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【いざ鎌倉:コラム】「承久の乱」の歴史的意味

本編を完結させてから今さらな感じもありますが、今回はコラムとして「承久の乱」を総括したいと思います。

前回記事はこちら。
北条政子についてでした。

承久の「乱」か「変」か問題

さて、前回の北条政子に続いて名前問題。
承久の「乱」か、それとも「変」か。

これ、そもそも、若い人や日本史詳しくない人には存在しない問題でしょう。
いまや歴史教科書、本屋に並ぶ書籍、ほとんどが「承久の乱」で統一されていますので。
ただ、天皇・皇室の権威が高まった大正から昭和初期にかけては「承久の変」と呼ばれることが多く、教科書でも「変」でした。
こうした経緯から<「承久の変」=皇国史観>と見られがちです。
ただ、上皇が臣下である武士に反乱を起こすのはおかしいから「乱」ではなく「変」が正しい、皇室にとっては反乱ではなく変事だという考えは日本語の理解として正しいと私は思います。

一方で、歴史的に見れば長く使われてきたのは「乱」です。
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の側近、北畠親房が著した『神皇正統記』ですら「承久の乱」と表記しています。
「変」が使われるようになるのは江戸時代となってから、水戸学的な尊皇論が成立してからのこと。一般的となっていくのは前述した通り大正時代前後からです。

私も記事を書く中でどう表記するか悩みました。
自分の考えはどちらかと言えば「承久の変」が日本語として正しいと思っていますが、世間に馴染んだ「承久の乱」を使った方が読み手には通りがよいとのは間違いない。
書き始めた当初は「変」で表記していましたが、結局、イデオロギー的な二者択一で見られるのも嫌だなぁと思い、乱でも変でもない「承久合戦」あるいは「承久の戦(いくさ)」を多用しました。
どうしても「乱」を使う必要がある場合は今回の表題のように「承久の乱」と括弧書きとしております。
書き直しはしていないので、初期の記事は「変」となっていると思います。

結論としては、事柄をどう呼ぶかより、その歴史的意味をどう理解するかが重要。
学校の先生はテストで「変」と書く児童生徒がいても間違いとしないであげてほしいです。勿論、「承久合戦」でも「承久の役」でも良いと思います。

名称問題はここまでで、以下、「承久の乱」についてです。

後鳥羽院の戦争目的

後鳥羽院の御前に召された西面の武士(「承久記絵巻」)

本編でも書いた通り後鳥羽院が挙兵に際して発給した院宣・官宣旨は「北条義時追討」を呼びかける内容であり、「倒幕」を呼びかけるものではありませんでした。
ただ、後鳥羽院の本音はやはり「倒幕」であり、「北条義時追討」は、幕府内の反北条氏勢力を味方に付けるための方便に過ぎないという考えもあります。

では、実際の所、後鳥羽院は勝利した際、幕府をどうするつもりだったのでしょうか?
後鳥羽院より後の時代に鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の「建武の新政」は関東の統治機関として「鎌倉将軍府」を設置しました。
私は、後鳥羽院もやはり幕府存続も選択肢の一つとして何らかの統治機関は関東に置いただろうと思います。
ただ、それが仮に幕府を存続させたものであったとしても、後鳥羽院の強い統制下におかれたことは確実であり、史実の鎌倉幕府より大きく権限を縮小されたものとなったことでしょう。
それは我々の知る鎌倉幕府とは全く異なる機関となったはずであり、後鳥羽院の目的が「義時追討」か「倒幕」かの議論はあまり意味がないと私は考えています。

後鳥羽院の誤算、官軍の敗因

敗走する官軍と追撃する幕府軍(『承久記絵巻』)

ただ、真実であれ方便であれ「北条義時追討」を挙兵の目的として反北条氏勢力を結集するという後鳥羽院の狙いはかなり限定的な効果しか生まなかったのは間違いありません。
結局、幕府から後鳥羽院の官軍に加わったのは在京御家人に限られ、関東の有力御家人(足利、武田、三浦、千葉など)から官軍に加わって北条氏の地位に取って代わろうとするものは現れませんでした。

そうさせないために取った北条政子・義時姉弟、大江広元らの選択こそが幕府の勝因だったと言えるでしょう。
後鳥羽院の鎌倉への使者であった押松の迅速な捕縛、後鳥羽院の戦争目的を「北条義時追討」から「倒幕」へとすり替えた政子の演説、御家人に情報収集と選択の時間を与えない電撃的な鎌倉出陣、具体的な恩賞の提示などの手段を矢継ぎ早に選択し、後鳥羽院の狙いを打ち破りました。
軍事組織としての幕府が戦争という専門分野において後鳥羽院を一枚も二枚も上回っていたといえましょう。

そして、後鳥羽院は限られた自身の戦力の中で、三浦胤義や山田重忠といった実戦経験もあり、戦いを理解している数少ない武士たちを有効に活かすことができませんでした。
「大将軍」とされた藤原秀康は、実戦経験も、大規模な武士団を組織できるだけの所領もなく、やはり力不足であったと言わざるを得ません。
当時の官位秩序の中では後鳥羽院は秀康を大将軍とするしか選択肢がなかった(位階では北条義時と同じ従四位下)とも考えられますが、その秀康が胤義・重忠の意見を聞き入れないことで、官軍は幕府軍に対して有効な戦闘行動をほぼ行えず、惨敗に終わりました。

「承久の乱」の歴史的意義

安徳天皇(を擁する平家)への朝敵を起源とする鎌倉幕府にとって朝廷との距離感、公武関係をどう位置付けるかは成立当時から宿命づけられた課題でした。
源氏3代の幕府は「元・朝敵」という立場からの権威向上と正統性確保のために皇室権威が必要であり、距離を縮めることに苦心しました。
源頼朝は東大寺大仏殿の再建に協力し、自身の娘を後鳥羽天皇の后にしようと入内工作に取組みました。
源頼家は蹴鞠に熱中し、後鳥羽院に蹴鞠の師の鎌倉派遣を請いました。
源実朝は父と兄以上に後鳥羽院への忠誠を表し、後鳥羽院の背を追うように和歌の詠作に取組み、自身の後継者として後鳥羽院の皇子の関東下向を望みました。

源氏将軍3代のスタンスは「後鳥羽院にどうお近づきになるか」であり、公武の力関係は明確に「公」が優位、関係性の主導権は後鳥羽院にありました。
この力関係を「武」が優位に大きく変えたのが「承久の乱」でした。
武士という新たな時代の主役による武力が、国生みの神代から地続きの朝廷の武力に完勝することで公武の関係は一変し、中世、あるいは武士の時代の扉が開いたのです。
以後、日本の政治の実権は後醍醐天皇による建武の新政の一時期を除き、江戸幕府が滅びるまで700年近く武家の手にあり続けました。
勝利した武家は皇家、公家を「滅ぼす」という選択は取らず、「政治と軍事の優位を保ちつつ、皇家を頂点とした秩序の中で存在する」という選択を選びました。
この選択は公武関係における先例として武家に引き継がれていくことになりますが、武家の想定を超えて皇家の権威が高まった時、武家の政治・軍事の優位は覆される運命にありました。

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