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【異国合戦(3)】華麗なる一族・九条家の栄華と限界

 今回は京の朝廷から見た承久合戦後の政治史。
 その中心が摂関家の貴公子・九条道家。

 前回記事も是非お読みください。

九条道家

  承久合戦の敗戦により、朝廷は3上皇流罪という未曾有の事態を迎えた。後鳥羽上皇を支えた公家も厳しい処分を受け、政治の中心から追われた。それは摂関家の名門である九条家も例外ではなかった。
 承久合戦の際、九条家の当主・九条道家は摂政であった。姉・立子は順徳天皇の中宮であり、天皇が後鳥羽上皇の計画に加わるために仲恭天皇に譲位すると、叔父の道家が摂政として新帝を支える体制が構築された。道家自身は後鳥羽院の計画に積極的に加わったわけではなかったが、合戦が幕府の勝利に終わると、仲恭天皇は皇位を廃され、道家も摂政を罷免される。この時の摂政在任期間はわずか3か月足らずであった。
 しかし、嘉禄2年(1226)1月、鎌倉に下向していた三男・頼経が征夷大将軍に就任したことで道家にも復権の道が開かれる。さらに、道家にとって幸運なことに岳父の西園寺公経が幕府との調整を役目とする関東申次を務め、幕府との関係も良好であった。安貞2年(1228)12月、道家は後堀河天皇の関白に任じられ復権を果たすことになる。承久合戦の際の摂政罷免から7年後のことであった。

摂関家の栄華を再び

 我が国において武家政治は源頼朝の鎌倉幕府創設(あるいはそれ以前の平家政権)から徳川慶喜の大政奉還まで600年以上続くが、同一の家門が将軍と摂関を独占したのは後にも先にもこの摂家将軍の時代しかない。九条道家の復権により、父が関白で子が征夷大将軍という状況が生まれ、道家は朝廷と幕府の政治どちらにも影響力を行使することが可能な立場となった。
 摂家将軍の誕生により、九条家に所縁のある貴族が鎌倉に下向し、そのまま将軍に仕えることも増えた。本来、御家人とは源頼朝に忠誠を誓った武士とその子孫であったが、こうした京から下って将軍に仕えるようになった貴族を関東祗候の廷臣と呼び、地頭職を得て御家人となる者もいた。彼らの幕府への参画により、幕府の文書行政のレベルは向上し、鎌倉における和歌や蹴鞠等の文化も発展した。
 寛喜3年(1231)2月12日、後堀河天皇の中宮となっていた道家の長女・竴子が天皇の第一皇子・秀仁親王を産んだ。これで自身の権力基盤が安定したことを確信したのか、道家は7月には長男・教実に関白を譲って太閤となり、10月には思惑通りに秀仁親王を皇太子に立てる。貞永元年(1232)10月、後堀河天皇が譲位し、わずか2歳の秀仁親王が践祚する。87代四条天皇である。
 当初は後堀河上皇が院政を行うが、上皇は2年後の天福2年(1234)に崩御し、九条家が朝廷の主導権を握る体制が確立する。摂政で長男の九条教実が文暦2年(1235)にわずか25歳で薨去したことは道家にとって想定外のことであっただろうが、自身が摂政に復帰することで九条家の権勢を維持した。
 こうした九条家の政治的躍進の中で、同じ摂関家として対抗関係にあった近衛家とは大きく差がつくことになった。しかし、道家は近衛兼経に娘の仁子を嫁がせ、さらに摂政の職を譲ることで両家の融和に努める姿勢も見せている。
 幼き頃の道家を育てた祖父・九条兼実は平家の台頭から鎌倉幕府創設、後鳥羽上皇の登場という動乱の時代を生き抜き、藤原道長の頃の摂関家全盛の時代を取り戻すことを夢見た人物であったが、この頃、道家はその意思を受け継ぐかのように確かに九条家に栄華を取り戻しつつあった。

九条家の限界

 文暦2年(1235)4月、京で権勢を誇る九条道家が大きな勝負に出る。承久合戦の結果流罪となった隠岐の後鳥羽上皇、佐渡の順徳上皇の還京を鎌倉幕府に求めたのである(土佐に流された土御門上皇はこのとき既に崩御)。
 合戦から14年。道家は後鳥羽院の計画に深く関与したわけではなかったが、それでも関東の武士たちによって朝廷が屈服させられ、言われるがままに処分を受け入れざるを得なかったという事実は誇り高き摂関家の当主として屈辱に感じたはずである。二上皇の還京は朝廷の屈辱の歴史を払拭する意味を持った。
 しかし、幕府の意向は「戦後体制」の維持であり、二上皇の還京を承諾しなかった。幕府からの返書は執権・北条泰時名義で送られ、道家にとって子であり幕府の長であるはずの将軍・頼経からは返事がなかったという。
 ここに九条家の限界があった。朝廷においては圧倒的な権勢を誇り、幕府の長であるはずの征夷大将軍が自分の子でありながら、摂政・九条道家は自分の意思を鎌倉幕府に通すことができなかった。源頼朝の時代と違い、将軍は独裁的な権力者ではなく、幕府は御家人の合議によって運営されるようになり、その合議の場である評定に将軍の席はなかった。
 そして承久合戦の敗戦で朝廷の武力は事実上解体しており、幕府の力を借りなければ京の治安維持すら不可能になっていた。武力で幕府の意思を捻じ曲げるという選択肢は最早存在しない。
 こうして九条道家は、頼経を核とした「将軍派」を幕府内に組織し、幕府の合議の主導権を握るという方向性に走ることになる。

