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【異国合戦(4)】チンギス・ハンとモンゴル帝国

 今回は海を越えてモンゴルの話です。
 前回記事は下記よりどうぞ。

これまでの記事は下記にまとめてあります。


モンゴル帝国の誕生

 西暦840年におよそ100年間モンゴル高原を支配した遊牧国家ウイグルが崩壊すると、その後、長くモンゴルには統一政権が生まれず、混乱の時代が続いた。そんな中、12世紀末になってモンゴル部に生まれたテムジンが頭角を現すようになる。
 モンゴル部は小さな集団であったが、テムジンは華北を支配する金国の皇帝から王(オン)の称号を与えられたモンゴル高原最大勢力・ケレイト部のオン・ハンと結び、諸部族を次々と打ち破っていった。
 オン・ハンとテムジンは、勢力と身分に大きな格差があり、2人の関係はオン・ハンを上位とする実質的な従属関係に近かったと考えられる。金国皇帝を頂点とする世界で王に任じられたオン・ハン、そのオン・ハンの臣下同然の立場にいたのがモンゴルのテムジンだった。
 しかし、テムジンとオン・ハンの関係は13世紀になって悪化し、1203年になってケレイト側が戦争を仕掛け完全に破綻する。当初はケレイトが優勢に戦いを進めたが、最終的にはモンゴルが巻き返し、ケレイトはモンゴルの軍門に降る。オン・ハンは敗走中にナイマン部との国境付近で国境を守る部隊によって討たれた。これにより、テムジンはオン・ハンが進めていたモンゴル高原統一の成果を引き継ぐことになり、1205年に遂にそれを達成する。
 1206年春、テムジンはオノン河上流で諸部族長と功臣を集めて即位式を挙げ、新たにチンギス・ハンを名乗った。そして諸部族を統合する国家として「イェケ(大)・モンゴル・ウルス(国)」の建国を宣言する。
 こうして一般的にモンゴル帝国と呼ばれる国家が産声を上げた。

征服戦争の開始

 モンゴル帝国を建国したチンギス・ハンは遊牧民の組織化に取り掛かった。麾下の遊牧民を95の千人隊に編成し、千人隊長には戦争に協力した部族長たちを任じた。千人隊の下には百人隊、その下には十人隊と全て十進法で組織化された。
 戦時には千人隊は1000人の兵を供出する義務を負い、それに見合う報酬を得る権利を持った。この点、率いる武士団の規模にバラつきがあった鎌倉幕府の御家人とは大きく異なる構造である。
 帝国の組織化を一段落させると、チンギス・ハンはいよいよ征服戦争に乗り出す。それは、まず南方の中華世界への挑戦で幕を開けた。
 
 ここで簡単に当時の中華世界を整理しておこう。

『最新世界史図説タペストリー』(帝国書院刊)より

 当時の中華世界には統一王朝が存在しなかった。唐の滅亡から72年間の五代十国時代を経て中華世界を統一したのが宋であったが、満洲から侵攻してきた金に華北を奪われ、淮河以南へと追いやられていた。華北を失陥し、首都を臨安(現在の杭州市)に遷して再興された1127年以降の宋を一般的に南宋という。
 金は満洲に居住していた女真族が建国した国であり、漢民族の宋を華南へと追いやって満洲から中国東北部の華北を支配する大国であった。モンゴル高原にも長く影響力を持ち、ケレイトのオン・ハンを王に任じたのは前述したとおり。チンギス・ハンもオン・ハンの路線を踏襲し、表向きは金に臣従し、貢物を献上する朝貢を維持していた。
 しかし、この頃、金は北方遊牧民の離反、財政の窮乏、漢民族への同化などの要因が重なり、弱体化が進んでいた。
 中国西北部を統治していたのがチベット系民族タングートの王朝、西夏である。金の侵攻以前に宋から独立して建国され、独自の西夏文字を持つことでも知られる。長く金に服属することで安全を保ってきた。
 チンギス・ハンの征服の第一撃はこの西夏に降り降ろされた。
 
 1205~1209年にかけてモンゴルは西夏に対し、3度の侵攻を実施する。西夏は国土を蹂躙され、最後は公主(王女)を差し出して降伏し、モンゴルの属国となった。
 1211年に天山ウイグル王国を戦うことなく服属させると、勢いに乗るチンギス・ハンはこれまで朝貢を続けてきた金国と遂に断交し、征服を開始する。
 
 モンゴルの金への戦争は、本国にわずかな兵しか残さない挙国一致の総力戦となった。モンゴルはここでも戦争を優位に進め、1213年に首都・中都(現在の北京)を包囲する。金は莫大な貢物と公主(皇女)を差し出すことを条件に和平を求め、モンゴル軍はこれを受諾して撤退した。
 しかし、翌年、金が首都を開封へと遷都すると、チンギス・ハンはこれを不誠実な和約違反と見なし、侵攻を再開する。1215年5月にはモンゴル軍は中都を陥落させ、これにより金は黄河以北の領土を失い、華北の大国から一地方政権へと転落した。
 モンゴル帝国はこの西夏、金との一連の戦争の中で、モンゴルの草原では経験しなかった攻城戦を学習した。この攻城戦の経験は以後の征服戦争で大いに活かされることになる。
 なお、後に日本へと侵攻するチンギス・ハンの孫、フビライはこの年に生まれたとされる。 

