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【異国合戦(14)】モンゴル帝国による朝鮮侵攻の歴史

 今回はフビライ・ハーンの皇帝即位から少し時間を巻き戻し、モンゴルによる朝鮮侵攻について。
 モンゴル帝国全体の歴史から見れば重大な軍事作戦ではないかもしれませんが、日本侵攻の前史としては重要であることは言うまでもありません。

前回記事は下記のとおり。

これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。



高麗の武臣政権

 日本で鎌倉幕府が、そしてモンゴル高原でモンゴル帝国が生まれた頃、朝鮮半島を統治していたのは高麗国であった。高麗は、鎌倉幕府やモンゴル帝国と比べると「先輩」で歴史は古い。西暦892年にそれまで半島を統一していた新羅が分裂し、それを936年に統一したのが高麗であった。
 高麗では両班と呼ばれる文臣と武臣の貴族階級が存在したが、長く文臣優位の社会が続いた。王室は文臣を優遇し、武臣は見下され、蔑まれた。武臣は明確に文臣の下位に置かれた。
 高まる武臣たちの不満は1170年にクーデタとなって爆発し、以後高麗は武臣政権の時代に入る。日本では平清盛が政治に強い影響力を持っていた時期であり、日本と朝鮮半島は同時期に武臣の時代を迎えた。
 日本で源平が争ったように、高麗でも武臣同士の権力闘争が繰り広げられたが、1196年に崔忠献が権力を握ると徐々に政治は安定するようになる。高麗はこの崔氏政権でモンゴル帝国の圧力と向き合うことになる。 

モンゴル帝国と高麗の出会い

 モンゴル帝国と高麗の最初の交わりは1218年のことである。モンゴル帝国と金国の戦争の過程で、金国から自立した契丹人の一部が遼東地方から高麗国境を占領する。これをモンゴル帝国が攻撃したことで、追われた契丹人はさらに南下し高麗へと侵入した。ここにモンゴル帝国と高麗は共同して契丹人討伐の軍事行動を行うことになり、後遼とも呼ばれる契丹人政権を滅ぼした。
 以後、モンゴル帝国と高麗は、使者が往来する友好関係が築かれる。これは勿論、モンゴル帝国を上位とする冊封関係であった。
 しかし、1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きる。この時、チンギス・ハンはホラズム侵攻時に裏切った西夏への懲罰遠征を優先し、高麗への対応は後回しにされた。1227年にチンギスが崩御したこともあり、モンゴル・高麗関係は途絶えたまま何事もなく時が流れた。
 しかし、モンゴル帝国は使者が殺されたことを忘れてはないなかった。1231年、第2代皇帝のオゴタイは高麗に対し、6年前の使者殺害を口実に侵攻することを決断した。

モンゴル、高麗に侵攻す

 オゴタイ・ハーンはサルタク・コルチという将軍に兵を与え、高麗に侵攻させた。高麗の将軍である洪福源が寝返ったこともあり、モンゴル軍は一気に南下し、首都・開京を攻め落とした。高麗は降伏し、72人のダルガチ(徴税官)を駐留させることを飲む。
 下に引用した絵はルーシ遠征でも引用したモンゴルのダルガチ=バスカク。トルコ語だとバスカク、モンゴル語だとダルガチになる。

ルーシではタタールのくびきの象徴

 モンゴル帝国は民族と宗教に関係なく長く仕えた者を重んじる。高麗人で真っ先に寝返った洪福源と洪氏一族は以後帝国で重用されることになる。後にこの洪福源の次男・洪茶丘が日本に侵攻する元軍の将の一人となる。
 降伏した高麗であったが、武臣政権の指導者である崔瑀は72人のダルガチを皆殺しにし、朝廷を洋上の江華島へと遷した。当然これは和約違反であり、以後、モンゴル帝国による高麗侵攻は繰り返されるようになる。
 
 中華世界とイスラム世界の堅城をいくつも攻め落としてきたモンゴル帝国であったが、洋上の孤島を攻め落とす経験はなかった。江華島に引きこもった高麗政府をモンゴル軍は攻めあぐねた。モンゴル帝国と高麗の講話のための交渉は幾度も行われたが、モンゴルが求める国王の出陸(江華島を出て開京に戻る)を高麗政府は飲まなかった。
 結果、モンゴル帝国の矛先は朝鮮半島本土に向けられ、半島全土が繰り返される侵略で焦土と化すことになった。
 高麗は善戦し、将軍サルタク・コルチを討ち取るという戦果もあげた。しかし、政府の長期の抗戦は結果的に民を苦しめることになった。

フビライの登場、高麗の臣従

 断続的に国土が蹂躙され続けることで、高麗の継戦能力と意志は削がれていった。高麗は徹底抗戦で一致団結し続けることが難しくなる。
 最初のモンゴルによる高麗侵攻から27年が経過した1258年、武臣政権の長である崔竩が暗殺される事件が起き、高麗は遂にモンゴルへの降伏を決める。翌1259年、国王高宗の代理として世子である王倎がモンゴルへと向かった。
 しかし、その途上で第4代皇帝モンケ・ハーンが崩御する。王倎は結果的に、南宋侵攻から帰還途上でこれから帝位継承戦争に臨むフビライに拝謁することになった。王倎はモンゴルの帝位継承戦争においてフビライとアリクブケのどちらかを積極的に選べる立場だったわけではなかったが、フビライとの邂逅は勝ち馬に乗るという結果を生んだ。
 父・高宗が崩御すると、王倎はフビライの許可を得て高麗へと戻った。これは皇帝フビライが高麗王に任じる冊封であり、高麗がモンゴル帝国に従属する方向性が固まった。
 国王となった王倎は後に元宗と呼ばれる。そしてその王子である王諶はこの後フビライの娘を王妃に迎え、高麗王家はモンゴル帝室の縁戚となるのであった。

第15回に続く。


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