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【異国合戦(13)】帝位継承戦争

今回は第5代大ハーンの地位をめぐる帝位継承戦争について。

前回記事は下記よりどうぞ。
この連載になって過去最多のPV数でした。
目を通していただいた方はありがとうございます。

これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。


2人の皇帝

 モンゴル帝国の第4代大ハーン(皇帝)・モンケは南宋攻略の戦地で没した。留守を任されていたモンケ旧臣や后たちが後継者に推したのはモンケと母を同じくする四兄弟の末弟アリクブケであった。彼らがアリクブケを推したのは、アリクブケが首都カラコルムに留まり、フビライが戦地にあったこともあるが、やはり対南宋戦争の方針で先帝と対立したフビライを心情として推したくなかったというのもあるだろう。
 
 一方、南宋攻略から引き揚げてきたフビライ軍は旧金国の首都である中都付近で越冬すると、1260年4月には本拠である開平府に戻り、自身を支持する諸将たちのみを集めたクリルタイを開催し、一方的に皇帝即位を宣言した。
 フビライは、弟・アリクブケから求められた先帝モンケの葬儀への出席に応じなかった。
 
 フビライの一方的な皇帝即位の宣言によりアリクブケも対立を覚悟する。1260年5月、カラコルム近郊にてクリルタイを開催し、皇帝に即位した。
 ここにモンゴル帝国は史上初めて2人の皇帝が並び立つこととなった。
 正統性ではアリクブケが上回っていたといえる。周囲のわずかな支持層のみでクリルタイを開催したフビライに対し、アリクブケのクリルタイには西征中のフレグの次男・ジョムクル、チャガタイ家の女当主オルガナら政治的に距離のある他家の有力者の姿もあった。先帝の葬儀を取り仕切り、首都カラコルムを押さえていたことも大きい。
 フビライ派は反乱軍同然の立場であったと。

帝位継承戦争

 モンゴル帝国初の帝位継承戦争は、フビライ陣営の圧倒的優勢ではじまった。皇帝即位からわずか4か月後の8月にはカラコルムを陥落させている。
正統性はたしかにアリクブケ陣営にあったかもしれない。しかし、フビライ陣営に加わった諸将、諸部族がフビライという男に帝国の未来と自身の人生を賭けて加わったのに対し、アリクブケ陣営は前政権からの流れに任せて加わっただけの者が多い。これは両陣営の戦意の差としてあらわれたことであろう。
 そもそも、モンゴル帝国は中東・地中海方面への西征と南宋侵攻の二大軍事作戦を展開中であり、首都カラコルム周辺に十分な兵力が残されていたとは考えづらい。アリクブケが動員できる戦力は限定的であった。
 さらにフビライ陣営の支配権にある華北からモンゴル高原への物流が制限され、アリクブケ陣営は食糧調達に苦しむようになる。経済封鎖の有効性は今も昔も変わらない。
 こうした状況では、フビライ陣営優勢で戦争が進むのは自明であった。
 
 苦しいアリクブケ陣営の一手がチャガタイ家への干渉であった。自身と親しい傍流のアルグに対し、チャガタイ家当主の地位を約束するから食糧を送れといってチャガタイ家領に送り出した。
 アルグはアリクブケの後押しで女当主オルガナを廃し、自身の妃とし、新たなチャガタイ家当主に就く。しかし、アルグはすぐさまアリクブケ陣営に反旗をひるがえし、フビライ陣営と手を握った。
 チャガタイ家は前皇帝のモンケに弾圧され、帝国内の影響力を大きく減じていた。モンケ政権のブレーンを引き継ぐアリクブケ陣営は仇敵に等しい。アリクブケのお墨付きを得て帝国中央の傀儡でしかなかった女当主オルガナを廃することができたのはアルグにとって好都合でしかなかった。アリクブケに兵糧を送る気は当初から微塵もなかったであろう。