 ホラズム・シャー朝との対決

 中都を陥落させたチンギス・ハンは配下の将軍ムカリに華北の戦争と統治を任せ、モンゴル高原へと引き上げた。そして2年間兵を休ませると、中央アジアへの侵攻を開始する。
 
 当時の中央アジアにはモンゴル同様、領土を拡大し続ける大国が存在した。ホラズム地方のウルゲンチ(現在のウズベキスタンの都市)を本拠としたイスラム王朝ホラズム・シャー朝である。
 1200年、第7代スルターンとしてアラー・アッディーン・ムハンマドが即位すると、ホラズム・シャー朝は急速に勢力を拡大するようになる。
 モンゴルが金に朝貢していたように、ホラズム・シャー朝は長くトルキスタンの西遼に朝貢を続けていた。アラー・アッディーンの代になって西遼の支配を脱し、中央アジアのオアシス地帯マー・ワラー・アンナフルを制圧する。1215年にはアフガニスタンのゴール朝を滅ぼし、1217年にはアッバース朝と対立し、イランの大部分を支配下に置いた。これによりホラズム・シャー朝はイスラム世界の覇者へと上り詰めた。
 
 モンゴル帝国のチンギス・ハンとホラズム・シャー朝のアラー・アッディーン・ムハンマド、両者は同時代に生まれた傑物であった。同じ東方ユーラシアにあって両者は互いにその存在を認識しており、使節団を送り合って友好関係を構築していた。しかし、双方が領土拡大を続ける以上、対決は必然であったと言うしかない。
 1218年、モンゴルが西遼に侵攻し、これを滅ぼしたことでモンゴル帝国とホラズム・シャー朝は遂に国境を接することになった。そして、同年、モンゴルが派遣した通商使節団がホラズム領内のオトラルで捕縛され、殺害される事件が起こる。
 モンゴルはオトラル総督の処罰を求めるが、これをアラー・アッディーンが拒否したことで、翌年、チンギス・ハンは自らジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイの皇子たちを含む軍勢を編成し、ホラズム領へと報復戦争を仕掛けた。
 モンゴルの侵攻に対し、ホラズムは軍隊を各都市に分散させて防衛する戦略を取った。ホラズムが野戦を選ばなかったことには様々な見解がある。モンゴルの騎兵を恐れた、長期戦に持ち込んでモンゴルを疲弊させる狙いであった、諸部族の寄り合い所帯のため野戦だと裏切りの可能性があった等であり、どれも決定打に欠けるが、ともかくホラズムの防衛戦略は破綻し、各都市はモンゴルによってあっさりと各個撃破された。
 アラー・アッディーン・ムハンマドは新しく首都としていたサマルカンドから逃亡し、1220年12月に逃亡先のカスピ海上の小島で病没した。
 チンギス・ハンの本隊はアフガニスタン方面へと侵攻。アラー・アッディーンの跡を継いでスルターンとなったジャラール・アッディーンを追って南下を続け、1221年春に遂にインダス河畔で追いつき、撃破するが、ジャラールはモンゴル軍の包囲を突破してインダス川を渡ってインドへと逃れた。
 チンギスは配下の将軍にインド北部まで追撃させるが、ジャラールを討ち取ることはできず、1222年夏にチンギスは全軍に退却を伝達する。チンギスはゆっくり時間をかけてモンゴルへの帰路を進み、1225年2月にようやくモンゴル高原に帰還した。
 このホラズム・シャー朝との戦争によりモンゴルは多くの都市を破壊し、多くの民を虐殺し、多くの戦利品を得て、多くの奴隷を連れ帰ったと言われる。しかし、これは多くがイスラム世界の史書を典拠としていることに注意が必要だろう。軍事面で勝ったモンゴルも学問、文字で記録するという文化についてはイスラム世界に遅れていた。
 これは日本における鎌倉武士を見る京都の貴族たちの視点に似ている。偏見と誇張が含まれている可能性を踏まえて理解するべきだろう。 

最後の戦争

 長い西征の旅路を終えて帰国したチンギスであったが、翌1226年には征服戦争を再開する。その対象はかつて臣従させた西夏であった。
 西夏はモンゴル帝国に服属する立場でありながら、ホラズム・シャー朝との戦争への派兵を拒否していた。それどころかモンゴル帝国が遠征中に金と結び、反抗することを企んだ。西夏への再征はチンギスにとって裏切り者への懲罰であった。
 しかし、これがチンギスにとって最後の戦争となる。チンギスは自ら軍を指揮し、1227年夏には西夏を滅ぼすが、その直後に危篤となり、8月18日に陣中で崩御した。
 繰り返される征服戦争とその成功で世界に名を轟かせた英雄チンギス・ハンは最後までその身を征服の戦地に置いて生涯を終えた。 

その時日本では

チンギス・ハンが生きた時代、日本では何が起きていたのか。
簡単にまとめると下記のようになります(太字はモンゴルの出来事)。

1203年 モンゴル部がケレイト部に勝利する
1205年 北条義時が父・時政を追放
1206年 モンゴル帝国建国
1211年 モンゴル帝国、金国に侵攻
1213年 和田合戦
1219年 モンゴル帝国、ホラズム領に侵攻
    3代将軍源実朝が暗殺される
1221年 承久の乱
1222年 モンゴル帝国がホラズムとの戦争を終える
1224年 北条義時死去
1225年 北条政子死去
1226年 九条頼経が4代将軍に就任
1227年 チンギス・ハン崩御

第5回につづきます。


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