時宗は父・時頼の期待通りの小笠懸の腕前を披露し、時頼は「我が家を継ぐ器量だ」と称賛。将軍宗尊親王も時宗の腕前に度々、感嘆の声を漏らしたという。
 父・時頼の親バカエピソードであるが、この場の主催者で時宗の母方の祖父である北条重時も共犯だろう。時頼・重時は時宗が幕府の未来のリーダーであることを将軍と御家人たちに印象付けるためにこの小笠懸の場を用意した。
 結果、この将軍御前の小笠懸は、父・祖父の思惑通りのものとなった。

祖父と父の死

 時宗の小笠懸の披露から約半年後の11月3日、北条重時が亡くなった。時宗の後見人的立場にあった親しい祖父であり、時宗も悲しんだことだろう。
 同年12月23日、時宗は朝廷より従五位下左馬権頭に任じられる。初めての任官、徐爵であった。
 弘長3年(1263)11月22日、北条時頼が37歳で亡くなった。時頼は11月に入ってから体調を崩しており、病の快癒を祈る祈祷が繰り返されていたが、事態が好転することなく亡くなった。父を悼む時宗の言葉は伝わっていない。
 祖父、父を相次いで亡くした時宗であったが、反北条、反得宗勢力が政治的行動を起こすことは無く、将来的に時宗が執権に就くという路線が揺らぐことは無かった。父・時頼は安定した政権基盤を時宗に残して世を去った。

北条時宗、幕政の中心へ

 文永元年(1264)5月3日、一番引付頭人の大仏朝直が没した。朝直は2代執権北条義時の弟・北条時房の四男で、父同様に得宗家を支えてきた北条氏の重要人物であった。
 これにより訴訟審理を担当する一番~三番の引付頭人はそれぞれ名越時章、金沢実時、安達泰盛が就任することになった。時宗に近い金沢実時と安達泰盛と同時に反得宗の家風を持つ名越家から時章が選ばれたことが注目される。時章は得宗家との対立を避ける穏健派であったとも言われるが、名越家復権の兆しを見出すことができる。
 同年7月3日、執権・赤橋長時が重病となり、辞職した。連署であった北条政村が執権に昇進し、空いた連署に14歳となった時宗が就任した。14歳での連署就任はもちろん史上最年少である。時宗がついに政権中枢の職に就いた。
 得宗(北条氏嫡流)で連署に就任したのは時宗だけである。執権ではなく連署への就任となったのはさすがに年齢の若さと政治経験の無さを考慮した結果であろう。幕府首脳は「将来的に時宗体制を確立させる」という方向性で固まっており、ここは時宗の成長を待つこととなった。前・執権赤橋長時は病状回復せず、8月21日に35歳で他界した。

 10月、時宗の兄・北条時輔が六波羅南方探題に任じられ、鎌倉から京へ向かった。時輔は第9回でも解説した通り、母親が正室ではない身分の低い女性であったために長男でありながら「三郎」と名付けられた時宗の兄である。
 この人事については「鎌倉追放=左遷」とする見解と「得宗近親者の地方赴任の画期」とする見解で研究者の中でも意見が分かれる。
 私はこの人事を左遷と見なすのは無理があると見る。まず、六波羅探題が左遷ポストとして使われたと思われる例が他にないということ、加えて左遷しなければならないような敵対者を朝廷内の反幕府(得宗)勢力と結びつきやすい京に送るのはリスクでしかないということがその理由だ。
 時輔が就任するまで六波羅南方探題は22年間空席で、六波羅は北方探題1名のみという体制が続いていた。幕府首脳の狙いは新体制の始まりの画期として得宗近親者の中で適齢期にある時輔を六波羅に送り込み、京と西国の統治を強化するのが目的だったのではないだろうか。
 つまり、幕府首脳にとってこの時点における北条時輔は「得宗家の一員として将来の時宗政権を補完する存在」であり、積極的な敵対者ではなかったと考えて良いだろう。もちろん潜在的には時宗の地位を脅かす可能性のある人物と見なされてはいたであろうが、時輔はこの時まだ17歳である。左遷に値するような具体的な「反時宗」の行動と意志は無かったであろう。

