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【いざ鎌倉(30)】戦後処理と『金槐和歌集』

和田合戦についての話が続きましたが、今回から戦後に話を移していきます。
敵味方に多数の戦死者が出る激戦となり、将軍御所は全焼。さらには戦場で幕府方の脅威となった義盛の三男・朝比奈義秀らは逃亡中。
幕府の戦後処理と復興はこうした状況から始まります。

前回記事はこちら

番外編を2回挟んだので、本編の前回は下記です。

戦後処理

合戦で将軍御所が全焼したため、源実朝は大江広元邸を仮御所と定めます。新造御所完成までは広元邸で政務を執ることになりました。

合戦決着翌日の建暦3(1213)年5月4日、戦場から逃亡した和田義盛の嫡男・和田常盛、その従兄で妹が常盛に嫁いでいた横山時兼が甲斐国で自害しました。両名の首は即日鎌倉へと送られ、固瀬(片瀬)川辺に和田方234人の首が晒されました。

5日、義盛の敗死により空席となった侍所別当に北条義時が任じられました。政所別当と侍所別当を兼務する鎌倉幕府の執権の職はこの時に固まったと言えます。
幕府内では三浦、千葉といった一族も大きな力を持っていましたが、北条氏との格差は大きく開くこととなり、「北条一強」体制が確立します。
以後、鎌倉幕府が滅亡するまで北条一門以外の御家人が侍所別当を務めることはありませんでした。

9日、和田合戦の発端ともなった泉親衡の乱への関与で流罪となった和田胤長が配流先の陸奥で処刑されています。

21日、合戦から2週間後、今度は鎌倉を大地震が襲います。


「音ありて、舎屋破れ壊れ、山崩れ地裂く。この境において近代かくの如き大動なし」

と『吾妻鑑』は記録します。
この後も度々余震があったことが『吾妻鑑』には記録されています。
幕府は戦災だけでなく、震災の復興にも取り組まねばならないことになりました。

戦後の公武関係

幕府にとって戦後の大きな懸念が、和田方残党が京へ入り、後鳥羽院や順徳天皇を巻き込んで新たな騒ぎを起こすことでした。
将軍実朝は合戦の決着した3日には残党討ち取りを在京御家人に指示する使者を送り、加えて9日にも院の御所を守護するように指示しています。
実朝がこうした指示を出したのは、合戦の報を聞き、鎌倉に駆け付けようとした在京御家人が多数いたからです。まさに「いざ鎌倉」なわけですね。
様々な噂が飛び交うことで京の市中は大混乱となり、順徳天皇も在京御家人に対し洛中警護を指示しなければなりませんでした。

この騒動の中で将軍実朝が後鳥羽院に忠誠を誓う和歌として詠んだのが

山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

であると歴史学者の坂井孝一氏が述べておられます。
納得できる見解であるように思います。

結局、和田合戦が波及するような残党による軍事行動が京で行われることはありませんでしたが、鎌倉では将軍御所が炎上する合戦となり、京も混乱に陥ったことで、後鳥羽院がこれまで信頼していた実朝に対し、大きく失望した可能性はあるでしょう。
毎年のように順調に昇進を続けてきた実朝の官位は、この後3年間とどめ置かれることになります。

この年の10月、朝廷は幕府に対し、西国にある関東御領(幕府直轄の荘園)への臨時課税を求めました。
大江広元はこれを全て拒否するべきという強硬な意見を述べましたが、実朝は
「全く納めないなんてことはできない。ただ、突然言われても現地の役人は困ってしまうので、今後は前もって打診してほしいと返信するように」
と指示しています。
後鳥羽院が実朝の名付け親となることに始まった上皇と将軍の協調路線は、和田合戦を契機に一区切りとなり、しばらくの冷却期間を要することになりました。

畠山重慶の討伐

新しい将軍御所の建造について本格的に議論が始まったのは6月下旬のこと。
実朝は図面や障子(襖障子)の絵図にも意見したようです。
8月20日、新御所は完成し、盛大に儀式が執り行われ、実朝は仮御所としていた大江広元邸から移りました。和田合戦から約4か月後のこととなります。