将軍・頼経の上洛

 暦仁元年(1238)2月17日、将軍・九条頼経が執権・北条泰時、連署・北条時房らを引き連れて上洛した。将軍の上洛は建久6年(1195)の源頼朝以来、43年ぶりであった。
 そして、これにより九条道家と頼経はおよそ20年ぶりの親子の対面を果たす。鎌倉に下向した三寅と呼ばれた当時の頼経はわずか2歳だったから、父の顔を覚えてはいなかったはずで、初対面に近い感動的な再会となったことであろう。この時、頼経は約9か月、京に滞在した。後鳥羽・順徳二上皇の還京を巡って亀裂の走った幕府と九条家の関係であるが、この親子の再会により関係修復が演出されたものと考える。
 しかし、再度の幕府との意見の衝突で九条家の権勢は下降線をたどることになる。

仁治3年の皇位継承問題

 仁治3年(1242)1月9日、道家が外祖父として支えた四条天皇が12歳で突如、崩御する。宮中の女官を転ばせようと悪戯で御所の廊下に小石を撒いたところ誤って自分が転倒したことが死因と伝わる。これにより幕府が後鳥羽院の皇統を排除して擁立した後高倉院・後堀河天皇の皇統が断絶した。
 皇太子が定められていない中での緊急事態に九条道家は順徳上皇の皇子である忠成王を推し、皇位につけるべく準備を進めた。後鳥羽上皇の正統な後継者であった順徳上皇の皇子・忠成王を推すということは皇位継承を「正道」に戻すということに他ならない。九条家以外にも多くの貴族がこれに賛同したが、これは単に利害や派閥の問題ではなく、忠成王が皇位につくことが貴族社会で道理であると広く考えられていたことが要因と思われる。
 しかし、幕府は忠成王が皇位につくことに強く反発する。当時、順徳上皇はまだ佐渡に存命であり、忠成王が即位すれば帰京して院政を行う可能性があった。後鳥羽上皇の計画に積極的に参加し、対幕府強硬派だった順徳上皇の復権は幕府として受け入れがたい。結果、幕府は忠成王と同じ後鳥羽上皇の孫であるが、後鳥羽上皇の計画に消極的だった土御門上皇の皇子・邦仁王を推す。幕府はこれを「鶴岡八幡宮の神意である」と強硬に主張し、正月20日、邦仁王が践祚する。88代後嵯峨天皇の誕生である。
 後鳥羽上皇の皇統を排除する「戦後体制」はこの時終焉を迎えたが、それは九条家と貴族社会ではなく、鎌倉幕府によって成された。しかし、それは多くの貴族たちが「正道」と考えた順徳上皇の名誉回復、その皇子による皇位継承という形ではなかった。
 幕府が皇位継承に強く関与して道理が捻じ曲げられたこと、皇位に11日の空白が生まれたことは朝廷の貴族たちに強い衝撃を与えた。そして、九条道家にとってはまたしても自身の意向を幕府に潰される結果となった。

そして衰退へ

 後嵯峨天皇の即位によって朝廷の主導権を握ることになったのが道家の岳父で関東申次の職にあった西園寺公経だった。公経は当初、道家と協調して忠成王即位に動いたが、幕府の意向を知ると掌を返し、後嵯峨天皇(邦仁王)に接近した。
 3月25日、公経の働きかけにより関白が道家の次男・二条良実に交代する。良実は父と不仲である一方、祖父の公経に可愛がられていた。さらに公経は天皇の中宮として孫の西園寺姞子を入内させることにも成功する。こうして天皇の周辺が西園寺公経の関係者によって固められると、新帝と血縁の繋がりがない九条道家の政治力は失われていった。
 寛元2年(1244)8月、公経が亡くなると道家は関東申次職を強引に継承、関白には不仲の次男・良実に代えて寵愛する四男・一条実経を据えることで権勢を回復する。
 しかし、それは一時的なものに過ぎなかった。

 寛元4年(1246)6月、鎌倉で「将軍派」の名越光時を中心とした執権・北条時頼排除の計画が失敗に終わる。(前回記事参照)
 前将軍で大殿・九条頼経の父であり、関東申次を務める九条道家が黒幕であった可能性が濃厚だろう。幕府は混乱に乗じて道家が後嵯峨上皇、御深草天皇を廃して「六条宮」を皇位につけようと企んだと疑ったという。長く「六条宮」とは後鳥羽上皇の皇子で順徳上皇の同母弟である雅成親王と考えられてきたが、近年になって道家が仁治3年にも皇位に推した忠成王のことだとする見方が提示されている。私もこの見解を支持したい。
 7月、九条頼経が鎌倉から京へ送還され、10月には「六条宮」擁立の嫌疑をかわしきれず道家は関東申次を外される。後任には西園寺公経の嫡子・西園寺実氏が就いた。
 翌寛元5年(1247)1月、道家が支える一条実経が摂政を罷免され、宝治元年(1247)6月には鎌倉で宝治合戦が起こり、「将軍派」は壊滅に追いやられた。こうして九条道家は政治的に完全に失脚することになる。
 約20年にわたってポスト後鳥羽院政として朝廷を主導し、京と鎌倉を繋いだ「九条家体制」であったが、最後まで北条得宗家の権力を制することができず、崩壊した。 

補足的な余談

 後鳥羽上皇は自分の後継者である順徳上皇を支える九条家を通して幕府をコントロールするつもりで三寅(九条頼経)を鎌倉に送ったのだと思うのですが、結局、後鳥羽上皇も順徳上皇も京を追われて戻ってくることはなく、道具としての九条家のみが残されたというのが「九条家体制」でしょう。道具を十全に使える存在がいないのだから、崩壊は必然でした。  
 どれだけ権勢を誇っても臣下である九条道家に後鳥羽上皇の役は務まらないのです。

 なお、現在の九条家当主・九条道成氏は明治神宮の宮司を務めておられます。

 下記記事に続きます。


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