終戦

 アリクブケはチャガタイ家の裏切りにより、フビライ陣営とチャガタイ家に挟まれると形になり、形勢はより不利となった。
 1261年11月、降伏する姿勢を見せていたアリクブケがフビライの本営を狙って奇襲をしかけるが、精強なフビライ陣営を突き崩すことはできず、食糧不足が解決していないアリクブケ軍は早々に退却した。
 1262年夏、帝国西方のジョチ家とフレグ西征軍がアゼルバイジャンの支配権を巡って内戦を始める。ジョチ家当主のベルケ(バトゥの弟)は消極的ながらもアリクブケの帝位継承を認める立場であったが、フレグとの戦争が始まったことで中央の帝位継承戦争に関与する選択肢は無くなる。アリクブケの孤立は確定的となった。
 1262年冬、いよいよ追い詰められたアリクブケ陣営は兵力に劣るチャガタイ家領に侵攻し、これを占領する。アリクブケ陣営にとって、久々の大きな軍事的成果であったが、ここで大きな失態を演じてしまう。捕虜としたチャガタイ家の兵たちを皆殺しにしてしまったのだ。
 モンゴル帝国はチンギス・ハン以来の征服戦争で苛烈な姿勢を取ることが幾度もあった。しかし、それは異民族を相手としたものであり、同じモンゴル人に虐殺の刃を振るうことは禁忌であった。共同体の利益を守るための大ハーンがモンゴル人を殺戮する行為はあってはならない。
 ただでさえ劣勢で落ち目にあったアリクブケはチャガタイ家侵攻で威信を回復するはずが、捕虜虐殺は完全に裏目となった。アリクブケの威信と人望はこれで地に落ちる。
 翌年、占領したチャガタイ家領が飢饉となる。食糧不足解決を見込んでのチャガタイ家領侵攻は結局何の益ももたらさなかったといえる。
 飢饉によりアリクブケ陣営の食糧不足は限界に達し、残された選択肢は最早、敗北を受け入れることだけであった。
 1264年7月、アリクブケはフビライ陣営に投降し、モンゴル帝国史上初の帝位継承戦争は終戦を迎えた。

新しいモンゴル帝国のかたち

 帝位継承戦争に勝利し、ただ一人の皇帝となったフビライは新たに自身の本拠であった開平、あらため上都と金国の首都であった中都を首都とした。夏はモンゴル高原の上都、冬は南下して中都というように遊牧民らしく宮廷ごと季節によって移動する体制がつくられた。
 そして、フビライは帝国内の有力勢力に自身の大ハーン即位と旧アリクブケ陣営処罰の承認を求めるための真のクリルタイ開催を呼びかけた。
 帝位継承戦争でフビライを支えたチャガタイ家のアルグと東方三王家を束ねるタガチャルはクリルタイへの参加に異論があろうはずがない。
 問題は西方で対立を続けるジョチ家のベルケと中東に独自の勢力圏を築いたフレグであった。両者ともに帝位継承戦争では積極的にフビライを支持したわけではなかったけれども、フビライがアリクブケに勝利したならば、最早フビライのクリルタイ開催に反対する理由もない。ベルケはフレグの出席を、フレグはベルケの出席を条件にクリルタイ出席に同意した。ともに新皇帝フビライが内戦を仲裁してくれる期待もあったであろう。

 しかし、フビライによる統一クリルタイの開催は幻に終わる。1265年から翌66年にかけてフレグ、ベルケ、アルグと有力勢力の当主が相次いで世を去ったためである。 以後、帝国諸王家の当主が全員参加するクリルタイが開催されることは2度となかった。これはモンゴル帝国にとって大きな転換点となった。大ハーンが帝国全土をカリスマ的に支配し、大規模な征服戦争を進める時代が終わりを迎えたのである。
 
 モンゴル本国と中華世界の大ハーンの政権(後に大元帝国)、中央アジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)、ロシア・東欧をにらむジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、イランと西アジアのフレグ・ウルス(イル・ハン国)。モンゴル帝国は大ハーンの地位と権威を認めつつも、諸王家が自立した政権として機能する今日の連邦制のような国へと生まれ変わっていくことになる。
 これを「分裂」や「解体」と表現するのは必ずしも適切ではないだろう。それぞれの政権は表面上、対立することもあったが、帝国全土に張り巡らされた情報伝達と交通・通商のための駅伝制は維持され、イスラム商人を核とした帝国全土をまたにかけた経済活動は各政権に莫大な利益をもたらし続けた。

第14回に続く。

 


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