9月19日、畠山重忠の末子・畠山重慶が日光山の麓に牢人を集めて謀叛を企んでいるとの一報が幕府に届けられます。

実朝はそれを聞くと、すぐ近くにいた御家人・長沼宗政に重慶を逮捕して連行してくるよう指示しました。すぐさま出発した宗政は7日後に鎌倉に戻りましたが、重慶を連行せず、討ち取って首を持ち帰りました。
実朝はこれに対し
「畠山重忠は無実の罪で討たれた。その末子の重慶が謀叛を企てて何の不思議があろうか。お前が指示通り生け捕りにして連れてこれば私が罪を決めたのに」
と不快感を示しました。
これに対し、長沼宗政は「荒言悪口の者」と伝えられる元来より問題発言の多い御家人であったようで実朝に反論してしまいます。
「生け捕って連れてこれば、女性の意見を取り入れて無罪になってしまうではないですか。当代の将軍は和歌と蹴鞠を得意とされ、武芸は廃れてしまった。女性ばかり引き立てられ、勇壮な武士は存在しないかのようです。没収した土地も手柄のあった武士ではなく、女性に与えられてしまう」
なかなか痛烈な批判ですね。
実朝が公家文化に傾倒した無能な将軍であったというイメージを形作ったやり取りの1つですが、さすがに言いすぎのような気も……
宗政はこれで3週間の出仕停止となりました。
ただ、殺されても不思議ではないような無礼な発言でもこの程度で許してしまう所がなにより実朝の公家っぽい性格が出ている気もします。

11月10日は先代将軍・頼家の三男・千寿丸が祖母・北条政子の計らいで出家し、栄実の法名を与えられました。この年、泉親衡の乱において大将軍として担ぎだされる計画がありましたから、同じことを繰り返させぬための措置と考えて良いでしょう。

『金槐和歌集』の成立

11月23日、実朝は京の藤原定家より相伝の『万葉集』を贈られています。実朝はこれを喜び、珍重したようです。
そして、源実朝の歌集として歴史教科書にも載る『金槐和歌集』は和田合戦から約半年後となるこの頃に成立したと見られます。
『金塊和歌集』の原本は伝わっておらず、写本として「定家所伝本」と「柳営亜塊本」の2種類があり、後者は前者を改編したものです。
「定家本」には藤原定家による「建暦三年十二月十八日」という奥書の日付がありますので、この時までに成立していたと考えられます。

名前の「金塊」ですが、「金」は鎌倉の「鎌」の字の部首から、「塊」は大臣の唐名(中国風表現)の塊門から取っていると考えられます。なので「金塊和歌集=鎌倉(右)大臣和歌集」なのですが、建暦3年時点では実朝は大臣ではありませんので、名称は後になってつけられたことが確実です。

歌集が実朝の自撰なのか、あるいは他撰なのかわかっていません。
他撰であるとするならば、それは実朝が和歌を送り、添削と指導を求めていた藤原定家以外には考えられません。
ただ、この年は12月6日に改元され、「建保元年」となります。
前述した奥書の「建暦三年十二月十八日」は改元が反映されていないことになりますので、これは朝廷の中枢にいた藤原定家が書き間違えたとはちょっと考えづらい。
そうなると当時の情報伝達のスピードの問題で改元を知らなかった実朝が自撰し、奥書の日付まで入れたものを定家に送り、定家は敢えてそのまま書き写したと考えるのが一番腑に落ちます。
改元を知っていてもうっかり元号を書き間違えるなんてことは、これをお読みの方でも2年前に経験したばかりという人もいるでしょうから、この考えも絶対ではありませんが(苦笑)

なお全663首からなる「定家本」の『金槐和歌集』ですが、その最後の663首は、上述した
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

の後鳥羽院への忠誠を誓う和歌で締められています
「山が裂け、海が干上がるような世になっても、後鳥羽院に背くような思いは絶対にない」
実際に鎌倉では大地震によって山が裂けるような世になったわけですが、やはりこの和歌が『金槐和歌集』の意味を教えてくれているような気がします。
和田合戦後の後鳥羽院の失望に対し、関係改善を願う実朝が藤原定家を仲介として『金槐和歌集』を送ったと考えるのが自然ではないでしょうか。

次回予告

将軍実朝と栄西

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