得宗権力確立に向けて

 文永2年(1265)1月5日、15歳となった北条時宗は従五位上に叙せられ、同月30日には但馬権守、さらに3月28日には相模守に任じられた。鎌倉幕府の本拠地である相模国の国守、相模守は歴代の執権・連署が任官してきた。時宗の父・時頼にとっては極官でもある。
 時宗は、15歳という年齢にして官位の上で亡き父に並ぶことになった。
 
 さらにこの年も幕府の人事異動が続いた。6月11日、評定衆が12名から15名に、引付衆が5名から9名に拡充された。新任の引付7名のうち4名が北条一門であり、御家人の中で北条一門の影響力が突出する構図がより鮮明となった。
 ただ、前年の名越時章の一番引付頭人就任に続いて、弟の教時が引付衆から評定衆に昇進し、子の公時が引付衆に就任したことで名越家の影響力が拡大したことは見逃せない。時頼政権の時代に政争で敗れた名越家は、完全にかつての地位と影響力を取り戻しつつあった。
 こうして拡充された引付であったが、翌文永3年(1266)3月に突如廃止される。これにより「重事は執権・連署が直接聴断し、細事は問注所に仰せ付ける」というという決定がなされた。
 訴訟審理の効率化のために設置された引付の廃止は、来たる時宗政権誕生に向けた得宗権力の強化と位置付けられよう。蒙古襲来を前にして既に時宗は強いリーダーシップを発揮することが期待されていた。

将軍追放

 文永3年(1266)7月4日、6代将軍宗尊親王が突如として京へと送り返された。それに先立つ6月20日、執権・北条政村、連署・北条時宗、金沢実時、安達泰盛の4名が時宗邸に集い、「深秘御沙汰」が開かれた。幕府の組織図には存在しない首脳部の秘密会議である。おそらくこの場で将軍追放が決議されたのであろう。
 この時、宗尊親王は25歳。将軍(鎌倉殿)としての自覚を強め、和歌を通じて一部の御家人と親密な関係を築きつつあった。
一方、時宗は宗尊親王より9つ年下の16歳。将軍が得宗(執権)より年上だと政情不安となり、得宗権力が危うくなるのは4代将軍九条頼経と北条経時の時代に経験している。得宗が強い権力を振るうには将軍は政治に関心がないか、幼年である必要があった。つまりは飾り物である。時宗が強いリーダーシップを発揮する政権を構想する幕府首脳にとって宗尊親王は最早障害でしかなかった。

 宗尊親王は正室の宰子が祈祷僧・松殿僧正良基と不倫をしたという理由で追放されることになった。後にも先にも妻の不倫が理由で職を追われた征夷大将軍は他に存在しない。
 宗尊親王が京へ向かう日、名越教時が甲冑姿の武士数十名を引き連れてあらわれた。抗議の示威行動であることは明らかであり、時宗によって制止され、引き返した。得宗主導の政治体制を快く思わない勢力にとって将軍追放は受け入れがたい事態であった。宗尊親王の追放を最後に、「将軍派」ともいえる将軍を中心とした反得宗勢力は壊滅し、鎌倉幕府が消滅するその時まで復活することもなかった。
 鎌倉を出た宗尊親王は7月20日に京に到着し、六波羅北方探題の常葉(北条)時茂邸に入った。この宗尊親王の追放が得宗権力の確立の一つのゴールであったことを示すように、幕府の史書『吾妻鏡』はここで幕を閉じる。

 7月24日、宗尊親王の皇子・惟康王が征夷大将軍に任じられ、第7代将軍となる。年齢はわずかに3歳。幕府首脳の望み通りに幼年の将軍となった。
 こうして幕府首脳部により着々と北条時宗政権が準備されつつあった。

第16回に続く。

 

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